独り身の寂しい習慣と一般的に呼び習わされる行為について二、三のこと




 ミケランジェロのダビデ像を目の前にマスターベーションをするという話を聞いた時に、それを実践した女は天才だ!とメローネは叫び、女という存在の深淵に深い敬意とキスを贈ったものである。が、隣にいたのは女ではなくその話題を持って来たギアッチョだったので唇はあっという間に凍りついた。
 闇医者は凍傷の残る唇に軟膏を塗りながら、誰彼構わずかい、と呆れたが決してそうではない。勢いもあったがギアッチョが許容の範囲にあるのは自分がゲイの素質を持っているのか、それともギアッチョに女性的な何かを見出しているのか。しかし前者の可能性を探るのは置いといても後者に関してはメローネ自身が首を傾げる。
 裏通りに面した木のドアを開けると階段下でギアッチョが待っていて意外でもあったから、思わず笑みが出た。
「謝罪の言葉なら受け入れよう。さあ言ってごらんよギアッチョ」
「やっぱ死んでこいてめー」
 不機嫌を加速させてギアッチョは立ち上がりすたすたと歩きだした。
「キスくらいで今更怒るのか? バージンじゃあるまいし」
「おい、二秒以内に口を閉じねーと今度は鼻まで凍らせるからな」
 これだけ喋るギアッチョが、いざ人混みにまぎれると途端に無口になる。彼がコミュニケーションを許している人間は多くはない。
 裏通りはじめじめと冷たく、冬でも饐えた匂いがした。メローネはその悪臭が気に入らず顔をちょっと歪める。これが女の身体から発散される匂いであれば脇だろうが股ぐらだろうが喜んで顔を突っ込むところだが。少し歩幅を広げてギアッチョに並ぶと、悪臭など気にも留めない無表情が見えた。常にあらゆるものに難癖をつけるギアッチョがまた扉を閉ざそうとする。表の人間の生きる世界は角の向こう、もう近い。
「口直しにオレの部屋に来ないか」
 メローネが言うと、これ以上ないくらいの渋面がこちらを向いた。いっそギアッチョらしい。
「軟膏味のキスじゃない」
 メローネはごく真面目におどけた。
「ビールをおごろう」
 窓辺の特等席にもう一脚の椅子を寄せ、すぐ隣のホテルで致す新婚カップルを見下ろした。
「花嫁の方は気づいてるな。見ている」
 チーズを抓んだ指を舐め、メローネは指さした。女はガラス窓に両手を突き後ろからせめたてられている。
「ああ」
 低く返事をするギアッチョはすぐ隣にメローネがいるのも忘れかけ、自制しようと努めるものの興奮しているようだった。実に健全だ。メローネはギアッチョがその中にまだ保持している健全さが羨ましい。生身の女。生身のセックス。きっと自分もミケランジェロのダビデ像を目の前に絶頂に至ることができる。しかし、ギアッチョが今自分のペニスに触れてその行為に耽ることができれば、きっと自分の何倍もの快楽を得るに違いないと思った。メローネはたいがいのものには欲情できるが、気を失うほどの快楽に攫われることはない。全ての感覚は快楽に結びついているのに、ピークはてっぺんの平らな山なのだ。
「舐めたいね」
 メローネが言うと、ああ、とギアッチョが上の空で返事をした。
「先の方にしゃぶりついてやりたいね」
「そうだな」
 メローネは満足するまでギアッチョの横顔を眺め、一人でトイレに入った。ギアッチョの鼻息のかすかに興奮したのや、冷たさを纏おうとする瞳や口元、だがあまりに正直な股間を思い出して自慰に耽った。抱く想像と抱かれる想像は混濁して、結局極まったところ、布ごしにギアッチョのペニスに歯を立てる想像をしただけで絶頂を迎えた。メローネは軽く笑い――そこに含まれている憐憫の情が自分自身に向けられたものとは気づいていなかったが――掌の白濁の匂いをかいで鼻歌をうたいながらトイレットペーパーで拭き取った。水音は精液も興奮も洗い流してしまった。
 さてトイレを出てどうしようか。妄想を現実にするのも悪くない。ギアッチョが嫌がらなければの話。嫌がるのを無理矢理、というのは興奮しないでもないが、何事も初めが肝心だ。するとノックの音が聞こえた。
 メローネはニヤリとした。最初の場所が便所というのも趣があっていいんじゃないかな。これが何も産み出さないと思うか? オレはそうは思っていないぜ。
 もう一度ノック。
 メローネはドアノブを回す。至極真面目な顔で出迎えるとギアッチョがドアを掴んでイライラと踵を踏みならした。
「早く替われよ」
「え?」
「え?」
 メローネが引きずり込むよりも、氷の拳が顎にヒットする方が早かった。スタンドの力ありきとはいえ、やはり我が身をもって戦う男の反射神経に軍配は上がったか。メローネはトイレの前の床に倒れたまま閉じたドアを見上げ、口の端から血と唾液を吐き散らして笑った。
「ベネ!」
「ベネじゃねーっつうんだよクソが! 向こう行けボケッ!」
 ドアの向こうから本気の怒鳴り声。
「いいやタダでは起きないぞ。あんたが射精するまでおれはここを動かないぜ!」
 ゲラゲラと笑う。勃起している。今なら絶頂を見られるかもしれない。そうだ、セックスも、マスターベーションも楽しんでやらなくてはならない。そこが重要なのだ。
 欲動に抗いきれないギアッチョの息を聞きながら、そうだとも、とメローネは唇を濡らす血を舐めた。






2013.12.11