非恋




「恋の至極は忍ぶ恋…と?」
「葉隠かい」
「学生の頃読みました」
「渋いところにいくじゃねえか」
 そうさな、と老人が瞼を伏せて物思いに老けるのを黒鉄は眺めた。年寄りはだんだん丸くなるものだと言い、実際黒鉄の努める工場の先代も孫ができたとたんに角が取れて人とはこういうものかと思ったが、ハム爺の横顔はどこまでも凛々しかった。今でさえ歓楽街の女は色男として見ている。これでもう十年かそこら若ければ女が放っておかなかったのではないかと思うし、いかにも悩める男のように話をする黒鉄自身、今の彼の姿に惹かれてならないのだった。
「恋情とは」
 屋台の柱に貼られたビールの広告の、笑顔を浮かべた女の写真をちらと一瞥して黒鉄は言った。
「言えないかと思います」
「なら何だい」
「それが分からなくて…今話している」
「てめえの知らねえことを俺が知っている訳がねえ」
 ハム爺は瞼を開くと呆れたが、黒鉄の目の前のどんぶりにつゆがたくさん残っているのや日中工場にいるせいでやけに白い首筋の、背後を吹き抜ける風に冷たく晒されるのを見ていると、あまり苛めてやるのも悪いかと思う。その程度には丸い。昔ならもう二言三言くわえて馬鹿にしてやったはずである。
「道ならぬ、かい…?」
「え?」
「言えねえようなことなら忘れろ、忘れろ。今夜は飲んで忘れっちまえ」
 写真の女が抱えているのと同じビールをなみなみとコップに注いで、ハム爺は黒鉄に押しつけた。
「さあ飲んで忘れろ」
「忘れたいことなど、ないのかもしれない」
 黒鉄はそれを一気に飲み干し、空っぽのコップの底に落とすように少しだけ頬を緩めた。
「苦いも美味い。大人になれば分別もつくが、そうじゃない。舌が苦いに慣れるように、俺の心も苦いものを飲み干す間に、それさえ美味く感じるようになっちまったのかもしれない。それはそれで…」
「悪くはねえか」
「…そう思っています」
「まあ、お前さんはまだ若いぜ。そうやって突っ張ってな」
 老人が手酌をしようとするのを止めて、黒鉄がビールを注いだ。同じ瓶を取り上げ、ハム爺が空っぽのコップにもう一杯注いだ。乾杯の音はささやかだったが、黒鉄の心にはキンと心地良く響いた。