後日談
トレド通りに近い、いかにもナポリの観光ガイドで見そうな少し狭い道幅に、両側に迫る煉瓦造りの壁。上を見上げたら洗濯物がアパートからアパートへ渡してあるのではと思ったが、それはもう少し込み入ったところらしく、今でも十分ゴミゴミしてるけどな、とジョニィは買ったばかりのお菓子を囓る。 「これ美味しい。何だっけ」 「スフォリアテッラ」 「ふーん」 「自分で聞いといてその態度か」 後ろから車椅子を押すジャイロはこの狭苦しい通りを更に狭くしている観光客の群やそこを無理に通る車に少し進路を斜めに取った。すれ違う人々が車椅子のジョニィを見る。ジョニィは唇の端についたお菓子のクリームを指で拭い、ぺろりと舐めた。 「そーゆー真似はやめろ」 「君、こっちに来て過保護すぎない?」 「おまえ、自分がどう見えてるか自覚ねーだろ」 「あるよ。みんなぼくに釘付けなんだろ」 ジョニィは手を叩いて菓子屑を払い、ワンピースの裾を抓んでみせる。 「聞いた、ジャイロ。さっきのお菓子買った店のおばさん何て言ったと思う?」 「オレが通訳して教えたんだぜ」 「通訳されなくたって分かったよ。可愛い彼女にもう一つオマケってさ」 だからオレが教えたんだ、とジャイロは後ろから息を吹きかける。くすぐったいよとジョニィは笑った。 「ゴミついてた?」 「悪い虫が今にも付きそうだ」 「君が選んだ服なのに」 ジョニィは目を見開いたまま口元だけで笑い、首を上げてジャイロの顔を覗き込んだ。 「君が見せびらかしたかったんだ」 「んな趣味はねーよ」 「照れ隠しだろ」 「嘘じゃねえ。だからバーもレストランもキャンセルだ」 「えー!」 ちょっと折角ネアポリスに来たのにさ、とジョニィが文句を言うと車椅子を押す速度が加速する。もう少し何か食べたいと文句を言ったが、車椅子は有無を言わさずジョニィの知らない街の奥へ奥へと進んでいった。 スパッカナポリの細い通り。ジョニィが思い描いていたいかにもイタリアというビルの間の洗濯物の風景や、路地にまではみ出した売り物の日用品や土産物。だが曇り空のせいか薄暗く、肌寒い気もした。石畳がかすかに濡れていた。雨が降ったのだろうか。 「どこ行くの」 目的などない。あるとすれば世界の果てまで逃げ切ること。二人どこまでも。 「旧い馴染みの店がある」 「レストラン?」 「おめーよぉ、ジョニィ、オレはおまえの強さに惹かれてる」 「何? 突然」 ジョニィは笑ったが、振り返って見えるジャイロの顔は至極真面目だった。 「その服、スゲー似合ってる」 「だろ?」 ジョニィは自慢げに笑い、両手でワンピースの裾を抓んだ。 だが裾から覗くのは右足だけだ。 車椅子は一軒の家の前で止まった。古い家だと分かった。開いた扉から中の様子が見える。オレンジ色の明かりに照らされたものの影を見て、ようやくそこが楽器店だと知った。 店に入るには段差があった。車椅子は大きく揺れてそれを跨いだ。 「てめえら、何だ?」 若く粗野な物言いが影から聞こえた。作りかけのコントラバスを抱えている。その影から顔の右半分だけが覗いている。 「何だよ、てめえら。客か」 「ウェカピポは」 ジャイロが低い声で尋ねると、若い男は奥に続く工房を振り返りがさつな大声を上げた。 「ウェカピポォー!」 五月蠅いぞ、という返事は重く静かだった。姿を現した男は、背が高く、真っ直ぐな姿勢で二人を出迎えた。若いのかもしれないが、所作の一つ一つにはジャイロや目の前の男のような若さを存分に扱うという感じがなく、老成とでも呼ぶべき雰囲気があった。 「ジャイロ……ジャイロ・ツェペリか。よく来た」 ウェカピポという男は静かに手を差し出し、ジャイロもそれを握った。 「こっちがジョニィだ」 「ジョニィ…?」 挨拶を済ませ、ウェカピポは奥で話そうと二人を誘った。 「おまえは仕事だ、マジェント」 ついて来ようとする若い男をウェカピポは追い返す。 「ちぇ」 マジェントと呼ばれた若い男はコントラバスを抱え直す。その時、顔のもう半分が覗いた。顔の左側を額から左目、頬を抉って顎まで一直線に深い傷が走っていた。ジョニィは思わずそれを見つめた。 「何見てんだよ」 歯を剥き出しに威嚇する男を、マジェント!と一喝する声。ジョニィも目を背けた。 中庭に面した部屋は存外に広く明るい。椅子で刺繍をしていた女がふと顔を上げて、お兄様、と尋ねた。 「おまえの客だ」 「久しぶりです」 ジャイロは女の足下に跪くと、取り上げた手の甲に接吻した。洗練された仕草にジョニィは思わず息を飲んだ。 「その声…先生ですね。ツェペリの若い先生」 「具合はいかがですか」 「お陰様で。もう肩も痛みません」 ジョニィ、と呼ばれ自分で車椅子を動かし側に寄る。 隣のウェカピポがすっと離れた。部屋には三人きりになった。 間近に来てみると、女は確かにウェカピポに似ていた。陰りのある表情は薄幸の美人という形容が相応しい。しかし瞳が輝いている。とても美しい瞳だと思った。 ジョニィも名乗り、その手を取って、ふと身体を硬直させた。すると逆に女の両手がジョニィの手を包み込んだ。 「あなたがたは兄弟のようですね。まるで血を分けた人々のよう。あなたはツェペリ先生に似ています」 「…ぼくが?」 「違いましたか?」 すい、と今度はその手はジャイロに向かって伸ばされた。柔らかくジャイロの右の頬に触れた指先は十字架の痣をなぞる。 「ああ……」 女は嘆息した。 「命を、分かち合ったのですか」 その時女の左頬に全く同じ痣が浮かび上がり、ジョニィは声を上げる。 「それは…!」 「私が女神と呼ばれる少女から受け継いだ奇跡は二つ。右の眼球と左の眼球。数年前、私は一度失った光を取り戻すことができた」 「奇跡……」 「彼女はオレの患者だった」 ジャイロが言葉を継いだ。 「オレの手術は失敗した。肩に負った外傷は治したが、彼女の目はほぼ完全に見えなくなった。オレは彼女を連れてアメリカに渡った。ルーシー・スティールの存在を知っていた訳じゃない。海の向こうの技術、オレの腕があれば彼女を治せるだろうと自信があった」 だがそれは傲慢だったんだろうな、とジャイロは結んだ。 「いいえ」 女は首を振る。 「先生がいなければ、私はもう一度光を見ることなど考えませんでした。当時私はつらい生活を強いられていました。兄と離れ、助けを乞う相手もいなくて。陽の光を浴びることなど考えもしなかったのです」 「…見えるんですか」 ジョニィは震えを留め、尋ねた。 「ええ」 目が細められ、その中で瞳がきらきらと輝きを増す。 「素敵なお嫁さんを連れて帰られましたね、ツェペリ先生」 ウェカピポの用意したお茶を飲みながら、ジャイロはこれまでの経緯をジョニィの身に起きたことはぼかしつつも語って聞かせた。 「それで、どこへ行く」 「東だな」 「また漠然とした答えだ」 「いっそ大陸横断してニッポンまで行くか」 「現実的に考えているのか」 「いーだろ。あんた昔から小うるせぇんだよ」 何とかしてくれ、とジャイロが言うとウェカピポは溜息をついた。 「君の父のチェロはどうした」 「オレのアパート」 「アメリカのか?」 「アメリカのだ」 あれがどれだけの名品か…とウェカピポが再び溜息をついたところでジャイロは、だからだ、と身を乗り出した。 「逆に一番安全な場所にある。オレだって父から受け継いだ代々の品で思い出の品だ、簡単になくす訳にはいかねえ。手紙を書かせてくれ。あのチェロは必ず無事だ。アパートの大家の…シュガー・マウンテンっていう生意気な小娘だが、彼女は信頼がおける。必ずここに届けさせる。それが代金だ」 「それで」 「車を一台」 「馬を二頭ではなく、か」 「それもいいけどな」 ジャイロが半ば本気でその案に頷き、いいと言っているのがジョニィには分かった。逃亡者とは思えないその笑顔に、ウェカピポの疑いの眼差しがふと和らいだ。 「いいだろう。…だが、用はそれだけではあるまい」 二人はジョニィを見た。 「足手まといだから置いていくつもりか? ここに?」 ジョニィは車椅子のホイールを強く掴み、身構える。 「絶対についていくからな、ジャイロ! 何が何でも君から離れない!」 「な、お熱いだろオレたち」 笑い声を上げたのは黙って話を聞いていたウェカピポの妹だった。 「死が二人を分かつまでの誓いどおりですね、先生」 「そーゆーこと」 女は椅子から離れるとジョニィの前に跪く。 「奇跡は一つで十分なのです。私は視力を取り戻した。しかし私にこの両眼が与えられたということは、神から使命がくだったということです」 あなたの脚に触れても?と女はジョニィを見上げた。ジョニィはふと畏れを感じながら、一つ頷いた。 ひやりとした冷たい手がワンピースの裾を捲り、切断された左脚に触れる。見下ろすジョニィには、彼女の瞳が光を孕んで見えた。 「とても素敵な脚」 女が微笑んだ。それは嫌味ではなかった。背筋が震え、鳥肌が立つ。女の左手はジョニィの脚の切断面に触れ、そして右手はかつてあったジョニィの脚の形をなぞっていた。彼女の手が直線を描くと、ジョニィはそこにかつてあった自分の脚を確かに見た。 顔を上げた女はジョニィを見、ジャイロと兄を振り返った。 「すぐに仕事にかかります」 もう一度ジョニィに向き合い、彼女の両手はジョニィの手を握った。 「あなたの脚を作ります」 店を出る頃、陽はすっかり傾き店には幾つもの明かりが灯っていた。うねる黒髪のシルエットが揺れていた。マジェントという若者はコントラバスの弦を爪弾き、口の中で小さく歌っていた。それがウェカピポの姿を見た途端、跳ね上がる。 「なあ、客だったのかウェカピポ。義足の客か?」 「五月蠅い」 ウェカピポは一蹴し、ジャイロとジョニィを外へ促した。 「あの五月蠅いのは? まさかあんたの弟子?」 「居候だ」 「その割りには仕事任せてるみたいじゃねーの」 ウェカピポは眉間の皺を深くしつつ、答えなかった。 「また来る。次は約束のブツを持ってな」 ジャイロは手の中の手紙を振る。あとは投函するだけだ。 「それまで派手な行動は控えろ」 「分かってるって。小うるせぇな」 ジャイロがぼやくと、そうだろ!と店の中から賛同する声。ウェカピポがバタンとドアを閉めた。 車椅子を、ジャイロは押してくれた。ジョニィは背もたれにもたれかかり、息を吐いた。 「疲れたか?」 「緊張した」 採寸や型どりをするウェカピポの妹の手つきは魔法のようだった。 「なあ、ジャイロ」 ジョニィが上を向くと、静かにキスが降ってきた。スパッカナポリの通りは夕闇に満ち、二人のシルエットもその中に溶けこんだ。 宿は古い建物で、しかし窓が大きく明るかった。通されたのは上の階だった。ジャイロは鍵を掴んでのしのしと歩いた。まるで怒っているかのような足取りで、抱えられたジョニィはジャイロの全身がわずかに緊張しているのを感じた。部屋まで荷物を運んでくれたボーイを閉め出すのももどかしく、蹴り飛ばすようにドアを閉め、抱きすくめられる。キスをしながら肩越しに窓の外を見た。空は静かに暮れの色に染まっていた。通りにもぽつぽつと明かりが灯る。 息苦しくなってもジャイロはやめず、ジョニィは何度も彼に縋りつきなおさなければならなかった。とうとう足も使って抱きつくと、二人の身体は飛び込むようにベッドに倒れた。スプリングが弾む。二人の身体も波の上のように揺れ、笑い声が転げ出す。 「なに興奮してんの」 ベッドの上で息をつき、ジョニィは裾を太腿まで捲ってみせた。 「これのせい?」 「それもある」 「他にもあるんだ」 噛みつかれる合間を縫って尋ねる。 「君の生まれ故郷だから?」 「まあな」 「両親のいる街に背徳的な恋人を連れて来て興奮した?」 「親父たちは…」 ジャイロは噛みつくのをやめ、ジョニィを膝の上にのせた。 「もうこの街にはいない。ツェペリ家はな。オレがニューヨークに来た年に北の街に移った」 浅い呼吸を整えながらジョニィは唇を舐め、話をするジャイロの額や頬にそれを柔らかく押しつけた。 「オレの一族はずっとネアポリスで生きてきた。使命があったんだ」 「なに、使命って」 「今度話してやる」 「今度っていつだよ」 「ピロートーク楽しみにしとけ」 ジャイロの手が誘い、軽く唇を触れ合わせる。 「オレは医者の息子としてこの街に生まれたんだ。親父もそうだ。そのまた父親も」 「ボンボンだったんだ」 「ここは…」 この建物は、とジャイロは言った。 「オレの生まれた家だ」 「…比喩表現じゃなくて」 「一階の手術室で産まれた」 「ここ、病院だったのか…」 ジョニィはジャイロの首に腕を回したまま視線を巡らせた。 「まさかホテルになってるとは思わなかったけどな。まあ部屋数はあるしベッドもある」 「ベッドは流石に入れ替えたんじゃない?」 全然、病院のベッドには見えないよ、とジョニィは腰を弾ませる。 「ほら」 「ここは夫婦の寝室だったからな」 笑ったジャイロがキスをする方が早かった。ジョニィは驚いたままキスの勢いで押し倒される。背中でベッドがやさしくジョニィの身体を受けとめる。 「それで…興奮してたの?」 「するだろ」 「やらしいな。秘密にしてたなんて」 「今、教えた」 ジャイロはジョニィの左手を取り、指に口づけをして尋ねた。 「いいか?」 「よくないなんて言う訳がない。知ってるくせに」 ワンピースが捲り挙げられ腕の先からすっぽり抜けると、きれいだとジャイロが言った。この街で、このベッドの上でジャイロが嘘を言うはずがなかった。だからジョニィはその言葉を受け入れ、両手を広げて裸の男を迎え入れた。 本当にレストランもバーの予定もキャンセルになってしまったが、この夜に乾杯をしないなどあり得ない。ボーイにワインを運ばせ、ジャイロは堂々と素裸でそれを受け取り、ジョニィはベッドから笑い声を上げた。 「見えるか」 ジャイロがワインを注がれたグラスで窓の向こうを指した。 「教会がある」 「あれ…教会? 地味な建物だ」 「子供の頃から母親に連れられて兄弟引き連れてミサに行った。親父は行かなかった」 「どうして」 「家でチェロを弾いてた」 「チェロ…」 「オレはあの人の気持ちがだんだん分かってきた」 「…今、祈ってる?」 ジョニィがワインに濡れた唇で尋ねた。 「ああ」 少し歓びに上擦った声でジャイロが答え、唇に接吻した。 「ぼくも祈る」 すぐそばで見るジャイロの瞳は、奥底を見せず鏡のように夜を映す。 「おまえも?」 「そう」 その瞳を見つめ返し、ジョニィは囁く。 「このままどこまでも逃げ切れますように。それから逃げる途上でぼくらがどんなに傷ついても倒れそうになっても、北の街で暮らす君の家族は永遠に幸せでありますように」 「ああ。だがおまえは?」 「今のぼくが幸せじゃないなんて誰にも言わせないさ」 ジャイロの腕がぐいと抱き寄せ、ジョニィは素直に相手の胸を枕にした。 「ねえ、乾杯もすんだことだし」 「ああ」 「この街には、もうしばらくいなきゃいけないしね」 「ああ」 「ジャイロ」 「おねだりか、ジョニィ」 「夫を立てるのも甲斐性だろ?」 ジョニィはジャイロの膝の上に跨がり、グラスを取り上げてナイトテーブルの上に置いた。 「まだ残ってたぜ」 「じゃあお裾分け」 キスとワインの香りにネアポリスの夜は溺れる。この街で生まれた男の一族よりも古い街の片隅で、悠久の営みは風穏やかな海を渡る船のようにやさしく軋み声を上げた。 2014.5.19 |