遣らずの恋




 いずれ自分も老いて死ぬのか、と考えた。梁の上、屋根の上、落ちた職人の話は聞くし自分にも決してない話ではない。死を感じたことは――若い時分のやんちゃも含めて――一度二度となくある。しかし今、高い煙突から立ち上る白い煙に、自分もいつの日か確かに死ぬのだと、身体も焼かれ灰になるのだという思いがじわじわと広がり生身の身体を冷たくし、堀田は少し寂しい表情になった。オレの惚れた男もいつか死ぬのだ。抱く身体も骨と灰になって還らないのだ。
 今まさに惚れた相手が白煙となって天に昇る様を眺める隣の男の表情はとらえがたかった。常より大きく表情を動かす男ではない。だがわずかに丸まった背やぼんやりした視線、疲れたような顔色に、やはりこの男も寂しいのだろうと見当をつける。悲しいのかもしれない。言葉に押し込めるには、堀田も何とも言い難い気分だった。空を見上げれば立ち昇る煙に、ああハム爺は死んだのだなと再び思う。思い巡らせ明日のことやら現場のことやら考えていると、そこにはハム爺がいるような気がしてしまう。喪失感と同時に日々の景色の中に欠くことのできない存在がいまだ消えるには早いと当たり前のように瞼の裏に現れ、そこにまだいるような、だが胸に空いた穴は確かにハム爺の死が空けたものだという事実…。
「寒い十二月」
 出し抜けに黒鉄が呟いた。
「…は?」
「ハム爺はどんな季節に逝っても、どんな見送りの景色も似合っただろうと俺は何度も想像していた。春、桜の散る下はきっと似合うだろう。夏の日射しと蝉時雨に送られるのも味だろう。秋の紅葉に彩られる旅立ちは華やかであの人らしいだろう。冬の雪は凛として彼らしくていいだろう」
 言葉が途切れ、二人は冬枯れの木立がぽつぽつと並ぶ景色を見た。
「この寂しい景色さえ、あの人の背が語るようで」
「頭いいんだな、あんた」
「あの人のことを考えているだけだ。俺はずっと考えていた」
「爺さん、あんたのことはあまり喋らなかった」
 ふと黒鉄の口元がゆるんで何事かを呟いた。それが堀田にはよく聞き取れなかった。
「何だって」
「いいや…何でもない」
「なかったのか? 言わなきゃなかったことになっちまうぜ」
 すると黒鉄はひょいと堀田を見て、いつだったか小料理屋でしてみせたように片方の眉を上げた。
 しばらく黙って木立の間を歩いた。ぐるりと一周して建物を振り返ると、千代助が大きく一度手を振った。
「もうそんな時間だろうか」
「時計は」
「持っていない」
 堀田はベルトの擦り切れかけた安い腕時計を見た。
「随分歩いた」
 独り言のように答え、建物へ、煙突を目指すように歩き出した。
「ハム爺らしい、か」
 薄い青空に消えゆく煙を眺める。
「明日も怒られそうな気がするんだけどなあ」
「それはいい」
「いいかよ」
「羨ましい」
 男は目をそばめ、半ば閉じるように枯葉に覆われた道を歩いた。
「俺はあの人がいない、いない、とばかり思ってしまう」
「うじうじすんなって怒られそうだ」
「それはいい…」
 あの人らしい、と黒鉄は呟く。しばらく黙り込み白い煙を見上げ、それから低くもう一度
「あの人らしい」
 と呟いた。
 皆で骨を収め、白い布に包まれた骨壺を平次が抱いた。これからハム爺のアパートまで戻る。いる蔵が迎えの支度をしてくれているはずだった。当然来るだろうと思った男はぞろぞろと歩く集団から一人外れて立ち止まった。
「おい」
 堀田は振り返り、声をかけた。
「俺はよそ者だ」
「爺さんの知り合いだろう。来いよ」
 だが男は首を横に振り、ついてこようとはしなかった。その立ち姿さえ、なるほど堀田の目にもハム爺の残した景色だと確かに見えた。この男ひとりきり、喪失を抱え木枯らしに吹かれる男ひとりきりの光景も、この男自身が言ったようにハム爺の死を偲ぶのに相応しい景色と思われた。
「後で来いよ」
 男は軽く手を上げたが返事はせず、黙って堀田たちを、骨壺を抱いた平次を中心にぞろぞろ歩く喪服の集団を見送った。
 千代助が
「来ねえのかよ」
 とやや不服そうに言った。誰答える者もなく、集団はしばらく黙ったままぞろぞろを足並み不揃いに歩いていたが、骨壺を抱いた平次が不意に
「あとで」
 と思い出したような声を上げた。
「まぼろしに行こう。黒鉄さんも呼ぼう」
 平次はもう泣いてはいなかった。骨を抱いていたが、背筋はしゃんと伸びて行く先を見据え、洟をすすり上げることもなかった。
 その言葉に皆一様に頷いて堀田は、いる蔵がこの場にいたら文句を言いそうだなと思ったが、不意に浮かんできたいる蔵の、いつもの愛想のない顔に心がほどけ、ああやっぱりオレは寂しかったし悲しかったのだ、と掌で顔を拭った。