熱い肉体、熱い骨




 雷雨の、真昼より明るい閃きの中に浮かび上がったのはジャイロの裸体で、濡れた身体の上を流れる髪はまるで滝のようだった。雷が遠ざかり、火もない廃屋の闇の中、あばら屋根の隙間から漏れ落ちる雨と雨音に打たれながらジョニィは遠ざかる轟音を、強烈な光を、半ば怒りをもって惜しんだ。ジャイロの裸体が目の前に晒されたのは、その一瞬だけだった。だから雷光はストロボのように、ジョニィは眼球の奥にその姿を焼きつけ、闇の中でじっと目を瞑った。
 互いに声はなかった。雨滴の帽子を打つ音や、湿った床下を何かが這う音、それからかすかな相棒の息づかいを肌に染みこませ、忘れまい、忘れまい、と一瞬の光景を瞼の裏に繰り返し投射する。記憶に刻め。いつか旅が終わって彼が海の彼方に帰ってしまっても、捕まえていられるように。あの夜、あの瞬間、おまえはぼくだけに生まれたままの姿を、魂そのものの姿を見せたのだと、この眼をもって神にさえ証明できるように。瞳の持ち主という意味では、今ジャイロの方が相応しくはあるのだけれど。
 何もない草原をゆく、雨の多いその道程でジョニィが感じたものは欲情ではなく、だから眼球の奥底からその光景を呼び出す時、真っ白な光に照らされたその姿に息をのみこそすれ、興奮とはほど遠い場所にいた。だが、ジャイロのその姿を見るにつけ、これはぼくのものだ、と――ぼくだけのものだ――独占したい欲はそれこそあの夜と同じ、半ば怒りをもってジョニィの胸に湧き起こるのだった。誰にも渡すもんか。
 ゴールの安堵感、だけではなく、ベッドにしどけなく横たわるジャイロは先ほど精を放ったばかりの下半身さえ丸出しにして天井をあおぎ、帽子で顔を覆っていた。ジョニィはベッドの端から手を伸ばし窓辺の水差しを掴めないかとしていたが、どうにも取っ手を掴んだ次の瞬間には落としてしまいそうだ。外は暗かった。薄い雲は夜を奇妙に明るく見せていた。夜気の匂いには雨の余韻が残っていた。ジョニィは鼻を鳴らして匂いをかぎ、それは雨ばかりでなく自分の掌に導かれたジャイロの遂情の証でもあると知った。それから汗の匂い。肌の匂い。混じり合っている。
「ジャイロ」
 振り向くとジャイロは帽子を持ち上げ、軽くジョニィを睨んだ。睨まれる筋合いはない。互いに合意の上だ。ジョニィは臆せずその視線を見つめ返し、それを受けたジャイロは今度は少し笑った。口元が持ち上がりランプの明かりに金歯が光った。ジャイロは隣のベッドに帽子を放って、ゆっくりと、億劫そうに身体を動かし俯せた。溜息が漏れた。ベッドは半分空いた。ジョニィはそこに横になった。
 晒された裸の腰を撫でる。くすぐったいのだろうか、ジャイロがニョホホと笑う。ジョニィは腕を回すと冷たい自分の腰を押しつけぎゅっと抱き締めた。戯れに肩に噛みつく。よせよ、と笑いを含んだ声が小さく返す。ランプの明かりが揺れる。
 あの裸体なら。
 雷光に照らされたあの身体ならば食べてさえしまってよかった。自分の手に入れて永遠に抱き潰すためなら何でも差し出したろうと怒ったように思った。遺体も。この身体も。何故、脚が動くことを望んでいるかって。誰かを見返すためではない。この脚で立つためだ。それと同じ価値がある。あの雨に濡れ髪の毛を滝のようになだれさせたジャイロを手に入れるということは。ふと、彼の肉体になりたいのだろうかと思った。戯れの考えだった。肩に噛みつくような他愛もない戯れだ。すぐに忘れた。
「…ジョニィ?」
「なに」
「寝たのか」
「半分」
 ジャイロは向き直ろうとするが、腰をジョニィに拘束されて動けない。すると柔らかな掌がジョニィの腕を這って同じ箇所に導かれた。一仕事を終えてくたんと横たわっているそれの上。
「してやろうか?」
 沈黙し、ジョニィは考える。
「で、勃たなかったらぼくは死ぬ」
「死ぬか?」
「死ぬだろ。ショック死だ」
「男のくせに」
「タマが小さいとでも言いたい? 男だからだろ、これで死ぬのは」
 ジャイロのそれを根元からやわやわとなぞり自分のもののように握り込んでジョニィは溜息を吐いた。じわじわと力を込める。上からジャイロの手が添えられている。
「握り潰すなよ」
「ショック死されたら困る」
 笑い声はほんの束の間の合唱になった。ランプの灯が消えた。
「ジョニィ、油ケチっただろ」
「ホテルのだよ」
「シケてやがる」
「いいだろ」
 ちょうどいい、と囁き首を伸ばす。唇が触れたのは頬までだった。手の力を緩めるとジャイロが向き直り、ジョニィの望むように、そして彼のしたいようにキスを受けた。
「触って」
 暗闇の中で囁いた。ジャイロの手はジョニィの肩を越して背中に至り、その中心を一つ一つ確かめるように辿った。脊椎。死して奇跡を起こす聖なる存在。
 ジョニィと呼ばれ、キスをされる。赦しのようでもある。何故かジョニィはそう思った。
「君を」
 顔を近づけ、お互い触れる吐息から見当をつけ、ジャイロの瞼の上でカチリと音を立て歯を噛み合わせた。
「食べてしまいたい」
 ガオ、と狼の唸りを真似てジャイロが笑った。






クリムトの裸婦デッサンと、ベートーヴェン・フリーズ。それからいつか拝見したメメさんの、自分の肉体にその能力がないからとジャイロに触れるジョニィの絵より連想と照応 2014.1.25