恋人と浮気




 浮気したいな、とジェラートが呟く。ソルベは薄く瞼を開いた。寝覚めの枕元はまだ暗く、隣で頬杖をつくジェラートの肩の稜線が仄白く浮かび上がる。
 不穏な科白を問い詰めることはせず、まだ眠気に引き摺られたまま手をゆるく持ち上げ、額に触れた。そこへジェラートの視線が落ちるのが、ぽとりとあたたかな湯の雫を落とされるように分かった。
「ソルベ?」
 寝ている、と仕草で示した。ふ、と柔らかな笑いが降ってきて枕の上を撫でる。
「お前と浮気してみたい。隠れて逢い引きして、キスをするのはいつも路地裏かアパートの階段だ。クローゼットの中に隠れて、そこでセックスする。裸のままベランダから飛び降りて逃げるお前を見送りながら恋人に殴られる」
「恋人は誰だ」
 寝起きの掠れ声で尋ねると、お前だよとジェラートは笑った。
「オレの恋人はお前に決まってる」
「…オレが恋人で?」
「お前と浮気する」
 オレがもう一人必要だ、と言うと、一人じゃ足りないと言いながらジェラートが爪の先で頭をちくちくとつついた。
「もう二三人いたら一日中できるのに」
「オレだってできる」
 目を覚まし乱暴に上からのしかかると、思いの外柔らかな感触を持つ身体が加重に潰れた。はは、と肺の空気を全部押し出すような笑いが部屋に響いた。まだ夜も明けていないのに。すぐにでもその気になれると身体で証明すると、これを待ってたとばかりにキスされる。
 ソルベは自慢げに言った。
「朝飯前だ」
「恋人にするのも浮気するのもお前しかいない…」
 ジェラートはそれを薄闇の下の若い屹立に向かって囁き、熱っぽいキスをした。
 シャワーの最中にもう一度。朝食は濃いコーヒーと、昨夜買ってきて冷凍庫に放り込んだままになっていたアイスクリーム。紙の器を満たす緑色の。
「…マッチャ?」
「ほうれん草」
 新しいフレーバーの味は、取り敢えずジェラッテリアのオヤジを殺しに行くほどのものではない。でも一番はいつだって真っ赤なやつだ。血のように真っ赤な。それで唇を赤く染めたジェラートが、ソルベは好きだ。
 シャワーの熱を残す白い裸の上に口元からこぼれた緑色が滴り落ちる。舌で舐め取ると、首をぐいと引き寄せられ髪の生え際にキスをされた。
「キスマークも緑」
「シャワー」
「その後出よう」
 勿論、ジェラッテリアへ。
 キスを仕返そうと藻掻いていると椅子がバランスの境界線から大きく傾き、ぐらりと一瞬の無重力、それから二人で床に転げ落ちた。いつもはこんなことはない。殺し屋なのだから。敏捷性、動体視力に反射能力、秀でている。しかし床に転がったままキスの続きと、意味のない笑い声。ようやく窓の外が明るくなり始め、これから一日が始まるということさえ不思議だ。
 テーブルの上で電話が鳴った。ジェラートが立ち上がり、取った。すっと表情から温度が失せる。それからナイフで切り裂いたような笑みが広がる。視線は電話の声を追いかけるように逸れ、素足が視線のかわりのように下腹からぞわぞわと撫で上げやんわりと踏みつける。
「予定変更だ」
 音を立てて電話を切ったジェラートが言った。
「ジェラッテリアは?」
「もちろん行く」
 まずファクシミリで送られてくる顔写真を確認し、その顔を切り裂いてから、だ。人気の店だ。お気に入りのフレーバーが売り切れる前に行きたいから返り血は浴びない方向で。
「行くぞ」
 退く足を捕まえてもう一度キス。仕事前にもう一回できるか? 五分あれば。いいや、後でゆっくり楽しもう。赤く溶けたアイスクリームを滴らせて。ベッドも部屋も汚して。
「そういえば、ソルベ、バニラは食べないな?」
 ソルベは黙ってジェラートの柔らかく跳ねた髪にキスを落とした。






2014.2.13