記憶の中の海、記憶のない海




 静かだった。シーツや窓を隔てた向こうにはまだクリスマスが終わっても熱気の余韻が、あるいはニューイヤーのカウントダウンを目の前にした賑わいが通りを満たしている。今年は花火も上がるらしい。そんなニュースをまどろみの中で思い出しながらぼくは一人では広すぎるベッドの上に丸くなっていた。少し前にジャイロが帰ってきたのには気づいていた。部屋が静かすぎたので、鍵を開けるわずかな音でも目が覚めた。今はバスルームを使ってるみたいだ。シャワーではなく、バスタブに湯を張って。ぼくの耳は静けさの世界に没入する。かすかな音を辿る。流れ落ちる湯の、満たされ抑えられたかすかな音を。
 クリスマスが終わってこちら、ジャイロのテンションはすっと緩んで静まりかえっている。この部屋の静けさも、家主である彼の穏やかな心持ちが伝播したものなのだ。クリスマスの翌朝、ぼくは浮かれた気持ちを引き摺りながらカウントダウンストリートライブはやるのかと尋ねた。
「……ん? 何だって?」
 シャツを着替えながら、ジャイロはまだ寝ぼけているかのような返事をした。
 だから、とぼくはベッドの上で頬杖をついた。
「大晦日の夜さ。ライブはやらないの」
「ああ…。いや多分病院に缶詰だな。去年は丸々休んだから」
 現実的な事情よりも気のない返事は、しかし何となく納得できるもので、それは今年ジャイロの故郷に行き、彼の生家を見たからだろう。イタリアの旧家。厳しさの中に家族愛を秘めた父と慈愛に溢れた母親。たくさんの兄弟。そして生活と仕事に深く根付いた信仰。あまり意識させられたことはないが、ジャイロも敬虔なクリスチャンなのだ。その中で自分という男性のパートナーを連れて故郷へ帰ることは相当なプレッシャーだったに違いない。ぼくはあの旅のことを思い出し、夢の中だと分かっているけど思い出し笑いをする。寝返りを打つ。
 ナポリの家を思い出す。何世代も前から診療所をしているという古い家だった。石造りで涼しく、この冬の最中に思い出しても心地がよかった。あの大きなテーブルでジャイロは家族と食事を摂ってきたのだ。幼いころから、あのテーブルについて。クリスマスは…きっと派手ではなかったのだろう。でも特別な料理が並び、祈りの言葉が唱えられ。プレゼントはあったのかな。あの厳しいお父さん、グレゴリオ・ツェペリがラッピングされた箱を子供の枕元に置くところを想像すると微笑ましいけど、どうだろう。
 そんなことはなかったのかもしれない。それでもジャイロにとってクリスマスはやっぱり特別な日で、勿論サンディエゴ独身男協会定例会でのワンマンライブのことはあったかもしれないが、それ以降の彼はまるで燃え尽き症候群だ。
 ぼくはトレーニングと馬の日々。ジャイロはサンディエゴのERという戦場で仕事の日々。クリスマスが終わってからはまるで普通のような日々が過ぎてゆく。
 ドアの開く音に意識がまた浮上した。足音はぺたぺたと。裸足だ。掌がベッドの上を探り、シーツが捲られる。冷たい空気が流れ込みぼくの身体は反射的に小さくなるが、目覚めた気配は見せない。ジャイロはゆっくりとぼくの隣に身体を横たえ、ぼくの耳元で溜息をついた。
 部屋はまた静けさに満たされた。寝息さえ聞こえない。ぼくはもうそんなに深く眠っているのだろうか。自分の心臓の音はどうだろう。ベッドの上に溶けてしまっている。ジャイロは。
 シーツの海という表現が冗談のように本物の景色になり、ぼくは海の上にいる。夜の深い海が揺れている。遠くに陸地が見え、そこでは波が白く砕けているのに音は聞こえない。ぼくは両手で足元の波をかき分け、水底を探す。――ジャイロ。
 眠ったのはどれくらいの時間なのか。今の夢は何なのか。ぼくは身体を起こし、シーツの上に手を這わせ、シーツの上からジャイロの身体に触れて胸の奥から息を吐き出した。
 きっとぼくはこの夢を何度も見ている。でも覚えていたことはなかった。
 ジャイロの寝顔を見下ろす。静かな顔だ。この部屋の静寂と同じように。冬の静寂。唇はほんのわずか開いているが、寝息は聞こえない。でも生きているのが分かる。この掌の下で、ジャイロの身体はあたたかく、心臓は鼓動を打つ。
 ぼくはいつまでもジャイロの寝顔を見下ろしていた。こうして彼の寝顔を見下ろすことが今まで何度あっただろう。二人きりのレースを終えた砂漠の教会の日陰で、狭い車の中で、モーテルで、飛行機の中で、そしてこうやってベッドの上で。ぼくはこの瞬間、ジャイロの寝顔を見つめる全ての瞬間、理解した。言葉にならないもの。形のないもの。ぼくは全てをなげうっても、平らな水面に起きたほんの小さな波紋のような些細な喜びを掴みたかった。これが幸福だった。ゼロのほんの少し先で手に入れたかったもの。
「ジョニィ」
 瞼を閉じたままジャイロが呼んだ。
「オレを見ているな」
「ジャイロ」
 起こしたかい、と小さな声で尋ねる。ジャイロは目を瞑ったまま鼻から小さく息を吐き口元に笑みを湛えた。起きる気はないらしい。
「見てたよ」
 と、ぼくは答えた。
「何を考えている」
「…君は?」
「簡単には教えられねーな」
「じゃあ、ぼくも言わない」
 ぼくの科白に応えるようにしてジャイロの笑った気配があり、彼の意識はまた眠りの中へ沈むようだった。ぼくはジャイロの閉じた瞼の上にキスを落とし、再びシーツの中に潜り込もうとした。その時、寝返りをうったジャイロが腕を伸ばしてぼくの腰を抱いた。掌は、彼が何度もそうしてきたように、ぼくの傷跡の上をなぞり背骨をなぞった。ジャイロの手はいつもそこに埋まっている奇跡をなぞった。今は平らだ。ただぼくの背骨が並んでいるだけ。
 ジャイロがぼくのお腹に顔を押し付ける。キスなのかもしれない。ぼくはジャイロの髪を撫で、頭の上にもキスを落とした。
 ぼくはもう一度眠る。今度は夜明けまで。夢は見たのかもしれない。あの悲しい風景。薄曇りの夜の下、暗い海と、波の下のジャイロ。朝日を浴びた時、ぼくはこの夢を忘れるかもしれない。でも朝が来ても、新しい一日、新しい一年が始まっても、ぼくの心の奥底であの風景は音のない波を立て、そこに在り続けるんだろう。そしてぼくは何度も知り、理解する。
「おはよう」
 あくびをしながら通り過ぎ、新聞を取って戻ってくる。テーブルにつくと、ジャイロがコーヒーを持ってきてくれる。
「おはようさん」
「ありがとう」
 ぼくはコーヒーを受け取って新聞を広げる。ジャイロが向かいの席に座る。
「すごいね。今日で今年が終わりだなんて」
「マジか」
「実感ある?」
「あるような、ないような、だな。いや…」
 ジャイロが手を伸ばし、新聞に隠れていたぼくの顔を覗く。
「なくもねーな」
「そうだね」
 ぼくは新聞を下ろすジャイロの左手をとって、指輪の上にキスをする。
「なくもないよ」
「ちゃんと、ある、と言え」
「君こそ」
 ジャイロがぼくの頬をつまみ、ぼくは手を伸ばしてやりかえす。両手で思い切り引っ張ったり、鼻をつまんだり、ふざけているうちにコーヒーがこぼれそうになって慌ててカップを掴み、それぞれ飲み干す。
 まったく、今日で今年が終わる日の朝だってこんななのだぼくらは。とうとうジャイロがぼくを掴まえ、したり顔のキスをした。それからぼくも反撃に出てちょっと本気になりかけたけど、盛り上がるのは今夜でいいだろう。お互いに仕事があるんだし。
「覚えてろよ」
 濡れた唇の端を親指で拭いながらジャイロが言う。
「その言葉、そっくり返すよ」
「真っ赤だぞ、おまえ」
「顔洗う」
 洗った後、また壁に押し付けられてキス。真面目な顔でされたので、こちらも真剣に返した。間近で見るジャイロの顔は、いつものジャイロだった。ニヤリとちょっと意地悪そうに笑う、でも目の奥は静かで簡単にその正体を明かそうとしない。でもぼくはその正体を知っている。
「ユリウス…」
 囁くとジャイロがさっと頬を赤くさせ、ぼくの頭を軽く叩いた。ぼくは笑いながら彼の首を抱き、もう一度キスをする。胸の奥の海は静かに凪ぎ、平らかな水面に朝日を反射させる。
「ねえ、ジャイロ」
 ぼくは窓からサンディエゴの街を見下ろす。
「出勤にはまだ早い?」
「少しな」
「海を見に行こう」
 するとぼくの唐突な提案に、彼はにっかり笑った。
「いいぜ」






2013.12.31