丈の低い恋




 雨でなし、雪でなし。一寸先の闇夜でなし。街灯のぽつぽつとともる遥か上、東京を覆う凍てついた空にも星は輝き、その光は音を立てるかのようだった。それを見上げて月見酒もいいだろうと、とうに黒い屋根の影に沈んでしまった細い月を惜しむふりをしながらちびちびやるハム爺は、その上更に月見酒を楽しむふりさえしているのだと、黒鉄は何となく感じるのである。が、口にすることでもない。工場の裏の、廃材の上は冷えるしハム爺もいい歳なのだ。そう言ったら平次のように叩かれてしまうが。しかし黒鉄は叩かれるのは恐くない。平次のように若造ではない。
「てめえなんざ、まだガキの部類だぜ。ええ、黒鉄よ」
 杯を空けたハム爺が言った。
「ガキですか」
「ガキだな」
「どうガキだろう」
 じっと隣を見つめると、それそういうところがだよ、と老人は呆れた目で男の微笑を見遣った。
「惚れた腫れたがいけませんか」
「恋の至極はなんだい」
「忍ぶ恋と見立て候」
「逢いてからは恋のたけが低しだ」
 手酌をしようとするのを止めて、ふと触れた手を見下ろした。が黒鉄はまた杯に半分注いだ。水面は凍てた東京の空を映し、黒々とした中にぬるりと電灯の光を閃かせる。残りを自分の杯に注ごうとすると、ほんの僅か、底を埋めたばかりで雫は途絶えた。
「河岸を変えますか」
 黒鉄は杯の底を舐めた。
「帰る」
 ハム爺はぼそりと呟いて、まだ残った杯を置いた。だが立ち上がらない。別れを惜しんでいるのではないのだ。きっと本人、下駄の音も高く、蒲田の工場に日本酒提げて来たのもこの寒い中、月見酒と意地を張って黒鉄と飲んだのも訳なく仔細もないとばかりに立ち去るつもりなのだろうはずだった。
「ハム爺」
 背を向けて地面にしゃがみ込むと、馬鹿か、と持ち上がった下駄の爪先が蹴ろうとした。黒鉄は袖を捲った腕を後ろに伸ばし、老人の身体をつかまえてひょいと背負う。
「やい!」
 おぶった背中から狼狽した声と、
「こらてめえ、下ろさねえか」
 首に巻いていた手ぬぐいを引っ張ってくるのと。噛みつく声は耳のすぐそばだが、肩をしっかり掴む指もある。黒鉄は笑みを噛み殺して答えた。
「嫌です」
 ふと答えが聞こえない。しん、と冷える。沈黙はがなられる以上に耳に痛い。
「てめえはよ」
 両手が、肩を掴んだ。
「心底、馬鹿だと思うぜ」
「…ガキですから」
 夜道を、時々街灯に照らされながら歩き続けた。壁の向こう、塀の向こうから漂う夕飯の匂いも消え、明かりもぽつぽつとばかり。いつもは暗くさみしい道だが、そうとは思わなかった。連れ添いになろう、ではない。所帯を持とうではない。路地に夜風も吹けばよい。木枯らしとて快いが酒のせいばかりでない。
 やがて文句を言うのを止めた背中が、今度はおかしそうに口笛を吹いた。寒くねえのかと声をかけられた。腕まくりのことだ。
「金型より、重いか。軽いか」
 ハム爺は戯れるように尋ねた。
 軽い。が、重い。重いが軽くもある。正直に答えると、問答じゃあねえぞ、とぐいと重みをかけられる。
 アパートは石造りの、洋館を真似た横長い建物だったが、道に面さぬ側面はトタンが打ちつけられている。空襲で大穴の空いた痕だそうだ。ハム爺の部屋は二階の奥で、背中からはもう下ろせという声が散々かけられたが結局黒鉄はドアの鍵を自分で開けるまでした。板間は寒く、足の裏から寒さが染みた。
「いつまでしょってるつもりだ」
 頭をこつんとやられ、くるりと暗い中を見回す。障子に区切られた奥は畳だ。それも具合が悪いような気がしたから、目に留まった丸椅子に座らせるように下ろした。
「まったくてめえはよ…」
 ようやく正面から見た顔はしかし渋面で、硬い拳がごつんと額を打った。
「俺を馬鹿にしてやしめえな」
「どうして」
 また足が蹴ろうとするのに、そうだ下駄を履いたままだったのだとそれを脱がせた。下駄を板間に置く硬く冷たい音がして、またしんとなった。不意に膠着した空気に、手を差し伸べるようにして声を出しかけたのが遮られる。
「もう遅いだの何だの、言うんじゃねえよ言い訳がましい。泊まってきゃあいいんだ」
 ホッと息を吐く。
「…喜んで」
「だがな」
 明かりは点けてくれるなよ、と挑むように笑うハム爺の顔は仄暗い中、障子の青白く染まるのを背に男の艶やかな笑みを浮かび上がらせた。