受難の鳥よ歌えよ/冬来たりなば笑みを




鳥のごとく歌えよ旅の夜なれば





 君を抱きたい、と。ジョニィからその科白を聞かされるのは初めてではなかった。旅の最中、ジョニィは何度その言葉を繰り返しただろう。同じ一つの根源から生まれる言葉は時に真剣に、時に冗談めいて、時には怒りや涙もまじえつつジャイロにぶつけられた。けれどもジョニィがその淡いブルーの瞳にただ風を、ただ夜空を映して、その中の光点の一つ、ジャイロに抱きたいとあたたかい息を吐きかける時、実のところ彼はもう育てられた倫理と常識と神の教えその他諸々の目を瞑らせて両手を広げてやってもいいと思っていたのだ。
「君を抱きたい」
 と。
 絹のように滑らかな黒い夜空に銀盆のごとき月が昇りハッとした。雨は上がっていた。雲は東の空から綺麗に消え去り、山際から上ったばかりの月はポケットの銀貨よりも大きく重たそうだった。濡れた路面がところどころ光り、その上を通るたび水音と蹄に踏まれた月の影が砕けて、始まったばかりの夜が一日の終わりの安息ではなくまだ見ぬ旅路の最初のストレートラインを描いているようで、二頭の脚はなかなか止まらなかった。
 ジャイロは月に向かい口笛を吹いた。メロディはなく、鳥が囀るように高く軽やかに音を響かせた。後ろからメロディをつけたのがジョニィで、それは決してでたらめではない。ヴィヴァルディだな。フルートのための曲だ。父の愛するチェロは人間の声、木管の奏では天上の声だと教会の帰り道、耳にした音に幼心が考えたものである。
 そして今絹のような月夜に父を思い出せば冷たく厳格な父親の内面までも鉄でできてはいないのだと素直に敬意が湧いて出る。あの人の心さえ、木なのだ。折れず撓まず震えることもなきようと修練されたのは、その心が本来弦の震えを幾重にも反響させうるものだから。
 傷痕を指が掻いた。ゾンビ馬の糸の力。ジョニィはツェペリ家の技術、またはジャイロの父親の能力と疑っている。ジャイロには…正直なところ分からない。国王からの贈り物、それが一番納得できる答えだった。これを父からのものと思えば自分の中のグレゴリオ・ツェペリという男も、また自分も脆さを抱え込む気がした。
 口笛が止んでいる。
 蹄の音は一つしか聞こえなかった。止まっているのはヴァルキリーだった。少しの距離を詰めて、ジョニィが並んだ。道はいつの間にか大きく反り、先は見えず、月は天に向かって放り投げたコインのようにペカペカと光っていた。
「野宿にするかい?」
 ジョニィが尋ねる。崩れかけた石垣があった。まあ適当だろうという話になった。夜風を避けることもできるだろう。
「天気のいい昼間に来れば、ピクニックに絶好の場所だったろうね」
 本気なのか冗談なのか分からない無表情で言った。
 焚き火が時々風を感じて揺れる。コーヒーは熱く、いつの間にか雨上がりの風に身体が冷え切っていたのを思い知らせる。やけに静かな夜だった。口笛を吹いていたのがほんのついさっきのことなのに。これから何かが始まるような旅路の最初についた気がしていたのに。確かに感傷とは危険な存在である。だが感傷と無縁な父を思い出す時ほど、それは対になって現れる。己にとって感傷とは何か、それに目を凝らさばこそ。
 天上の音が降る。
 口笛を吹いたのはジョニィだった。メロディではなく、高く鳥の歌うように吹いた。隣を振り返ると、邪魔だったか?と小さな声。
「真剣な顔をしていたから。茶化すつもりはない。それでも君風に言うならば口笛も似合う夜だと思ったまでさ」
 もう一吹き。
「どうぞ続けて」
「そいつのせいで何考えてたか忘れちまったよ」
「思い出して、考えてよ」
「言われて考えるほどのことでもねえ」
「大事なことを考えていたんだろう?」
 今度は少し音を潜めて、ジャイロの鼻先に歌いかけるように。
「心の中に大切なものを抱いている君を抱きたいよ」
 抗う気は、もうあまりなかった。
 冷たい草の匂いが頭の後ろで揺れて、覆い被さるジョニィの身体は生きたものそのものの匂いだった。ジョニィはジャイロの首筋に唇を押しつけて笑い、そのくすぐったさに自分の肉体の輪郭を改めて思い出した。ジョニィのぎゅっと抱き締めてくる上半身と、重たい足の冷たい重量。ジャイロが腰に手を伸ばすとジョニィは口を開けて笑い、分かるよ、まだ分かる、まだ触って、と囁いた。その囁きは真綿のように耳を、頭の中を占め、最早教皇勅令ほどに疑いのもたれない命令になる。
 ジョニィの望むままジョニィの身体に触れているのに、反応するのは自分の肉体だった。艶色の幻さえ瞼の裏を掠めるものはなく、ただ掌に触れるのがジョニィの肉体なのか自分のものなのか境目がなくなり、溶け合った身体が熱い沼にずぶずぶと沈む気がした。波一つ立てず。ただ静かに。ただまったき黒い夜に。
 月だ。
 月が見える。ジャイロは自分の熱い息が煩いほど耳に聞こえるのにようやく気づいた。これは自分の呼吸の音なのだ。ジャイロの上に伏せたジョニィは小さく笑っていて、ねえ、ジャイロ、ジャイロ、と繰り返す。
「言っていいかい? 君が好きだよ」
 ジョニィの手は自分のものを掴んでいる。たった今、射精したばかりのそれを。
「そりゃ…」
 どうも、と力無くジャイロは空に向かって吐き出した。
「おいおいそれだけなのか?」
「オレに妙な期待はするなっつったろ」
「妙な、じゃないよ。当然の反応を待ってる」
「オレがお前の期待どおりの言葉を素直に言うとでも?」
「素直になれば言ってくれるんだな。オーケイ、覚えておく」
 また口笛を一吹き。
 ねえ、とジョニィは笑う。
「もう少し抱いていていいかい?」
「…好きにしてくれ」
「君も、好きなだけぼくに抱かれてくれて構わない」
「じゃあ」
 まあ…。
「好きにさせてもらうさ」
 両手でジョニィを抱き、重みをなす形を確かめた。
「ジョニィ」
「なに?」
 淡いブルーの瞳が間近から見つめる。その鼻の頭に向けて口笛を一吹きしてやった。人の言葉にならぬならば天上の声にて。夜に、心地良さに、感謝を口にするにはまだ恥ずかしくあったので。



秋の最後の夜、冬の最初の朝





 遠くに獣の鳴く声を聞いて意識はうっすらと浮上した。窓を隔て町を隔てても届く。否、小さな町だ。狼も付近まで来ることがあるのかもしれない。通り過ぎたどこかでは犬と狼を戦わせ、見世物にしていた。そこに散ったコインを思った。ひらひらと舞った薄汚れた紙幣を思い出した。自分の上に賭けられたもののようで唾を吐いた。ジャイロには最初から賞金がかかっていた。自分には…? ついでだと思っていた。巻き込まれたと思っていたが、もしかしたらこの命懸けの旅の半分の半分くらいは自分が巻き込んだのかもしれない。この身体の中には自分の生まれ持った肉体ではない、腐らない遺体が眠っている。否、眠っている間もおそらく意志を持ち東を目指している。
 遠吠えにそこまで意識を引き摺られた。眠ろう、とジョニィは頭の中で自分に言い聞かせた。眠るんだ。しかし肉体は既に目覚めかけていてシーツの感触、耳に触れる冷たい夜気といった現実に触れている自覚を眠りの膜を越して届けてくる。やめてくれ、ぼくは眠いんだ。いいや、眠りたいんだ。肉体の奥底で背を丸めるようにして耳を塞いだジョニィの心が、しかし次の瞬間、ふと肉体と溶け合った。
 感じたのは同じ一つのものだった。肉体も、心も、無言のぬくもりを感じていた。近づく寝息。あたたかな枕。ジョニィは薄く瞼を開き、視界が遮られているのを見た。吐いた自分の息さえすぐ側で脈打つ喉に遮られ生ぬるく吹き返す。そこに額を押しつけ、再び目を閉じた。ジャイロの腕は逞しく、枕としては薄すぎるということは決してない。寝心地はまた、身体だけが決めるものだけでもなく。
 甘やかす気はないと言いながら、黙ってこういうことをやるのだ。もしかしたら何かを察したということもなく、眠る身体が側にあったからつい、という行動なのかもしれない。お互い共にする枕に不自由してこなかった身らしいので、そのあたりの色男ぶりはいっそ評価さえする。
 ――まあ、負ける気はないけど。
 ジョニィは息の触れる喉元に唇を寄せ、感謝の囁きのような誘いの言葉のような曖昧な音の羅列を口から漏らした。頭上でジャイロが息を吐き返事のような寝言のような声を立てた。
 次に目を覚ましたのは夜明け前で、ジャイロはほとんど昨夜の姿勢のままだ。自分が枕に敷いていた腕が冷えているのをジョニィは額で触れ、唇で触れて確認し毛布を引き上げた。それからしばらくジャイロの寝顔を見下ろしたが、不意に毛布ごと抱き締める。埃が舞い、ジャイロが小さく呻く。
「…朝か」
「もうすぐ」
「どけ。起きる」
「動かない腕でかい?」
 ジョニィはきつく腕に力を込めると、寒い、と呟いた。
「もう秋も終わった」
「雪降ってんじゃねーのか」
「緯度的にはね。でもまださ」
「匂いが」
「ん?」
 起き出してジャイロは窓からまだ暗い外を見た。ジョニィも車椅子に移り、隣に並ぶ。
「霜が」
「ああ」
 ジャイロの口元がかすかに緩む。
「なに?」
「朝の、まだ誰も踏んだことのない野をヴァルキリーと走った」
 ジャイロは髪をかき上げた。その耳にジャイロが聞いたのだろう音をジョニィも想像した。凍えた草を霜柱を踏む音。処女雪を踏みしめて立つ一人きりの世界。
 朝陽を拝む前に宿を出る。朝食の支度でエプロンを濡らすおかみと、竈に火を入れていた小僧が見送ってくれた。朝食は昨日の冷たいパン。それから沸いたばかりの湯で淹れたコーヒー。街道を東へ。山間から朝陽が差し、振り返ると小さな町の屋根屋根が金色に輝いていた。
「いい町だったよ」
 ジョニィは言った。
「よく眠れたし」
「そうか?」
 ジャイロが振り返る。
「ああ」
 ジョニィは歯を見せず、少しだけ口の端を持ち上げて見せた。
「お蔭でぐっすりと」
 先に立って走る。夜は全て背中に置き去りにされた。金貨のように輝くものがあれば、それは太陽だった。風に舞うものがあればそれは草葉だった。二人の目の前には遠い山までただ広く広く広がる草原だけがあった。これがこの肉体の値。この身体で挑むもの。さあ今日も休みなく走り続けよう。小休止したければこの腕があれば充分。あるいは隣で走る男の肩でもあれば。ともあれ、一日は始まったばかりだ。
 冬の風は冷たくジャイロのマントをはためかせ、ジョニィの目を細めさせる。
「冬が来た」
 白い息が流れ去る。見るとジャイロの口からも白い息が漏れていた。よし今度はあの唇にキスしてやろう。ジョニィはそう決めて追い越そうとするジャイロを引き離しに、馬の足を速めた。






2014.1.13