フロウ・アンド・フラッド
ガタガタと音がして、見ると水のボトルがテーブルから落っこちるところだった。ボトルは大きく斜めに傾ぎ、薄青いペットボトルの中で波を立てる。そのたぷんって感じと自分の感覚が一致して、あ、落ちる、これはヤバイと思ったら案の定ボトルはテーブルを離れ空中で反転する。床に真っ逆さまのボトルの重力に引っ張られるみたいにぼくの喉からは高い声が引き出されて墜落していく。螺旋を描いて落ちるみたいに。ボトルは床の上でバウンドし、また青い波が立つ。ぼくは一瞬重力の感覚を失う。身体が浮いたみたいだ。意外と喩えではなかった。爪先が頼りなく床を掻いた。あ、あ、駄目だ届かない。ぼくは目の前のものに縋りつこうとする。テーブルだ。あれ、ぼくがテーブルを揺らしてボトルが落ちたんだっけ。ギッギッとテーブルの脚が床を擦る音。乱雑に積み重ねられた金や青の包みがガサガサドサドサと音を立てて床に落ちる。刹那浮かんだ顔はどれも一瞬すぎて名前を思い出す前に片っ端から忘れてしまう。でもぼくは構わない。 「ジャイロ……ジャイロ……!」 ぼくはそう呼んだつもりだったけど、喉から出るのは自分でも吃驚するくらい高い声で何て言ってるか分からなくて多分あんあんとしか言ってなくてって言うかこれ本当に自分でも吃驚するんだけどすごく大きな声で、あられもなく喘いでいることさえ気持ち良くてもう何がなんだか分からない。ぼく今セックスしてるんだっけ? テーブルに爪を立てながらジャイロの名前を繰り返し、身体の中に貫く熱とBBCの自然番組なんかで見る野生動物が狩りの直後に獲物にがっつくような荒い息に、これは全部ジャイロでジャイロのくれる快感でそのうち突っ込まれてる自分の気持ちよさとジャイロの息とか熱とか腰を掴む手とかの感覚が重なってどっちのか分からなくなってるんじゃないかってくらいの熱い気持ちに包まれて反った爪先がまた床を掻く。すごい。このまま飛ばされる。空に落ちる。 何も考えられない真っ白な意識の中、ぼくという意識とそれを覆う熱しか感じられず肉体さえ消えてしまう。あるのはぼくという存在とそれを包み込むジャイロだけ。ジャイロという名前さえ乳白色の光の中で霞んでしまい、だからぼく以外のものといったらジャイロで、世界はぼくとジャイロでできている、そのくらい完璧だった。満たされている。 多分ぼくはその時本当に気絶しかけていたんだと思う。後ろからジャイロがぼくの髪を柔らかく掴んでジョニィと呼びキスをし、そのまま倒れ込んできたのでテーブルとジャイロに挟まれたぼくは潰される息苦しさとともに再び肉体を獲得した。うっわ、心臓の音すごい、ほんとバクバクいってる。っていうか自分の息がうるさいくらい。ぼんやりしか聞こえないけど。でもジャイロの声はちゃんと聞こえて、ジョニィって囁きながら髪や耳にキスをしてくる。ぼくは顔を傾けて彼のキスを触れさせた。 「ジャイロ……」 「ん…?」 名前を呼んだらまたキスにしかならない。会話が会話らしくなったのは、息はまだ静まってなかったけどあんまりにも「ジャイロ」でキス、「ジョニィ」でキスっていう繰り返しをしすぎてお互いに笑ってしまってからだった。 「すごかったね」 ぼくの身体はまだテーブルに押しつけられて、脚が床から浮いてしまっている。重くない?って尋ねると力強い腕は更にがっしりぼくの腰を抱いた。ぼくは揺さぶられ、頭をごつんとテーブルに落とし、小さく笑う。 「すごかった」 ああ、と返事をしてジャイロが首筋にキスをする。 「どうしてこんなことになったんだっけ」 「そりゃおまえ、オレが帰って来たらおまえが帰って来てて」 「夜勤だったっけ」 キッチンの小さな窓、背後のリビングから差す光は眩しい。ちょうど正午くらいだ。 「シフト変わったんだよ。そしたら…」 「ぼくが帰って来た?」 「ドバイから遙々な」 「人を遊んできたみたいに言わないでくれ。遠征だ」 「知ってる」 「中継、見ただろ」 「見た」 「電話くれた」 「職場からラブコールだ」 「みんな口笛吹いてた」 「聞こえたのか?」 「もちろん」 ドバイワールドカップでアメリカの馬が優勝したのは四年ぶりだ。その最速ニュース・フロム・ドバイと最速インタビュー・フロム・サンディエゴ。ジャイロは堪えきれず笑い出し、ぼくのこめかみに祝福のキスをくれる。 「そう。で、帰って来たら君はいなくて、まあ仕事だろうなって思いながらお土産放り出して水を飲んでた」 「そしたらオレが帰って来た」 最初は休みだったのとかよく帰ったなとか疲れたとかお土産がどうこう言ってたんだと思うけど、今のセックスすごすぎて全部忘れたよね。ジャイロ帰宅、セックスしました以上終了じゃあ終わらせられない。 「また喉乾いた」 ぼくは腕をだらんと垂らすけど床に転がったボトルにはもちろん届かない。 「君のコーヒー飲みたい…」 「離れろってのか?」 「いつまで入れとくつもりだよ」 ぼくはなんとか手を伸ばし、ジャイロの尻の横をぺちぺちと叩く。 「コーヒー」 「ジョニィ」 耳元で囁かれる。 「もう一回、したくないか?」 ぼくは黙り込んで考えるふりをしたけど、飽くまでふり。頭の中では即答してる。 「まあ…ね」 思わせぶりな返事をすると、ジャイロが小刻みに、でもなんかぬるーく腰を動かして、その押しつけられる感触とか爪先がふらふら揺れるのとか。火種を熾すのは容易い。 「したいけど…」 「けど、は無しだ」 「喉」 引き抜かれる速度もなんかすごくねっとりしていて、やばいまたなんかイイところ刺激される、とぼくが目をぎゅっと瞑ったところでジャイロの腕の力が緩んで足の裏がぺたんと床につくが、膝が身体を支えない。そのまま床に倒れ込む。一緒にジャイロも倒れ込む。 ジャイロが水のボトルを取り上げて一口飲む。 「ぼくのだ」 手を伸ばすと、取れるもんなら取ってみなと子供のような意地悪。爪で引っ掻いて奪い取り残り半分を一気に飲み干した、と思ったら口の端から溢れて水は服も床も濡らした。 「テーブル移動しちゃってるじゃないか」 ぼくは床を見る。テーブルの脚が擦って付けた跡。そうだギシギシうるさかった。それだけじゃない、ぼくの声も。よく下の階から苦情が来なかったよな。この時間だしいないんだろうか。それともモップの柄で叩かれる音なんか気にならないくらい夢中だった。 滴り落ちている雫は、最初にぼくがイかされた分と、ジャイロがぼくの中に出した分が、ああ、脚を伝って。ジャイロの手はぼくの内股を撫で上げる。ぼくは肘をついて身体を起こす。 「コーヒーと」 空のボトルを放り、ジャイロの首にしがみついて更に要望。 「昼ご飯も」 「任せろ、ヒーロー」 「じゃあよろしく、ヒーロー」 夜勤明けにこんな体力がどこから出てくるんだろう。ジャイロはぼくをベッドまで抱えて運び、ぼくらは久しぶりに広いベッドを狭くする(それだって十分に余裕があるだだっ広いベッドだけど)。この調子じゃ昼飯はいつになるんだろう。もう一度抱き合って、多分寝て、喉が渇いて起きて、キッチンに行ったらまた盛り上がりそうだ。 キッチンテーブルと、祝いのシャンペンと、デリバリーのピザと、君がいれば。取り敢えず夕方までには食べたい。で、ちょっとはゆっくり落ち着いて話がしたい。せっかくのドバイだし、優勝騎手だよ、ぼく。それからシャワー浴びたり、キッチンの床を掃除したり(すごいことになってる)、あ、思い出した。 「デーツ」 「デーツ?」 「お土産に買ってきたんだ。食べよう」 床に雪崩れ落ちた青と金の包み。ルーシーとか、ホット・パンツとか(彼女に渡すと自動的にディエゴにまで渡るのが癪だ)、マウンテン・ティムとか、お土産を渡す人たちの顔を思い出してぼくは、ああサンディエゴに帰ってきたんだなあ、と実感する。 でも一番は。 「ジャイロ」 きて、と言うとジャイロが覆い被さる。長い髪が眩しい昼の光を遮る。その影の中、ぼくは彼の目を見つめる。まっすぐ、ぼくを見ている。 「帰ったよ」 「おかえり、ジョニィ」 どすんと彼が抱きつく。ぼくは潰されてぐへっとか声を上げながら、でもジャイロを抱き締めて笑い出す。 2014.2.3 |