サンディエゴ一週間の更に次の日







 ジャイロと顔を合わせない日が七日を過ぎて新記録を更新した。
 別に喧嘩した訳じゃない。ジャイロはシフトどおり仕事に出掛け非番の日は乗馬クラブにいるから、多分確率的にはそのへんで交通事故に遭ってERに運ばれる方が顔を合わせるパーセンテージは高い。ぼくはいつもどおり不味いコーヒーショップのバイトをして、時々リンゴォの店に遊びに行ったりホット・パンツをデートに誘って断られたり、本当に、いたって普通どおりの生活をしていたから、これは本当にタイミングが合わなかっただけなのだ。
 でも週末のストリートライブもなしっていうのは珍しい。これのせいでぼくらのすれ違い生活は一週間を超すという記録を打ち立て、ついでにジャイロが今週のストリートライブは中止っていう書き置きを冷蔵庫に貼っていたんだけど、遅刻してバイトに遅れそうになったぼくはそれに気づかなくて、その日の夕方、いつも待ち合わせをしている地下鉄の駅で待ちぼうけをしているところを偶々通りかかったルーシー・スティールが「あら、ジャイロはまだ病院よ」と教えてくれなければ風邪を引くところだった。
 ルーシーはジャイロが勤めているサンディエゴ一でかい病院のオーナーの婚約者で弱冠十四歳の女の子で周囲からは聖女みたいに思われている。清く正しく美しくっていうイメージもあるけど、この聖女っていうのはどっちかというとマリア様を信仰するそれに近い。曰く、ルーシーの手に触れられたら傷が消えたとか、不幸がどこかに飛んでったとか、経営難だった病院が立て直したのはオーナーとルーシーが婚約してからだとか、先代大統領のファニー・ヴァレンタインが引退したのはルーシーの助言のお蔭だとか、色々噂は尽きないけど、ぼくから見たらルーシーは割と普通の女の子だ。
 そりゃ見た目は可愛い。うん、見た目は結構普通なんだ。ルーシーが特別なのは――特別な力を持ってるっぽく見えるのはその心の強さにある。彼女は本当にやさしい女の子だ。ぼくなんかが言うのは照れるけど、愛がある。彼女は親子以上に年の離れたスティーブン・スティールのことを本当に愛していて、幸せになる覚悟、がある。幸せって、勝手になるもんじゃないのだ。築くもの、育むもの、掴み取るものだ。それをやってのけるオーラをルーシーは持ってる。やさしく可愛らしい彼女がアイドル扱いされるんじゃなくて、聖女っていう風に見られているのはそのオーラにぼくらを畏怖させる何かがあるからだろう。
 そんなルーシーはぼくの普通の女友達で、ぼくも彼女は可愛いとは思うけど、ジャイロの病院のオーナーの婚約者だとかそういうの別に考えなくても手を出そうとは思わない。彼女は何て言うのかな、妹って言うとちょっと違う……ぼくとは、同類、みたいな感じがする。
 その日もぼくとルーシーは気兼ねなくコーヒーを飲んだ。ぼくがバイトするくそ不味い店じゃなくて、その辺のスターバックスだ。
「急にシフトが変更になったはず。聞いてなかったの?」
「どうだろ。書き置きとかなかった…いや、見逃してたのか、ぼく」
「メール…ああ、ジョニィはケータイ持ってないのね」
 ジャイロのPHSの番号なら覚えているから、どこの公衆電話からでもかけられる。けど、滅多にかけたことはない。
「せっかくギターを持って来たのなら…一人でもやらないの?」
 言われてその手もあったかと気づくけど、ジャイロがいないのにギター弾くのも歌うのもあまり想像できない。だいたいぼくが覚えている曲ってジャイロの自作の歌ばかりだから、これを一人でやるとか正直願い下げだ。
「じゃあ、二人ならいいのか」
 ルーシーがずばり言う。
 ぼくは固まる。
 え?なんだ?これってそういう答えが導き出せるんだっけ。いやいや、普通にイヤじゃん、あの変な歌を一人で歌うの。
「二人でなら歌えるんだ、ジョニィ」
「付き合いだよ」
「おもしろい二人」
 同じ事を他の人間からも言われたことがある。コーヒーショップの常連、味覚音痴のポーク・パイ・ハット小僧。建設現場の作業員で頭悪そうな喋り方をするけどクレーン免許を持っている。
「ジオシュッター」
 大振りな造りのせいか口元の緩いポーク・パイ・ハット小僧は唇の端からコーヒーをぼとぼとこぼしながら言った。
「おもしれえ二人だなあ!」
 週末の夜、コーヒーショップで歌うジャイロの隣にぼくが初めて座って『チーズの歌』――ぼくが皿を割る元凶になった歌――を歌った後でのことだ。ぼくは仏頂面でコーラスをしながら、結局その晩三曲付き合った。
「あれじゃない、ジャイロとバンド組んでる間はさ、彼の部屋に居候できるから。そーゆー功利主義的な理由なんだよきっと」
 ぼくは嘯く。年下だけどぼくより頭のいいルーシーはぼくがジェレミー・ベンサムの名前も知らないでそういうことを言っているのを知ってるから、はいはい、って笑ってる。
 帰宅してから冷蔵庫のメモに気づいた。急に夜勤に変わったそうだ。それから更に二日会わなかった。

 ケンタッキーを飛び出してとにかく自分の脚で動かなきゃ生きていけない状況になったぼくは、確かに少しずつ歩けるようになっていたんだけど、最近は松葉杖なしでも歩けるようになって楽だったり、楽じゃなかったり。二年間は全く歩けなかったから筋肉が落ちてしまっているのだ。
 ぼくが下半身不随になった理由は後ろからデリンジャーで撃たれたからで、弾丸は背骨にヒットした。脊髄損傷でネット検索すればウィキペディアにだって載ってるけど、普通、脊髄損傷は治らない。切れた神経を繋ぎ合わせる、みたいな簡単な仕組みではないのだ。
 二年間、ぼくは本当に打ちのめされた。打ちひしがれた。生きてる意味なんかないと思った。一生歩けないって説明をレントゲン写真を見せられながら何度もされて、自分でも調べてみたけどやっぱり歩けそうになくて、実際脚はつねっても針で刺しても痛みの一つも感じない。それどころか入院当初はトイレだって自分ではどうにもできなかった。そんなぼくの姿はマスコミの格好の餌になり、彼女とか取り巻きとかも――ぼくが撃たれた現場にいた彼女さえ――見舞いに来なかった。それどころか実の父親だって。来たのは弁護士で、彼はぼくが退院するまでの治療費は払うが、これ以上の問題が起きた日にはジョースター家に対する名誉毀損で起訴するとまで言った。それが全部父親の意向だって言うんだから…。
 もう虫以下っていうか。ゴミ以下っていうか。そんなぼくを救ってくれた出来事について喋るには今日はもう疲れてるからパスする。つまり本来歩ける訳がない状態から歩けるようになった。それは奇跡的で本当に嬉しいけど、肉体的にはしんどいことも多い。
 ちょっとずつリハビリを始めたもののまだまだ痩せた脚は、今日みたいに長時間の立ち仕事をした後はくたくたで、ジャイロの部屋に戻った途端に動かなくなった。ぼくは這いずりながら何とか寝室まで辿り着くとベッドによじ上る。脚が動かなくなった分、上だけはきっちりと鍛え続けていて、上半身の筋肉はジャイロも褒めてくれたくらいだ。
 疲れ切っていて、同時にめちゃくちゃお腹が空いている。でももうキッチンまで行く力が残っていない。こんな時ケータイを持っていたらジャイロに…ジャイロじゃなくても誰かに助けを求めることができるのかもしれないが、あ、でもダメかな。ぼくが仲良くしてるのはジャイロと仲の悪いリンゴォ、あとホット・パンツとルーシーは女の子だから…。ジャイロは可愛い女の子、とか、ガールフレンド、とかいう言葉は口にするけどステディはいないらしく、それどころか部屋に女の子を入れようとしない。一度ぼくが女の子を部屋に連れてきた時はこっちが引くくらい怒った。彼女はドン引きで、ぼくらはすぐに別れた。
 早く帰ってこないかな。うっかりそんなことを考えたのは空腹と、久しぶりに脚の感覚がなくなってしまったことがぼくを気弱にさせたからだろう。
 でも。
「ジョニィ」
 ドアを開けるのと一緒にぼくを呼ぶ声。
「ジョニィ?」
 こんな日に限ってドンピシャに帰ってくるんだ。これまで一週間もすれ違いを続けてきたのに、本当に会いたい時に帰ってくるとか。
「ジョニィ、ジョニィ?」
 ぼくの名前を呼びながらジャイロはどんどん近づいてくる。
「…ジョニィ」
 寝室のドアが開いて、安心したようにジャイロが呼んだ。
「……おかえり」
「ただいま。どーしたよ。具合悪いのか」
「…お腹空いた」
「おう、待ってろ」
 ジャイロはベッドまで夕食を運んでくれた。それに特製のイタリアンコーヒーも。ぼくらはベッドの上で食事をして、一週間ぶりの馬鹿話をする。ジャイロが一週間あたため続けたギャグをぼくは聞いてやる。
「ちょっとそこ4・2・0ィィィィ」
 かなり大爆笑だ。
 開きっぱなしの寝室のドアから時々見えるジャイロの姿。皿を洗ったり洗濯をしたり。ERってテレビドラマで見る以上に戦場らしいんだけど、ジャイロは帰ってきたら家事もちゃんとやる。本当にタフな男だ。対してぼくは今脚が動かなくて虫以下の気分が蘇り、さっきまでもふざけた気分もどこへやら、ベッドに俯せになる。
 しばらくしてジャイロがベッドに腰掛けた。
「ジョニィ」
 膝の上に触れる気配。伸ばされた手から湯上がりのぬくもりが伝わってくる。じんわりと、ゆっくりと熱が伝わってくる。脚が生きているのが分かる。
「明日は歯を磨いてシャワーを浴びるんだ。いいな?」
 ぼくはシーツに顔を押しつけたままうなずいた。
 小さな声でジャイロが歌う。囁くような歌声はいつも同じフレーズを繰り返す。
 モヴェーレ、モヴェーレ・クルース。
 ぼくはその意味を知っている。脚を動かせ、という意味のラテン語。
 教えてくれたのはジャイロだ。
 ジャイロの柔らかな手が背中を撫でる。捲れ上がったシャツの裾から潜り込み、背骨の上を一つ一つなぞる。
 腰の上でその手は止まる。そこだけ皮膚が大きく盛り上がっている。その下にあるのは肉とか脂肪じゃない。骨。脊椎が一個分。ぼくのものじゃない骨がその下に埋まっている。レントゲンにも映らない。でもぼくは分かっている。ぼくのものじゃないこの骨が、ぼくの動かない両脚に奇跡を与え、動かしている。
 いつも現場で現実の傷と病を相手に仕事をしているジャイロも解っている。本当はぼくの脚は動くようなものじゃないってこと。それが動くのはどうしてなのか…。
 ジャイロは骨の上を撫でる。でもそれよりぼくは彼がモヴェーレ・クルースと歌ってくれたり、感覚が鈍くなった脚にその柔らかな手で触れてくれる方が効果のあるような気がして…。もちろんそれは錯覚なんだけどさ。ぼくの気分の問題だ。
 ぼくの方を向いて横になったジャイロはいつまでもぼくの腰を撫でている。それがいつの間にか動かなくなって彼が眠ったのが分かる。ぼくは腰の上に乗せられたままの彼の掌の重みを感じながら目を閉じる。少しずつ眠くなる。
 起きたら、明日の朝はぼくが朝食を作ってやろう。自分の脚で立って、動かなくては。ジャイロが側にいるとその勇気が湧いてくる。
 明日はぼくが先に早起き。それから「おはよう」だ。




2013.2.14