濡れ事




 もうすぐ雨の降るようなもったりとした熱気が季節も忘れさせ、曇り空のだんだん暮れてゆくのが汚れた窓越しにぼんやりと見えた。油膜の上に映った景色のようで、どうも現実のものとは思われなかった。現実だと呼べるものは自分の肩を掴む力の強い手の他になかった。自分の身体さえどこからどこまでなのやら。例えば乱れ髪のはりついた頬や、荒い息に鳴る喉はまだ繋がっているらしいが、足先など熱気と一緒に布団に溶けてしまったかのような重たい肉の塊でしかなかった。
 日が暮れる。店を開けなければならない。伸ばした手を無骨な掌が掴まえ、留め、引き戻す。いる蔵は一声、喉の奥で泣いて振り返った。堀田の恐いほど見つめる目が伏せられ、熱く吐く息が耳元に鳴る。
「行くな」
 馬鹿言え…、という胸の呟きは掠れ声にすらならず、いる蔵は涙の余韻の息を漏らしながら崩れ落ちるままにゆっくりと伏した。堀田の肉体の重みが背中からいよいよのしかかり、潰された肺の吐き出す息にのせてかすかな嬌声が響いた。
 師走の空は完全に暮れてしまい、ねっとりとした黒い街にぽつぽつと明かりがともる。滲んだ染みのそのどれも、当たり前の夕飯と当たり前の夜がこの部屋の外には訪れている証なのだと思うと、このまま部屋に鍵をかけてどこか橋の下、黒い黒い水の渦巻く底へ沈めてしまいたいと思った。
「いい……」
 思わず出た言葉を、自分の口から出たものとも分からぬ間に、いい、と繰り返す声は艶めいて、肩を掴む堀田の手に更に力が籠もる。密着した腰を揺すぶられ、いる蔵は薄い布団に顔を埋め高い声を堪えた。
 外ではぬるく溶け出した雨が降り出したのにも二人は気づかなかった。
 小料理屋の前では千代助が雨宿りをしていたが、いつまで待っても店の開く気配がないので悪態を吐きながら雨の中を飛び出していった。
 黒鉄がいつもより手前の駅で降りて、黒いこうもりを差しもせず雨の中佇んでいた。
 視線の先ではハム爺が孫ほども歳の離れた若造の傘の下で機嫌よく笑っていた。
 自転車屋はビニールの庇を仕舞い、古タイヤを積んだ上に軽く腰掛けて煙草を吸っていた。足下には練馬がもらい煙草をして、小料理屋のおかみのことを嬉々と噂していた。もちろん自転車屋も喜色満面なのは言う間でもない。煙草を継いだのは噂話の絶えないのと、ガリ男が洗面器片手に手ぬぐい引っかけて迎えに来るのを待っているからだった。
 たとえ二人だろうとも傘一本あれば間に合う面々の話である。いる蔵と堀田もそうなのだった。雨漏りが畳みの上で湿った重たい音を立てた。ようやくいる蔵が雨に気づいた。頸を伸ばすと何を思ったのか堀田の唇が目元を這った。誰が泣くかと思ったが、いる蔵は雨に気づいても自分の目から溢れているものには気づいていなかった。
「馬鹿」
 囁いて、肩を押さえつける手をようやく振り解き、唇を寄せてきた相手の口の端を噛んだ。