小料理屋まぼろしの日常




 もう随分厳しくなった寒さがつんと鼻を刺す。乾いた風は頭上に渡された紅葉の造花をカサカサと鳴らし、星の冴え冴えと光る遠い夜空へ吹き抜けていった。商店街のせめても盛り上げようという紅葉も、幟も、人通りの少ない路地の端に来ると逆にわびしい。
 堀田は一軒の小料理屋の前で足を止めた。換気扇からはいつもの煮物の匂いの混じったぬるい空気が吐き出され、その下に太った猫が一匹、億劫そうに蹲っていた。猫はちらと視線を上げ、自分を見下ろす人間の顔を見たがすぐに興味が失せたように香箱を組む。堀田はそれを片手で持ち上げようとして引っ掻かれ、むりやり抱いて足で小料理屋の戸を開けた。
「よう」
「ああ」
 いつものやる気のない返事が一転、カウンターの中からは急にヒステリーじみた声が飛んだ。
「ンな汚ぇもん捨ててこい! 昨日もゴミ箱倒しやがったんだ。おい堀田!」
「可愛いじゃねえか」
 暴れる猫を両手で押さえつけながら堀田は笑う。
「絶対許可しねえ! 捨てろ! 捨ててくるまで絶対に入れねえからな!」
「いるー」
「許可しねえぇ!」
 堀田は笑いながら表に出た。その時ちょうどこちらに歩いてくる人影がある。どちらも痩せていて立ち姿がきれいだ。格好さえ整えれば掃き溜めに鶴と言って差し支えのない相手だが、そんな上等なもんじゃあねえ、と本人は言う。
「ハム爺」
 片手を挙げたのをいいことに、猫は太った身体に似合わぬ俊敏さで腕の中から逃げ出した。
「逃げた」
「汚ェ猫だな」
 小料理屋の明かりの下に来た爺は唇を歪めて猫の去った方を見遣る。もう一人の痩せた男、ガリ男は明かりよりちょっと下がった所に立ち堀田の挨拶に目顔で応える。とは言え、改めて挨拶することもない、日の暮れる前は同じ現場で働いていたのである。
「爺さんも来るんなら待ってやったのによ」
「年寄り扱いするんじゃあねえ」
「年寄りじゃねえか」
 戸口で喋っていると、いつまでぺちゃくちゃやってんだ寒いだろうが!とまた店内から怒鳴られた。戸は半分開いたままだ。結局ぞろぞろと店に入る。が、いらっしゃいの一言もない。堀田が黙って座る横で爺さんが小言を言う。
「親しき仲にも礼儀ありってな、てめえにゃシャバのしきたりってぇものが分かってねえ。ああ、いる蔵」
 安手の着物を隠す白い割烹着。三角巾を被ってはいるものの、結った黒髪はだらしなく肩に垂れている。どこで曲げた性格か、直らないまま一番似合わぬ客商売を生意気な態度で続けるいる蔵も、ハム爺には弱かった。小言が身嗜みにまで及んだところで堀田は爺さんを席に促し、いる蔵は酒を支度する。
「女将」
「だから女将じゃねえよ!」
 男である。
 ぼそりとそう呼んだのは入口脇に佇んだままのガリ男だった。
「あれ」
「あ? いたのか、ガリ男」
「………」
 ガリ男は空の弁当箱を差し出し、煮物を詰めてもらう。
「おいガリ男よ」
 ハム爺は矛先をガリ男に向けた。
「てめえ部屋じゃ恋女房が待ってるんじゃあねえのか。こんな不味い飯詰めてもらう前になあ…」
 しかしガリ男は返された弁当箱をまた丁寧に包み、爺さんにちょっと笑みの混じった会釈をしただけで、「そうだよ」と言葉ではない決着をつけさせてしまう。ハム爺の小言は言葉で聞くものではない。心で聞くものなのだ。
 ガリ男が帰ってしまい、堀田は急に黙り込んだハム爺に熱燗を差す。あいつも丸くなったな、と爺さんはぽつり、呟いた。
 不味い飯といいつつハム爺はぺろり平らげ、こんな薄い酒で酔えるかと言いつつほんのり酔って帰った。カウンターの中で溜息をつくいる蔵に、堀田は徳利を傾ける。
「今日は随分食らったなあ」
「おまえが猫なんか連れこまなきゃ、いらっしゃいの一言くらい言ったんだオレは」
 ぬる燗だが、と注がれたのをくいと飲み干し、次は何食いたい?と尋ねた。
「そりゃアレか」
「アレって」
「お前って答えてやるのが男の甲斐性かと思ってよ」
 するといる蔵は、これだから客商売が向かないと来る客全てと言わず界隈からも呆れられるのだという人を見下しきった顔で言った。
「おまえ、本当に馬鹿だな」
 こんな性格の悪い男に惚れているのだから馬鹿に違いないと堀田は己のことを思っている。