寒夜追憶




 春夜には確かに沈々という表現がよく似合う。晩秋の、そして冬の夜はただただ更けゆくばかりである。
 木枯らし一号のサイレンが街に鳴り渡った日、窓の開いていたのが廊下の奥の掲示板をカタカタと揺らしていた。彼は夢の中で立ち上がり廊下まで出て行って窓を閉めた。掲示板には大家からの連絡が赤いチョークで、それ以外の色のチョークは各部屋の住人たちが好き勝手に使っていた。中には暗号もあった。合い言葉というのが正しい。符号だ。肉の仕入れは一ポンド。何故そのような言葉になったのかは分からない。俺のことを切り分けてたたき売る訳じゃあるめえな、と彼は文字の上に黄色いチョークで大きくバツを書いた。カタカタの掲示板が震えた。もう一度、目が覚めた。
 自分が爺と呼ばれる齢だと、目覚めるたびに再確認する。腕は細った。皺だらけだが、掌の皮は厚い。まだどんな仕事にも耐えられる。それが自分の肉体だと思うておる。それが男という生き物である。
 枕元の一升瓶を片付け、コップは流しに。湯冷ましは薬罐の口から直接飲んだ。便所で長い用を足しているとまたカタカタ音がした。廊下へ出る。通りに面した奥の窓がぼんやり明るく、風に震えていた。古いアパートだ。夜中に歩けば床板の軋みも響く。ハム爺はすたすたと窓に寄り、窓枠を押さえつけて隙間風を封じた。桟に鼻紙の切れっ端を噛ませると手を離しても、もう大丈夫だった。時折ガラスが震えるだけだ。確かに寒い夜だった。どてらの前を合わせ大きなくしゃみを一つ。どこかで抗議の声が上がるが寝言と区別はつかない。昔、掲示板のかけられていた場所は今は何もなかった。かつて肉一ポンドの言葉で自分を抱いた男は誰だったのか、思い出そうとしても遠い。シケた男など忘れるに限る。粋な男なら、肉一ポンドといわず、だ。
 小料理屋で酔い潰れていた男を思い出した。草臥れ果てて紙のような顔色をしながら、しかし懐かしい軍歌調のいきのいい歌を歌った。あれはイタリアのパルチザンの歌だ。しっかり腹から声を出して、うるさがったおかみが追い出そうとするのを面白がった堀田と千代が止めたっけか。そうさ、気概で死んじゃあならねえのさ。それが男という生き物だ。