自転車屋の倅、瓜田あらわる




 小料理屋で出会った作業着姿の男は自分たちと齢も近いようで、最初はにこにこ笑いながら寄ってきたのに千代助がやたらと警戒していたのが、一杯酌み交わしたところからいつの間にかオー・ソレ・ミオを合唱し、「うるせえ!」とおかみから叩き出された。いつもなら沸騰した薬罐のようにカンカンに怒る千代助がしかし今日会ったばかりの男と肩を組んで声高らかにオーソレ・ミオときたものである。
「誰だ、ありゃあ…」
 ハム爺さえぽかんとして追い出された二人を見送った。ガリ男がぽつりと、自転車屋の…、と呟く。
「ああ? 瓜田の倅か。大学にやったってぇ話だったろう」
「やめたらしい」
 勿体ねえ、とハム爺は一杯空け、ガリ男が黙って新しいのを注いだ。
「いつから来てる」
 堀田が尋ねると、いる蔵はまた眉間に皺をよせて、ああん?とまるでなっていない返事をしたがハム爺の手前あまり不機嫌でばかりもいられない。
「さぁ……いや、初めてだ」
「一見だ? めちゃめちゃ馴染んでたじゃねえか」
「オレに言うなよ」
 いる蔵は追い出した二人の皿を下げ洗い物に突っ込んだが、それがいつの間にかオー・ソレ・ミオを口ずさんでいる。耳について離れない歌というのはあるが、あの瓜田という男が歌うと尚のこと耳にこびりつくものがあった。ハム爺がこれ以上は聞いてられんとばかりに席を立ち、ガリ男がお伴をつかまつる。さっきまでの賑やかさが急に途絶えて、おかみはようやく自分の鼻歌に気づいたようだった。堀田はカウンターに頬杖をつき、みるみる赤く染まる顔をにやにやと眺めた。
「デュエットしてやろうか」
「う、うるせえ!」
 今夜はうるさいとしか叫んでいない。
 それから時々瓜田の倅は顔を出し、猥談でカウンターを盛り上がらせた。だが最初の夜、肩まで組んで合唱をした千代助がこの猥談には思いの外のらず、そう堅物という訳でもないはずだがと思っていたら巡り巡って千代助が童貞だということが分かってしまう。やはり小料理屋でのことだった。いつも人を見下した態度を取るいる蔵がそこで笑い出さなかったのは好プレーと言わなければならない。だが笑いは堪えている様子である。堀田とハム爺はしまったという顔をした。それは千代助本人を慮ってのことでもあるけれど、千代助がキレるというか、本気で怒り出した日には何人たりとも止めようがないのである。右に転べば阿鼻地獄、左に転べば叫喚地獄といったどう転んでも今宵は血を見るかもしれんと覚悟諦念する中で、しかし瓜田だけが満面に笑みを浮かべて千代助の両手を握りこう叫んだ。
「素晴らしい! 君は本当に素晴らしい、最高だ!」
 本当に、大声で叫んだのである。声は熱っぽく、頬は紅潮さえしていた。今度は千代助が硬直する番だった。
 以来、特にわだかまりもないらしい。不思議なコンビだと堀田は思う。酒を飲みながら瓜田はセックスの素晴らしさについて滔々と語る。それはもう猥談なのだか講義なのだか。インドの古い書物だという図画の写しをカウンターに広げ性交の体位について語る様は楽しそうで、
「お前らここでおっぱじめるんじゃねえぞ」
 とおかみがからかうと千代助も怒ったが瓜田も
「場と雰囲気、つまりシチュエーションとセッティングがいかに重要か、あんた分かってないのか!」
 と妙な怒り方をしたが至極真面目に怒っているらしかった。しかし堀田から見ても、まるで二人の初夜をいかに作るか、という話に見えて仕方がなかったのだが。