サンディエゴの馬乗りたちは

やがて来る嵐を見るか







 夜明け前には自然と目が覚める。時々、そんな朝がある。約束をしたかのようにぼくらは同時に目覚めベッドの上で顔を見合わせる。まだちょっと眠気の残る声でおはよう。ジャイロは口元は閉じてるけどにまにま笑って楽しそうだ。
「休みなの?」
 と尋ねると、
「おまえもだろ?」
 と当たり前のように言われる。
 顔を洗い朝食とジャイロのコーヒーで目をきっぱり目覚めさせて、しっかり靴紐を結ぶ。
「行っか!」
 玄関のドアを開けてジャイロが言う。廊下の端から射してくる朝日の眩しさに目を細めながら、ぼくは素直に、そして子どものように元気よくうなずく。
 ぼくとジャイロの関係の始まりは医者と患者だとか、あのコーヒーショップでの週末ライブだとかって思われていることが多いけど、実際にぼくが彼に対して友情を感じ始めたのは乗馬クラブに連れて行かれてからだ。時期的にはコーヒーショップでの再会の後、ジャイロとバンドを組む前のこと。二年前の栄光と挫折が祟って、店の客にぼくの素性を知られてしまい物凄く居づらい空気になった所を無理矢理ジャイロに引っ張られていった。
「何するんだこの野郎」
 無理矢理乗せられた助手席で喚いてもジャイロは聞く耳持たず。
「勝手にバイトを抜け出して、オレがクビになったらあんたのせいだからな!」
 無茶苦茶に脚を動かしてそこかしこを蹴ってやると、ジャイロはいつものニョホって笑いじゃなくてにたーっと笑って言った。
「動くじゃねーの、脚」
 で到着したのが乗馬クラブで、ぼくは少し血の気が引く。馬が…乗馬が嫌いになった訳じゃない。ぼくの怪我は馬に乗っていて負ったものじゃないから。でもそのことこそが、乗馬以外のことでジョッキーとしての人生を棒に振った罪を重く知らしめて、こわい。ぼくはぼく自身の人生だけじゃなくてもっと大きなもの、ぼくの信じていたもの、ぼくが好きだったもの愛したものも全部裏切った――現在進行形で裏切っている――ような気がして、馬と目を合わせることができない気がした。
 でもジャイロは立ち竦んでいるぼくを引き摺っていって、彼の馬に会わせたんだ。
 ヴァルキリー。
 気高くて、すごく…すごくって表現しか出て来ないんだけど、本当にすごく美しい馬だと思った。
 ジョースター家は代々馬乗りの家系で、ぼくも小さい頃から、それこそ物心のつく前から馬が自然と視界の中にいる生活だった。色んな馬を見てきたし、乗った。そしてどんな馬でも、ぼくがちょっと本気を出せば誰が乗るよりも速く走れるんだって思ってた。
 でもヴァルキリーを目の前にして思い出したのは初めて馬に乗った日のことで、あの時感じた、ぼくを乗せてくれる馬を尊敬する気持ち。そして実際にその背に跨がり、じわじわと身体の奥から湧き上がってきた興奮。
 ぼくはヴァルキリーの背に乗って柵の周りを一周した。ゆっくりとしたスピードで。何も命令しないで、走るのはヴァルキリーにまかせて、ただ真っ直ぐ景色を、空を見上げた。広い空に、秋の午後の明るい太陽。一周してジャイロのもとに戻る頃にはすっかり子どもの泣いた後みたいなさっぱりした気分になって、ぼくの脚を竦ませていた恐怖も、ジャイロに対する怒りも、勝手に抜け出したバイトのことも、ぼくの脚がまだ蹌踉めくことも忘れていた。下りようとして脚に力が入らず転げ落ちようとしたぼくをジャイロは受けとめ、ニョホ、といつもの笑いを浮かべた。
 そうして僕らはまず乗馬クラブに通うようになり、ぼくはなけなしのバイト代を馬に乗ることに費やし、ぼくをここに導いてくれたジャイロをちょっとずつ信用するようになる。
 更にここに通うことが楽しみになったのは、スロー・ダンサーとの出会いだ。
 厩舎の隅に老いた馬がいた。もう十一歳になる馬で、昔はもっと艶々して綺麗だったんだろう毛色の斑紋もくすんでしまい、最近では餌も食べなくなったと厩務員が喋っているのを聞き、見に行った。
 ぼくが近づくとスロー・ダンサーは興奮し始め、ぐるぐる回って脚を踏み鳴らし始めた。最近弱ったのは餌を食べないせいで、それまでは暴れてどうしようもなかったって厩務員は言った。マウンテン・ティム――後で知り合いになる警官の男だけど、彼は天性の馬乗りらしくて、馬の方が彼に敬意を表して自然と頭を下げるという伝説を持つ男だが、その男の手からも餌は食べなかったらしい。
 そういう馬にどうして会いに行ったんだろう。年老いて走らなくなった馬って聞いた同情だろうか。自分の身の上と重ね合わせるものがあった…?しかし偶然にしろ運命にしろ、ぼくはスロー・ダンサーと出会った。
 柵を蹴飛ばして壊し、スロー・ダンサーはぼくの前にぬっと顔を出した。周囲は悲鳴を上げようとしてぐっと堪える。ぼくは…。
 ぼくはスロー・ダンサーの目の前に立っても恐くなかった。
 初老の馬。荒く息をついている。目がぎろぎろと動き、ぼくを見つめる。
 鼻面が近づいてぼくの匂いをかいだ。ひん剥かんばかりだった目が柔らかく潤む。スロー・ダンサーは静かに首を垂れ、ぼくの顔を舐めた。その瞬間、ぼくも何か言葉にならないものが胸の奥からぶわっと湧き上がるのを感じた。ディジャヴのような、もしも前世というものがあるとしたらその頃から知っている昔馴染みに出会ったかのような。会ったばかりなのに、顔を舐めてくるその馬が懐かしくて、嬉しい。ぼくは顔をべろべろ舐められながら、泣く。唾液まみれになって、泣く。イヤだからじゃない。涙が溢れる。
 スロー・ダンサーと一緒にへろへろになるまで走って、また脚が立たなくなるが、ジャイロはそんなぼくを黙っておぶってくれる。
「なあ、おまえらを見てたら、今世紀最大の傑作が浮かんだぜ」
 ジャイロはちょっとの笑みとちょっとの真剣みをまじえ、背中のぼくに言った。ぼくはそれを信じることにした。その後、コーヒーショップでやった週末のライブは『これがオレの一週間』っていう、ある意味今世紀最大の何かを感じさせる一曲だけだった。歌・ジャイロ、ギター・ぼく。
 ジャイロ的にはこれ以上ないくらいのライブだったらしくって、かれはぼくをおぶったまま上機嫌でアパートの階段を上った。そしてイタリアンコーヒーで乾杯。思い出せば、ぼくが彼の部屋に居候するようになったのはこの日からだ。
 車から降りたジャイロが手庇を作って遠くを眺め
「変な帽子、めっけ」
 と言った。今日は先にマウンテン・ティムが来ている。
「ジョニィ・ジョースター、ジャイロ・ツェペリ」
 馬の上からぼくらに手を振るマウンテン・ティムは完全にカウボーイの格好だ。時々、生まれてくる時代を間違えた、と言っている。
「自動車が発明される前の時代に生まれていたら、面白かったろうな」
 本当は今にも警察を辞めてカウボーイに転職したいマウンテン・ティムがサンディエゴにいるのは、あのルーシー・スティールに惚れてるからだって。
「ロリコンかよ」
 とジャイロが言う。
「それを言うなら君んとこのオーナーもロリコンなんじゃないの」
「そういう話は本人のいないところでやれ」
 マウンテン・ティムはカウボーイさながらに投げ縄を振り回しながら言う。
 そんな彼もまた馬が好きで暇があればここに来ている、ぼくらと同類。ぼくとは一回りも違う大人だけど年の差とか――それどころか彼はぼくの素性も知っていたけど、そういうのも全然気にせず気さくにつきあってくれた。ジャイロも、彼のことを変な帽子だとかロリコンとか色々言うけどこの男が結構気に入ってるらしい。
 でも馬に跨がって三人並べばライバルだ。ぼくらは思い切り馬を走らせる。こうして走っていると昔からの知り合いみたいな気がして、ぼくはどんどん彼ら友達が好きになる。本当に前世とか、何か因縁があるんじゃないのか?
「な、スロー・ダンサー」
 首を撫でると、ぼくの馬はいななき返事をする。

 昼食を摂っていると、外が騒がしくなる。
「何だろう」
 ぼくは振り向くが、ジャイロもマウンテン・ティムも無関心だ。彼らの関心は皿の上のサンドイッチにある。
 そのうち表にピカピカのロールス・ロイスが滑り込み、ぼくは首筋の毛がぞわっと逆立つような感覚を覚える。ぼくが急に険しい目をしたのに二人が気づいて、ようやく顔を上げる。
 車から出てきたのは金髪の綺麗な顔の男だった。いわゆる美男子で、その綺麗さが胡散臭い微笑にも、すらりとした体格にも、ぼくは見覚えがあった。
 それどころか何度か悪夢で見たことがある。
 ぼくはテーブルに向き直る。目の前の二人はぼくの頭越しにこちらへ歩いてくる男を眺めている。帰ろう、と言いたかったが、ここで立ち上がれば真正面からご対面だ。でもこうやって背を向けて逃げているのも…すごく気分が悪い。
「誰だ?」
 ジャイロが尋ねる。
「見ない顔だが…直接見たことがない、という意味だ」
 マウンテン・ティム。
「ディエゴ・ブランドー」
 敢えてぼくからその名を口にした。
「競馬界の貴公子、ディエゴ・ブランドーさ」
「Dio?」
 そう、そのディオだ。ぼくがジョッキーだった頃、一度も勝つことができなかった相手。彼の出る大会では必ずぼくは二位だった。あいつが一位だった。
 もちろんその悔しさもあるし、それは今でも消えない。ぼくと父の関係が悪くなった原因は、ぼくがどうしてもディエゴに勝てなかったというのがある。そのたびに父は言った。――ニコラスさえ生きていれば…。
 ディエゴに勝てないままぼくは競馬界を去り、そして今ようやく再び馬に乗り始めたんだけど、復帰するとかそういう考えが浮かぶ前にディエゴは引退を決めた。ついこないだのこと、一月の大会で見事優勝し、その場で突然引退を表明したのだ。理由は明らかにされていない。でも…そのディエゴがどうしてここに?
「おい、こっち来んぞ」
 ジャイロが肘でつつく。ぼくは振り向く。
「やあ、君には見覚えがあるよ。たしかジョナサン・ジョー…」
「死ね」
 思わず口をついて出た第一声がそれで周囲の空気が硬直する。でもそれはどっちかというとディエゴの周囲の話で、ジャイロはめちゃめちゃウケたらしく笑うのを我慢してるし、マウンテン・ティムはと言うとぼくの言葉遣いの悪さをたしなめる目をしていた。
「いきなりご挨拶じゃあないか、ジョナサン・ジョースター」
 こいつ、いちいちぼくの顔と名前なんか覚えてたのか。
 ディエゴ・ブランドーと言えば競馬界の貴公子っていうのが代名詞だけど、その実汚い男であることはこの業界では結構知られていて、自分が頂点に上り詰めるためだったら手段を問わない、敵に回したくない男っていうか、敵に回るのは分かりきってるんだからとっとと撃ち殺してやった方が世のためなんじゃないかってぼくは思ってる。
 そういう思いが目に出ていたのか、さっきまでおかしそうにしていたジャイロが今は真顔になって、おいジョニィ、って耳打ちしながら腕を引っ張る。
「ぼくに何か用か」
 冷たく問うとディエゴは頬を擦りながら――何故か大きな絆創膏をしている。頬に大きな傷が走っているように見える――いやらしく笑う。
「何も用はないさ。いつもオレの下にちらちら見かけた顔があったな、と思ってね。懐かしくて思わず声をかけた。脚は治ったのかい、ジョジョ?」
 ジョジョ――あの頃、馬に乗って一位を走っていたころ、皆が親しみを込めてそう呼んだ。ジョジョ、ジョーキッド…。
「ジョニィ」
 急に強く腕を掴まれる。ジャイロが恐い顔をしてぼくを見ている。
「友達の無礼は謝るぜ。いきなり死ねはねーもんなぁ。でもあんたもオレの友達を侮辱するのは…なしだろう?分かるよな、おたくもよぉ」
 ディエゴはしばらくにやにやしていたが急に腰を折って、失礼した、と言った。
「君が不幸な事故に遭ったのは知っているからね。しかしもうお互い競馬界は引退した身。それでも再会したのは神の思し召しだろう。オレも別段敵を増やしたい訳じゃあない。特に有権者は大事にしたいと考えている」
「有権者?」
「今度、このサンディエゴから下院議員に立候補することになった。清き一票を頼むよ」
 笑顔を振りまいて立ち去るディエゴをぼくらは黙って見送った。見ると、トラックからディエゴの愛馬、シルバー・バレットが下ろされるところだった。あいつ、本当にここに居着くつもりなのか。
 なおもぼくがその背中を睨みつけていると、また「ジョニィ」と呼ばれて腕を強く掴まれた。ぼくの手の甲には小さな星形の痣がたくさん浮かんでいた。
「…大丈夫だ、ジャイロ」
 ぼくは手を引っ込める。マウンテン・ティムがコーヒーのおかわりを注文してくれたが、それはあまり美味しくなかった。

 アパートに戻りシャワーの雨に打たれていると、ガラス戸をノックされた。
「ジョニィ?」
「平気」
「つってもいきなり死ねはねーだろ」
「もういいだろ」
「いーけどよぉ。別におまえさんの問題だ。オレが気にするこっちゃねえ」
 でもジャイロはガラス戸の外で乾いたふかふかのタオルを用意して待ってくれていて、髪をわっしゃわっしゃ音立てて拭いてくれた後、とっておきのギャグを披露してくれる。
「いいか、これは一回こっきりの特別バージョンだ」
 『これがオレの一週間』ギャグバージョン。
 本当に色んなことがどうでもよくなる。
「どうよ、ギャグバージョンもどうよ。これいけるんじゃね?」
「うん、曲がついてるのと違って、よりシンプルになった分、幸せそうな感じがフィーリングで伝わってくるよね。メロディの消失によって時間の概念が失われた感じがすごくいいよ」
 ジャイロは楽しそうに笑い、ぼくに手を伸ばした。
「さ、飯だぜ」
 ぼくはその手に掴まり脱衣場の床から立ち上がる。ダイニングに向かうジャイロの背中を見ながら、ぼくはその背中につかまりたいのを我慢する。手助けをしてもらって、せっかく立ち上がったんだ。もう少し自分で歩かなくては。
 夕食の席で、ジャイロはテーブル越しにぼくの手を掴んだ。
「もう、あんな場所ではやめるんだ。ジョニィ」
「分かってる」
 指先、手の甲から手首にかけて散りばめられた星形の痣。ぼくの目の中にある暗い感情。ジャイロが危惧しているもの。
 ぼくがリヴォルヴァーを持っていることをジャイロに話したことはないけど、ジャイロは知っているのかもしれない。
「大丈夫…」
 ジャイロの手を握りかえし、その柔らかさに驚きながら、ぼくは俯き小さな声で繰り返した。




2013.2.15