浅信組忘年会の後




「傍目にゃ男やもめだが、お前に言いたいことがある…、歌っていただきましょうガリ男さんで『関白宣言』!」
「よっ!待ってました!」
 平次が乗せて千代助が囃し立てる。
「ここは歌声喫茶じゃねえぞ!」
 おかみが怒る。
 忘年会と名のつくほどではないが、師走の、小雪のちらつく晩である。賑やかさねば寂しい金曜の晩であった。赤提灯に縄暖簾と、どこも戸から繁盛の気配を滲ませている。小料理屋まぼろしも今宵ばかりはそのおこぼれに預かった。が、面子は変わらぬ。相変わらず浅信組の見慣れた顔ばかりカウンターに並んでいた。
 ガリ男が歌い、千代助が合いの手を入れる。平次の手拍子に堀田も合わせた。いる蔵が睨んだが気にしない。
 真ん中ではこの騒ぎに関わらず、気持ちよく酔ったハム爺がつっぷして寝ていた。
 常より接客業のせの字も知らぬという面のおかみである。おおよその酔い潰れる頃には自分もカウンターの端に座って抓んでいた。他に客がきたらどうするのだと言いたいが、常連の他来る客もない店である。堀田も承知している。しかし時計もかなり進んだか。宴もたけなわですが・・・、というやつだ。
 一人、顔色の変わらぬ若造に声をかけた。
「平次、こいつら適当なとこまで送ってくれや」
「でも兄貴が…」
 平次は隣の席のハム爺を気にする。
 堀田は去年のことを思い出し、笑った。
「今起こしたら恐ぇぞ」
 すると若造はぶるっと震え上がり、会話だか説教だか喧嘩だかを繰り広げる千代助とガリ男を促して立ち上がった。ハム爺がカウンターに伏して寝ているのにどうしても後ろ髪を引かれるようだったが、逆に酔っ払った千代助が首根っこを引っ掴んで引き摺り出す。小料理屋は急に静まりかえり、ラジオから流れるやけに物悲しい演歌がそれを引き立たせた。
「てめえも帰れよ」
 おかみはカウンターの端に腰掛けて頬杖をつき、完全にやる気をなくしている。堀田は黙って空いた皿を流しへ運んだ。そのまま洗い物を始めると、おかみは喜びもせず。
「なんでてめえがやってんだ」
「悪いか」
「ここはおれの店だ」
「なあ、おかみ」
「おかみじゃねえよ」
「たまにゃあ、こういう賑やかなのもいいだろう」
「そりゃアレか、いつも客がいねえって言いたいのか」
「いねえだろ?」
「うるせえ」
 おかみはぶつぶつ言いながらほつれた髪を耳にかけ、カウンターの中に入った。
「どけ」
「皿くらい洗える」
「その絵皿いくらすると思ってんだ」
「安物だろう。それより一杯」
「一杯やってどうする。誰が片付ける」
「なあ……」
 不意に、堀田自身も驚くほど顔が近づいて、自分の吐いた酒くさい息がおかみの頬にかかったのをかすかな吹き返しに感じた。
「こういうのも悪くない…」
「悪い」
 意固地になったおかみが顔を背けるのを濡れた手で掴んで、おかみ、と耳元に呼ぶ。
「一杯やろうや。たった一杯だ。そしたら……」
 腕の中でおかみの身体が震え、それをぐいと引き寄せた時、がらりと戸の開く音に弾かれた。
 まるでビー玉のぶつかり合うように一瞬にして視線がバチッと、身体がどんっと、ぶつかり離れ、流しの皿ががちゃがちゃと鳴った。戸からは身体の大きな男がぬっと顔を出して、やってるか、と低く沈んだ声で尋ねた。
「やってねえ!」
 おかみが叫んで返した。
「ハム爺」
 男は構わず店に入り、カウンターに伏した老人の肩を軽く揺すぶった。
「もう仕舞いだと」
「ああ?」
 ハム爺は唸りながら顔を上げる。
「なんだ、ええ、お前かよ。若造どもはなあ、みんな飲みつぶれっちまってしょうがねえ。どうしたい、おい、お前は飲み足りないか」
「河岸を変えよう」
 男が立たせるとハム爺は急におとなしくなり、いいや、ジジイに深酒は毒だぜ…、と素直に男の肩につかまった。
「家、知ってるのか?」
 堀田が背中に尋ねると、
「これから聞く」
 と男は朴訥な返事をした。
「てめえんちでもいいんだ」
 ハム爺が脚を蹴る。男は堀田を振り返り、ちょっと眉を持ち上げてみせた。
 二人が出て行くといよいよ小料理屋は静かになった。むしろ白けたような空気だった。演歌も終わり、なんだか最近流行の空元気なような歌が流れ始めて、堀田がラジオを切ると、どうして切るんだとおかみが怒った。
「もう客なんて来ねえだろ」
「勝手に決めるな」
 おかみは泡の立つ流しへ乱暴に手を突っ込み、色皿を乱暴な手つきで洗い、不意に肩を落とした。堀田は手を伸ばしカウンターに残ったビールを取り上げ、口づけに呷ろうとした。
「暖簾…」
 おかみが呟いた。
「下ろしてこい」
 ビールは唇の端を流れ落ちて襟を濡らした。堀田はそれをぐいと拭いカウンターを出た。戸を開けると冷たい風が吹き込んだ。暖簾を下げ戸の鍵を詰める。おかみがすっかりぬるくなった燗を一口呷る。唇がぬるりと濡れた。手前のスイッチを落とすと閉店の暗がりがそれまで騒がしかったカウンターを占め、店の奥の小さな明かりにおかみの姿が影になった。堀田はもう我慢しなかった。
 三角巾を奪い取れば黒い髪が乱れ、その隙間からおかみの濡れた目がこちらを見上げる。おかみが店の奥に駆け込んだところ、長い暖簾の影になったところでその身体を捕まえ、引き寄せればもう抗う力もなく二つの身体は床に崩れ落ちるのだった。