トラヴェリング・ニュー・ワールド




 黄葉をすぎた葡萄の畑の連なる丘を越え、越えてはまた越え。景色は長閑だが道はさほどよくない。街道と名はついているが舗装もろくにされていない。城字の運転するフィアットは時々漫画のように跳ねた。ゴッ、と音がする。
「あー、もう何度目か分からんけどごめんな」
「貴様、わざとか?」
 低い天井に頭をぶつけたカーズがフロントガラスの向こうの景色を見つめたまま、平素と代わらぬ声音で言う。怒っていないのが逆にこわいが「まさかぁ」といつもの調子で答えれば、ふん、と小さな息を吐いて開けた窓に頬杖をつく。溜息と一緒に広がるイチジクの香りが疲れを忘れさせた。城字は片手で地図を取り上げ地形と見比べる。どうせ一本道なのだから迷うはずもないのだが。
 もうすぐ湖水地方に入る。カーズのいた宇宙では海と呼んでいいほどの広い広い湖に浮かぶ群島。かつて北西の地において最も栄え、今でも古き良き時代の名残を色濃く残す地。今回は事件ではない。純粋に旅行として二人で選んだ場所だった。ガイドブックを買いネットで検索をし「ありきたりな観光地なんてほ
んまベタで恥ずかしいんやけどー、カーズ先輩この地球始めてやしー、ええんやないかなーって」と切り出したら「何故身体をくねらせる」と真顔で訊かれ羞恥と落胆が襲ったのもいい今や思い出だ。
「悪くない」
 というカーズの一声が鶴の一声で、探偵としての仕事やその他諸々を片付け、ぐずるジョエコには必ずお土産を買ってくるからという約束でようやく出発する許可をもらった。
 飛行機の乗り換えだけでも飽きるくらいあるので、各都市でちょっとずつ散策を挟みつつ、湖水地方では一ヶ月まるまるたっぷり楽しむ。その初日のドライブだった。湖の畔に辿り着くまで丘陵地帯のドライヴ。もちろん湖岸の都市にも群島にも飛行場はあるのだがあっさり着いてしまうのも勿体ない。ガイドブックにもネットにも、丘陵を越えた先に輝く湖の景色は見ずに死ぬ事はできないと書かれていた。
 ならば見てみたい。
 限りある人生の中でも、限りのない生の中でも、見ずして死ねないという景色は特別なものに違いないし、二人ともその景色を見るのは初めてなのだ。きっと記念になる。ただ尻が痛いのは誤算だった。
 タイヤがようやくアスファルトを踏み文明万歳と城字がブラヴォーを叫ぶと逆にカーズはつまらなそうな顔をする。スムーズすぎても面白くないという質なのは城字も理解しているところだ。このトランポリンのようなドライヴは、尻の痛みという犠牲を払っても、最高の助手席に恵まれていたと言える。
 フィアットはまた坂道に差し掛かった。エンジンをふかすのと一緒に城字の胸も少しずつ高鳴る。ドラムロールを聞くように、目指す景色がもうすぐ目の前に拓けるのが感じられる。薄灰色の雲の腹に擦られるかに見える枯れ草の丘。その先にはまだ何も見えない。ただ雲だけが近づく。九十九折りの坂を上り、もう少し、あと少し。
 ふとアクセルが軽くなった。城字は踏みしめていた足を軽く離しスピードを緩めた。
 地のてっぺんから世界を見下ろしているような心地だった。ウェルカム・トゥ・テラ・インコグニタ。景色がそう呼びかけているかのようだった。丘は連なりながら小さくなり、湖の畔に至る。湖岸に沿い三日月のような形で広がる街並み。青い煉瓦屋根。湖面は鋼鉄のような深い青の上に鈍色のの幕を敷いていたが、雲の隙間から幾本も幾本も射すジェイコブスラダーが波を白く輝かせる。その許された地上の光、天国への階段は眼差しの届く限り、広大な湖面の遥か水平線までだまし絵のように繰り返され続いているのだ。
 考え始めれば夢中になり、おしゃべりとなると尽きせぬ城字もだまってその景色を見つめ、そして緩く踏むアクセルで坂を下り始めた。見下ろしていた世界、額縁の絵のようだった風景の中にフィアットはのろのろと入り込む。
 最後の丘の上、かつて関所だった古い門が遺されていた。それが街の入口だ。書かれた古い文字をカーズが読み上げる。古い言葉は太古から世界を見つめ、宇宙からこの世界を恋うた生き物の口から発せられるに相応しい響きを持っており、城字は音楽のようにそれを聞いた。
 カーズは天才だが、芸術には頓着しない。世界はあるがままでカーズにとって彼の所有するに相応しい世界で、三十六巡前はその選定の過程で放逐されてしまったが、彼曰く水の器のこの世界でも花はカーズの眼鏡にかない、久央も洋平も気に入られ、そして人間はと言えば最初に食べることに決めた祝杯こそが城字だから、今しばらくは人類も安泰だ。しばらく…まあ数十年程度だとしても。そんな世界の中で絵画よりも目の前の景色の主であり、どんな造形物も自然物の他は自分の創ったものには敵わないに決まっているだろうと圧倒的支配者力で人間の芸術など小手先だと鼻で笑うカーズが手を伸ばしたように見えない分野が音楽で、城字の思うらく音楽よりも雨音波音、そしてなにより頬をそよがす風の音が至上のもの
だと思っているらしいだが、きっと歌おうという意志を持ち彼が歌えばそれは美しいに違いない。古代の言葉が唇からこぼれるだけで、炎を閉じ込めた結晶をぽろぽろと吐き出しているかのように幻想的だったのだ。街に着いたらひとまず情報収集に車のラジオをかけようと思っていた城字だがスイッチを押すことなく手を離した。耳の中でもう少しカーズの声を繰り返す。だが。
「さて、ここの人間どもは何をしているのかな」
 とラジオのスイッチを入れたのはカーズで、城字は思わず真横を向く。
「前を向け」
 カーズの手が伸びて城字の頭をがしっと掴み前を向かせる。
「横を向きながら運転など器用な真似はできんだろう」
「いや、僕、結構器用に自信は…」
 言いかけたところでタイヤが路肩に乗り上げそうになり、おとなしく前を見た。ラジオは城字をからかうように陽気なジングルを流した。午後のニュースの時間だ。
 ニュースが税金の値上げ法案やそれに反対するデモのこと、首相の誕生日や八十二歳のシェフが作る人気料理のことを喋る間にフィアットは森を背後にしたホテルに到着した。チェックインをすませるが、まだ日は高い。観光フェリーなら夕方の便に間に合うだろうとフロントマンに言われ、隣を見上げると、流石に一般社会でおおっぴらに究極生命体を主張するのはやめたコート姿のカーズが年下の我が儘を聞いてやるふうに笑った。それを見たフロントマンも微笑む。
「その船、ディナーは?」
 城字はちょっとムッとしながら尋ねる。電話で確認をとると空席があるということだったので、その場で予
約をした。
「僕にだってこれくらいの甲斐性はあるんだ」
「ただの意地だろう」
 本来なら食事も必要としないカーズだが城字の作った料理は文句を言わず食べるし、城字と一緒の食卓であれば意外と自分から席に着く。今回も軽い揶揄はあったが反対はないらしい。
 湖岸までは車を使わず歩いた。ゆっくりと傾く太陽の光を浴び、カーズも少し目を細めている。以前はこんな光景の中を歩くことさえ叶わなかった。最強にして脆い肉体。今は陽の光とお友達なのだとカーズは笑う。お友達という言い方がカーズの口から出る言葉としては間違いなく可愛すぎて城字は込み上げる笑いやハートマーク付きの感情を堪えるので必死だった。
 昔は被っていたらしい帽子も必要ない。溢れる長い髪を結い、巻いた頭巾は光を防ぐためではなく似合う装いを好んだためだ。頭巾を留めるのは赤い石。対して城字はほぼいつもと変わらない格好で、肩や袖口に星のマークのあるコートはお気に入りなのだけれども、こう並ぶと差が歴然としてしまって自分もちょっと気合いを入れたファッションをすべきだったかと思ってしまう。
「また下らんことを考えているな。名探偵ならばもっと別なことに頭を働かせろ」
「…例えば? ディナーのメニューを当てるとか?」
「気づいていなかったのか」
 路地は真っ直ぐ湖岸に出た。小さな船の係留された木の桟橋が目の前にのびている。カーズは湖岸沿いの道路ではなく、真っ直ぐ桟橋に向かって歩き出した。
「ちょっとカーズ、ディナーを予約したの向こうのフェリーだよ。それ違う船だって。っていうかそれボートだ
し」
「ジョジョ」
 城字はぶるっと震えた。カーズの声はとても、とても楽しそうだった。
 後を追って桟橋に立つ。カーズの隣に並びカーズの見ているものと同じものを見た時、城字も勿論理解した。解決を、ではない。解決を待つ謎が前菜のごとく提供されたのを、だ。
「またかい!」
 あまりに不謹慎な叫びだが、頭を抱えた城字を同情する者はいなかった。
 ジェイコブスラダーに照らされた白い波の中、ぽつんと浮かんでいる小舟。白いボートの船首近くが真っ赤に染まっている。人が横たわっているように見えるのだが、白いボートに赤い模様の不自然さといい、ただの昼寝とは思われない。そもそも胴体と首が離れすぎている。
「もう…マジか…」
「どうする、名探偵」
 探偵と死体が一つの舞台に揃えば、数多の選択肢の中、選ばれるストーリーは一つしかない。
「しょうがないなー!もー!」
 城字はボートを指さし、大声で言った。
「現場保存しつつじっくり観察できるように旋回!」
「よかろう」
 カーズは小脇に城字を抱えると、もう片腕を漆黒の翼に変形させ、ばさりと一打ちした。桟橋を中心に波紋が広がり、二人の足は宙に浮く。
「GO!」
 灰色の空の下、白く輝く梯子を抜けていざ殺人事件の幕開けへ。
 それにしたって舞台となった景色が美しすぎて、おじゃんになったディナーのことを考えると城字は残念がらずにはいられないのだった。






2013