枯れずの恋




 ベニヤの戸が背後で閉まると真っ暗な部屋にかぎ慣れない匂いをかいだ。むしろ人の住み処としては無臭と言ってもよいような、そんな生活くささのない空気だった。暗闇の中を黒鉄の重い足音がのしのしと畳を踏み真ん中で止まる。カチ…と小さな音。束の間、明滅。六畳の間が薄暗い電灯に照らされた。
「何もねえな」
 ハム爺は思わず呟いた。
 ちゃぶ台は脚を畳んで片寄せられ、今朝までこの男がここで飯を食った気配さえなかった。黒鉄は上がってくれというような言葉をぼそぼそと吐く。
「おう、邪魔するぜ」
 酔いは半分抜けていた。若い連中と一緒におればまだ賑やかしい気分も残ったろうが、なにせこの無口な男とただぼつぼつ師走の夜の下を歩いた。寒風は身に染みた。ハム爺は草履を脱いで上がり、手前の板の間、ほんの狭い台所を見た。これが男の所帯にしては小綺麗で、背後の六畳間の物の少なさに対しそれなりに使う気配もあり、手入れされている気配もあり。包丁は出刃に柳刃にと三本そろって並べられている。使い込まれた砥石を手に取ると背後でかすかな音が聞こえ、一瞥。黒鉄が背を丸めてストーヴをつけたところだった。マッチの煙のすぐ掻き消える中にも、燐の香りがした。
 黒鉄は一つきりしかない座布団をストーヴの前に据え、こちらを見た。
「…どうしたい」
「座りませんか」
 座りたきゃあ座る、と応えハム爺は砥石の表面を指でなぞる。
「お前…田舎は瀬戸内だっけなあ」
 思い出したことをぼんやり呟きつつ寒々しい部屋を振り返り、手作りらしい本棚に几帳面に並べられたものを見た。
 葉隠。今も読むらしい。
 道ならぬ、かい…?
 ハム爺は胸の裡で呟き、砥石を置く。普段より寡黙な男が、いっそう無口になって石のようだ。緊張しているのやもしれぬ。やれやれ、こんな枯れ枝を前にだ。同期の桜は皆散った。こちらも青葉の頃はとうに過ぎ、硬く凝った枝先には冬芽もない。
「なに考えてるよ」
「………」
「当ててやろうか」
「…どうしてあなたを家に送り届けなかったのかと」
「後悔なんざ犬に喰わせろ!」
 どすんと座布団の上に腰を下ろし、正面から睨め上げた。黒鉄の方が背は高い。
「やい、意気地のねえ顔をするない。男だろうが」
「なればこそ、だ」
「怖じ気づいたか」
 伏せられた目が持ち上がり、しん、とハム爺を見た。
「何も、恐ろしいことなど」
 腹を括ったか、と見ればいい男である。本当に鉄から削りだしたような頑丈な骨をかたい筋肉が覆っている。その重量を思った。いつもこの作業着ばかり着ているのが勿体ないような、だが、だからこそ襟元から覗く丈夫な頸やら、日がな鉄を覗き込んでいる目やら、生身から漂うものは色の香と呼ぶには荒削りだが、磨けば女が放っておかぬだろう。俺も若ければ、と思わなくもない。若けりゃあ、こいつをピカピカの色男に磨いて街に繰り出し、そりゃあ楽しかったことだろう。頭の奥、脳みそのほんの隅っこでそんな夢を見た。頭の前の方は、てめえなんざもうジジイだ、と当たり前のことを言った。
 そうだ、自分は老いたのだ。
 だが構うまい。
 ハム爺はポンと自分の太腿を叩いた。
「俺が抱いちゃあやれねえが、しかし、こんな枯れ枝相手でお前…」
「皆まで言うな」
 黒鉄は重い一言で押しとどめ、忍ぶ恋なのだから、と低く吐いた。
「…これで、まだ忍ぶかい」
「言っただろう。恋情とも判じきれないのです」
「まだるっこしいな、おい」
「ただ…あなたがいればいい」
 泣いているのかと思ったが、そうではない。男とは泣かぬものだ。ハム爺の中ではそうだ。イイ男じゃねえか、と笑いが熱となって胸をぐるぐる圧した。こんなジジイに本気で惚れるかい、畜生、イイ男じゃあねえかてめえは。
 すっと立ち上がりぶら下がる紐を引いた。電灯が消えてストーヴのオレンジ色の火に黒鉄の姿がぼんやり照らされた。
「夢の中で、俺を抱いたか?」
 見下ろすと、顔が上がりその目が答えた。冥利に尽きるとはこのことだ。ハム爺はしゃがみこみ、男の耳元で布団を敷くように言った。
「汗かくようなことにゃならねえだろうからよ、こいつは焚いたままで構わねえか」
 押入から布団を下ろした黒鉄は、やはりハム爺と同じようにしゃがみこみ、こっくり頷いた。こわばった顔が少し笑う。
「…脱ぎませんか」
「そうだなあ…脱がされるような齢じゃあねえ」
「俺は構わないが」
 顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。いや真面目な話だ、とハム爺は言い、黒鉄も笑いを収める。
 脱いだのは黒鉄で、ハム爺はその若くしっかりした肉体に皺だらけの手を這わせた。こいつを俺が独り占めしてもいいとこの男は言っているのだ。勿体ねえ、いやさ。
「たまんねえな…」
 ハム爺は呟き、黒鉄の肩に頭を寄せた。
 裸の黒鉄に抱かれてその夜は眠った。日がな鉄ばかり触れている硬い指先が時々背をなぜた。ハム爺は男の身体に耳を押し当て、血のざわめきを聞きながら眠った。とは言え。
「おい、寝たか」
「いいや」
 そんな遣り取りが何度も続いて互いに返事をするにも飽いた頃、ようやくストーヴの火も落ち、暗闇の中で手を伸ばした。若い男の身体が熱を持っているのをわずかに羨みつつ、しかしそうだこの熱も硬さも俺のものかいと思えば愉快だ。世の物すべて手に入れても届かぬ満足感を感じた。
「黒鉄よ」
 闇の中で囁いた。
「俺に惚れてるのかい」
「ああ」
 男は返事をし、老いた身体を抱き寄せた。