旅の終わりと最後の接吻




 走馬燈のように思い出が駆け巡ると聞くが、それほど目まぐるしくなかった。寧ろ今までの全てが一枚の絵の中に溶けこみ全てが白く染められていく。あのミルウォーキーの雪景色のようにだ。ジョニィの涙も、怒りも、悔しさも、そしてジャイロの中にあった様々な感情も吹きつける雪に白く覆われたあの日のようにだ。しかし全てを失った中で二人の手の中に確かなものの証としてワインがあったように、今この肉体も魂も全てを手放そうとしている己の中にも漂うものがあった。熱いコーヒーの香りはこの旅を、そしてジャイロの人生を貫いて全ての時間に漂い、そして最後にたった一つのものを見せた。ジョニィと最後にキスをした時のことを彼は思い出した。ほんの数日前だった。ウェカピポに会い、フィラデルフィアにゴールする少し前の日。淡く光の中に溶ける景色に最後に浮かんだのはコーヒーの香りと、ジョニィのわずかに俯いた顔だった。
 ――オレはもうすぐ死ぬだろうが、とジャイロは考えた。オレは最後の瞬間までこれを忘れないだろう。恐怖も悔いもないのは、この今は俯いた顔が、生意気にも前を向き闘志を滾らせ、時には人の心を捨ててまで狂おしく一つのものを求めている。それは生きるということだった。時にはジャイロを恐れさせる漆黒に燃ゆる瞳も、生きる渇望に輝きくだらない冗談に笑いみっともないほどに泣いた。それら全てが俯いた顔に沈んでいる。
 その表情を変える術をジャイロは知っていた。数日前したように、彼はそっと手を差し出した。ジョニィは俯いたままその手を軽く握った。ジャイロは指の腹で掌でジョニィの手の内側に触れる。するとそれまでどうすればいいのか忘れたかのように不器用に握りかえしてきた手がジャイロの手を包み込む。手は言葉をも超えて何よりも饒舌だった。ジャイロは手を握りかえしながら言語を獲得される前からこの世に育まれてきたものがジョニィから伝えられるのを確かに感じた。
 ジョニィの首が傾いた。丸い瞳がこちらを見つめる。そこに繋いだ手が囁く声なき感情が滲み、目元は笑みが溶け、そしてやさしく目が細められた。正面からではなかったが、笑みは、その視線は確かにジャイロに注がれていた。何もない夜に、ただコーヒーの香りだけが漂う夜に、ジョニィの目は心の全てをジャイロに傾けていると語った。口元は相変わらず結ばれ頬も緩もうとはしなかったが、しかしジョニィはそれ以上の行動に出た。冷たい唇をひたとジャイロの唇の端に押しつけ、また静かに離れる。
 あの夜は「ジョニィ」と呼んだ。それからキスをした。ジャイロからは笑顔のキスだった。今、ジャイロの目の前、白い景色にほとんど溶けかけたジョニィはあの夜とは逆に「ジャイロ」と呼んだ。いつものように。無駄なやさしさもなく、気負いもなく。親しみとぞんざいさの混在したいつもの声がジャイロと名を呼ぶ。キスのしっとりとした優しい感触はあの夜となり、様々なベッドのキスになり、十三歳の時に母親から受けたキスと重なり、最後に、覚えているはずもない生まれて初めての祝福のキスに辿り着いた。ジャイロは白く淡い景色の中、自分を祝福した人物の顔を見た。
「…ジョニィ」
 ジョニィ・ジョースター。おまえとの最後のキスを、オレは最期の瞬間まで覚えていると分かっていたんだ。おまえはどうだろうか。覚えているだろうか。もう忘れたか、それともいつか忘れてしまうだろうか。それでもいい。思い出すのは最後でいいさ。忘れたまま天国に来れば、また思い出させてやれるだろう。手を握り、二人の間に確かに存在していたもので掌を満たして、そしたらきっと思い出すだろう。オレたちは長い旅をした。全てを失った日も、何もかも奪われた日もあったが、いつも隣におまえがいた。ジョニィ。蹄の音が聞こえる。ここまで来い。旅はまだ終わっていない。

          *

 海からの風がひどく騒いだ。これから何が起こるかを知っているかのように、松の枝の鳴る音は非難の声にも聞こえた。ジョニィは紙のように乾いた妻の手をとった。ぬくもりの感じられない手を包み込み、祈った。
 そこで起きたのは奇跡だったのか、それとも人生の用意した罠だったのだろうか。取り戻し、また奪われる。無かったこと、にはならない。全ては在る。在った上でゼロとして釣り合うのだ。ジョニィは痛みの味を知っていた。何年も前から。何年も何年も前から。だから愛情の限りをもって、乾いた息子の手を取った。
 月の明るい夜だった。影は暗く、彼はその中に表情を沈ませていた。ただ涙を溢れさせる瞳にあったのは、たった一つの渇望。狂おしいほどに。この愛は死をもっても奪われることはない。
 ああ、ここには愛がある。与えられた全てのキスがある。幼い魂に与えられた兄弟愛も、父の冷たい仕打ちも、そして赦されるべき涙も。勝利に与えられたキス。女たちのキス。妻の口づけ。幼子の柔肌。笑い声。それから。
 コーヒーの匂いだ。
 蹄の音が聞こえた。宿命はすぐそばまで迫っていた。それを知ってしかしジョニィは恐怖しなかった。愛のために全ては為される。与えられた全てのキスと愛を、今こそ与える時だった。ジョニィは愛する人の額にそっと接吻した。






2013.11.11