十一月の十一日を過ぎて至る二十五日の幻




 正午を前に雨が上がり、陽が射した。理那はつと顔を上げ、縁を振り返った。障子の沈む淡い薄灰の影の向こう、ちらちらと輝くものがあった。理那はそれが何であるとも考えず、ぼんやりとそれを眺めた。文机の上にはジョニィの帽子があった。左手がそれを握っていた。
「ジョニィ」
 障子を振り返ったまま、心ここにあらずといった体で理那は呟いた。
「あなた…」
 ふらふらと立ち上がる。左手は、本人も気づいていないのか帽子を握りしめている。
 障子をそっと開くと、十一月の弱い陽が広い庭に射していた。輝くものは濡れた庭石に反射する光だった。灰色の雲はゆっくりと流れ続け薄くなった切れ間から時々に射す陽が光を踊らせ閃かせるのだった。
 ぬるい風が吹いていた。胸に吸い込む空気は冷たいのに、軒先から滴る雨だれの名残も風の匂いも雪解けのもののようにぬるんでいた。潮風と濡れた草の匂いが層をなして座敷に吹き込む。縁に佇む理那は夢を見るようにその匂いを胸に吸い込んだが、不意に響いた幼子の泣き声に自分の立っている場所を知り思わず身体を蹌踉めかせた。日本にいるのだと、彼女は思い出した。同時に夫がもうそばにいないことも思い出した。急に襲われた虚ろに身体は平衡感覚をなくし、理那は柱に寄りかかった。帽子が足下に落ちた。
 子供の泣き声はジョージよりも更に幼い女の子の声だった。女中があやし、歌う声が聞こえた。それは懐かしい子守唄だった。この土地で古くから歌い継がれてきた子守唄。歌声は理那の身体と心に馴染んだ。この土地は理那の生まれ、育った土地。理那も歌われ、そして歌い継いだ子守唄だ。
「ねんねん、こんこ……」
 唇から自然とこぼれる。理那は柱によりかかったままずるずるとしゃがみこみ、足下の帽子を拾い上げた。聞こえてくる歌声に合わせて唇を動かし、手の中の帽子をぽん、ぽん、と叩く。
「ジョニィ」
 その時、その名を自分が呼んだものか、それとも耳にしたものか、一瞬判断がつかず理那の心は虚ろになった。そこへ再び、ジョニィ、と呼ぶ声が聞こえたので、己ではないと知った。
 座敷を振り返った瞬間、開かれた障子の隙間を駆け抜ける少女の後ろ姿を見た。自分の娘ではない。ましてジョージでもない。少女は赤い洋服を着ていた。スカートを翻らせ、足音も立てず駆け去った。
 座敷童…、と幼い頃父から聞かされた昔話を思い出す。赤い着物の少女の姿で、滞在する家を栄えさせると。この座敷童は、私の夫の名を呼んだ…!
 さっ、と障子を開け放つ。背後が急に明るくなり、畳の上に陽が射した。理那の影は真ん中に長く伸びた。座敷に人の姿はなかった。見間違いだろうか、と肩を落とした次の瞬間、背後に衣擦れの音を聞く。
「ジョニィ」
 理那は振り向けなかった。少女の声は夫の名を呼び、木の杖がこつこつと縁の床板を小突いた。
「全てを失ったあなたが得たもの、そしてあなたが全てを抛って守ったもの」
 それは少女の声であるのに、老成した響きを含んでいた。老いとも若きともつかぬ声の持ち主は子守唄を小さく鼻歌に歌い、声なく笑った。
「私はそれを見たいと望んでいたの。全てを失ったあなたが真に手に入れたものを。ねえ、ジョニィ・ジョースター」
 理那が振り返った時、声の主の姿は消えており庭には木の杖が一本、真っ直ぐ立っていた。何が起きたのか理解できなかった。ぬるい風が吹いて、母屋から幼い娘とジョージの笑い声が聞こえて来た。そちらへ気を取られた瞬間、また射した陽にもう一度庭を振り返るまでの一瞬。木の杖から目を離したのはほんの短い間のこと。しかし杖はなかった。そこにあるのは松の古木だけだ。最初からそこに生えていただろうか。何故か、それが分からない。赤いスカートの翻るのは…弱った心の見た幻か。背後で聞いた声は何だったのだろう。松は深い緑の葉に雨の雫を光らせている。昔からそこに生えていたかのような――生えているのか――古い古い松。かすかに膝が震えた。子供たちの笑い声は高く響いて、足音と一緒に離れて近づいてきていた。

          *

 瞼を開くと、シュガー、と母親の心配そうな顔が真っ先に目に入った。シュガーはベッドの上から優しい母に微笑みかけ、窓の外を見た。正午を前に雨は上がったばかりであり、薄く切れた雲の裂け目から射す光は曖昧模糊としたシュガーの視界も明るく照らし出した。
「ママ」
 シュガーは呼びかける。
「今日は十一月二十五日ね」
「ええ」
「私たちが木の実から解放された日。私たちの二度目の誕生日」
「そうよ。だから早く元気になって」
「ママ。ママはジョニィ・ジョースターとジャイロ・ツェペリを覚えているかしら」
「勿論ですとも」
 母親の振り返った壁には、額縁に入れられた新聞記事があった。スティール・ボール・ラン・レースのゴールの記事。ジョニィ・ジョースター、最終ステージで脱落。ジャイロはその前のステージで脱落している。詳細はない。ただ脱落者として名前が載っただけだ。
「私たちの恩人だもの」
「彼らは旅人だったの。二度と会えるか分からない。旅人とはそういうもの…」
 ママ…、とシュガーは囁いた。
「灯明をともしてほしいの」
「…ええ」
 十字架の前に明かりがともされる。シュガーは胸の上で手を組んだ。
「また会いたいわ」
 少し頬を紅潮させて呟く。
「もう一度話をしてみたい。一緒にお茶をしてみたい。きっと私が話してあげられることもあるはずだわ」
「そうね、シュガー。でも今は元気を出して。お父さんが帰ってきたらね、今日はお祝いの御馳走を作るのだから。チキンを焼いてパイをこしらえて、あなたにもワインをあげる」
「心配しないで、ママ。私はまだ行かないわ。まだ神様のもとへは…。私にはしなければならないことがあるのよ」
 シュガーは手を解き、窓から射す陽を掌に受けた。
「私、まだ少し見守らなければならないものがあるの」
 軒から滴る雨だれが子守唄のように眠りを誘った。シュガーは軽く瞼を閉じ、ハミングをした。それは彼女自身も知らない遠い異国の子守唄だった。






2013.11.25