エピローグ
閃く光に立ち止まる。その瞬間、音も時間も消え失せる。ルーシーはそっと窓に手をついた。ニューヨークの街を埋め尽くすビルの屋根屋根に白い雪が光っている。天は高く澄んで晴れ、どこまでも広がる青空に冷たくも爽やかな風が吹いている。 風の向こうに光が見えた。 かつてこの街のシンボルだった双子のタワー。自分と夫だけではない、友人たちや名も知らぬ多くの人々の運命を変えて崩落したビル。 それは刹那の光の幻だった。静かなざわめきが耳に蘇る。長く伸びた廊下は床も壁も天井も白い、見慣れた病院の廊下だ。忙しなく行き交う医師やナースが会釈し声をかける。それをベンチに腰掛けた患者が不思議そうに見上げる。ルーシーはにっこりと笑い返し通り過ぎる。紙コップのコーヒーを手にぼんやりと見送る患者は、まだ少女である彼女こそがこの病院のオーナーだとは思いもしないだろう。 最上階まで来ると忙しさも影をひそめ、廊下はひっそりと静まり返る。奥の病室にプレートはかかっていなかったが、今も一人の患者が入院している。その彼をわざわざ見舞うのはルーシーの本意ではなかったが、しかし友達の夫では仕方がない。花束を抱え直しノックをする。入って、と落ち着いた声がした。ルーシーは意を決してドアを開けた。 「待ってたわ、ルーシー」 「ルーシー…」 苦しげなファニー・ヴァレンタインの声が遮られる。ルーシーはドアを開けた姿のまま立ち止まり、黙ってその様子を見つめた。ベッドに横たわる包帯だらけのヴァレンタインの上、より正確に描写するなら顔の上に妻のスカーレット・ヴァレンタインは形のいいお尻を乗せて存分に圧迫しているのだった。 「ちょうどお仕置きの時間だったの」 助けを求めてルーシーの名前を呼ぶヴァレンタインが更に潰れた声を上げる。 「あなたが来ると聞いた途端にはしゃぎだして、これじゃあ何の為にこんな怪我をしたのか分からない。でも見方を変えてちょうだい、凄いガッツでしょ。こんなにタフな人は他にいない。だから好きなの」 あら、私ばっかり喋ってるわ、あなたも喋って、とスカーレットは両手を開いた。 「その、奥様…」 「もう! 私のことはスカーレットって呼んでって言ったでしょ。あら、その花束は?」 「お見舞いにと」 「マイク!」 スカーレットが呼ぶと隣室とを隔てる小さなドアからマイク・Oが姿を現し、ちらとルーシーを見遣った。 「この花を飾って。素敵なバラの香り」 「承知しました、夫人。ところで…」 何、と短く問い返すとマイク・Oは言いにくそうに、その…、と口籠もった。 「大統領…、いえ前大統領が」 「まあ。ファニー、ファニーったら」 スカーレットは床に下りると尻の下ですっかり気を失っていた自分の夫を乱暴に揺さぶった。 「ドクターを呼んで。ファニーの容態が急変したわ。早く!」 マイク・Oは何か言いたげだったが、鞭打つような声にぴしゃりと背筋を伸ばして内線電話を取り上げた。 「じゃあルーシー、私たちは向こうでお話ししましょう」 スカーレットは自分が花束を受け取るとルーシーの肩を抱いて外へ促した。 廊下を抜けてもスカーレットは立ち止まらなかった。ベンダーのある階まで下り、ざわめきの中でベンチに腰掛けて溜息をつく。 「静かな場所は好きよ。賑やかな場所も。私は居たい場所に居ることができた。色んな我が儘を言ったわ。権力者の妻である特権ね」 再び溜息をつくと、抱えた花束に顔を埋める。 「花束なんて久しぶり」 「あなたが?」 「彼はよき夫である以前によき愛国者なの。私の順番はいつも後。でも不服じゃないわ。だってファニー・ヴァレンタインの妻はこの世に私一人なんだから」 いい香りとスカーレットは繰り返す。 「スカーレット…」 ルーシーは目の前でバラの花束に顔を埋めじっと目を瞑る女性の名を控え目に呼んだ。 「その…私に用とは」 「…ヴァレンタインという男は不屈の愛国者よ」 バラから顔を上げ、黒い瞳は強い眼差しを少女に向けた。 「知っているわよね」 「ええ」 「私は彼を愛している。彼に無償の愛を与えることができる。でも彼の幸運の女神ではない。そこへあなたが現れた。神の奇跡を身に宿した少女。ルーシー・ペンドルトン」 「スティーヴンと婚約したばかりの頃…」 「そうよ。とても可愛かったわ。私は一目であなたに夢中になった。ファニーもね。同時に彼は失望もした。あなたが宿した九つの奇跡はもう最後の一つしか残されていなかったから」 「ちょうど経営再建の時期でした。とても苦しかったけど、それでもこの病院の評判を聞いてわざわざ海を渡ってやってきた女性がいたんです。両目が失明しかけていました」 「その女性に」 「右の眼球と」 ルーシーはその時のことを思い出しながら目元に触れた。 「左の眼球を。それで私に残されたのは脊椎だけに」 「初めて話してくれたわね、ルーシー。そんな話だったとは知らなかった。そして最後の奇跡はあのビルで使われたということ」 「ええ」 「一つ尋ねてもいい? 何故自分の夫と自分が無事生き延びられるよう使おうとしなかったのか」 「私は、スカーレット、幸せになりたいといつも考えています。幸せになるために行動してきた。でも幸せとは? 肝心なものはいつだってこの手でなければ掴み取れなかった。私がこの身に宿した聖人の遺体のパワーは本当に凄いものでした。盲目の瞳に光を取り戻し、動かなかった脚を走らせることができる。でも私はこうやって自分の脚で歩くことができる。スティーヴンのまだまだ元気です。私が欲した幸せは、私たちが築くべき幸福とは遺体の力でさえ与えることができなかった。寧ろ問題さえ呼び寄せてしまった」 「それが私の夫という訳ね」 苦笑を浮かべたスカーレットは立ち上がり、ベンダーのコーヒーを二杯買った。カップが目の前に置かれる。 「夫はまだ諦めていなかった。マイク・Oを使って奇跡の保持者…逃げた二人の行方を捜させていたのよ」 「あの…二人を…」 「見つけたのはブラックモアよ。ベッドから起き上がることもできないほどの重症だったのに恐れ入るわ」 コーヒーの脇に汚れたノートが差し出された。 「あの朝出航した船の内、一隻がイタリアに到着した。その船倉から見つかったものよ」 ルーシーはノートを手に取りパラパラと捲る。途中までページは破り取られており、日記は唐突に始まっていた。一月十七日の夜から。 「これは…!」 「彼女…いいえ、彼ら、ね。彼らは生きているわ。ネアポリスの港で目撃されたのが最後。その後の足取りは分からない」 「本当に…生きて…?」 「船員や港の職員は背の高い男と車椅子の女性が下りたと証言している」 「車椅子の」 「左足を失った女性」 あの時…、とスカーレットはその場に自分がいなかったことを心底憤慨しつつ――わたしがその場にいたらファニーだけじゃなくてあなたも守ってあげられたわ!――言った。 「あの馬鹿げた映画みたいな銃撃戦で見たというあなたたちの記憶が正しければ、それはあなたとわたしがあの日ビルの最上階で出会った花嫁と同じ人物なんでしょう」 「ジョニィ…」 ルーシーはノートを胸に抱き、身を乗り出した。 「彼…彼は、ジョニィ・ジョースターよ。ケンタッキーダービーを十六歳で優勝した、あの、ジョジョだったの」 「ジョジョ…ジョーキッド」 覚えているわ、とスカーレットも頬を紅潮させた。 「ねえ、スカーレット」 「いいえ、私が知っているのはここまで。後はノートが詳しく教えてくれる」 「ありがとう、ああ、スカーレット」 「部屋に戻って読むことをお勧めするわ。このコーヒーは美味しくないし、それに」 彼女が首を巡らせた方に視線を遣ると、背の高い女性の後ろ姿が足早に立ち去るところだった。肩で切り揃えた髪。パンツスーツ。 「この病院はスパイでいっぱいね」 冗談めかして笑いスカーレットは立ち上がる。しかしすぐには立ち去らなかった。 「ヴァレンタインは再び大統領の椅子に座ることをまだ諦めていないわ」 その横顔はしかし、誇らしげな笑みを湛えていた。 「私、彼が好き。彼の夢を私も愛している。だって私はファニー・ヴァレンタインの妻だもの」 「スカーレット」 「祝福してちょうだい、ルーシー」 スカーレットは膝に手をついて背を屈めた。顔がルーシーの鼻先にくる。 「夫に内緒であなたにプレゼントしたんだもの。お礼をちょうだい」 「勿論ですわ…」 ルーシーはスカーレットの美しい額にキスをする。伏せていた瞼を開いたスカーレットが仄かに淋しげな顔を見せた。離れようとしたスカーレットの首を掴まえて、ルーシーは自分の唇を相手の唇に触れさせる。 「これは…私の心からの感謝の気持ち」 「ルーシー」 元大統領夫人は少女のようにあどけない顔で笑った。 「可愛い人。わたしたちずっとお友達でいましょう」 「ありがとう、スカーレット」 最上階の病室に戻るスカーレット・ヴァレンタインを、ルーシーはその姿が見えなくなるまで見送った。 * 「ディエゴ…」 病室のドアを開けたホット・パンツは目の前の光景に心底呆れながら、同時に諦めもしながら声をかけた。 「それを仕舞え。子供の情操教育に悪い」 「何? 何だと? オレとお前の子供がそんなにヤワであるはずがない」 「赤ん坊なんだぞ。トラウマになったらどうする」 呼応するようにベビーキャリアでサンドマンに抱かれた赤ん坊が声を上げる。 「喜んでる」 ベッドの上からディエゴが見上げる。その腕にはガラスの筒を抱えていた。筒は薄青い液体に満たされ重たそうだ。液体に浮かぶのは人間の脚。膝から下で切断された人間の左脚だ。 「で、スカーレット・ヴァレンタインはルーシーを呼び出して何だと?」 ホット・パンツは答えたくないようだが、ディエゴの命令することだ、口を開かずにはいられない。渋々答えた。 「生きている」 「生きている?」 「二人とも」 「二人とも?」 「ジョニィ・ジョースターとジャ…」 答の続きは哄笑に遮られた。耳まで裂けた口から放たれる笑い声の洪水は止まらなかった。 「ほら! 言ったとおりだ! あいつが死ぬはずがない! 言っただろう。二十ドルを賭けたな。オレの勝ちだ。ジョニィは生きている!」 「ジャイロ・ツェペリもだ」 「構うか!」 フン、とディエゴは鼻で笑った。 「さあ、寝てばかりはいられないぞ。働けサンドマン、働けホット・パンツ。まずは市長選だ。最後は大統領の椅子であいつを待たなければならない」 「ジョニィが帰ってくると思うのか?」 「帰ってくるとも!」 ディエゴの笑みは自身に満ち満ちていた。 「オレが生きていると知ればあいつは必ずオレを殺しに来る。見ていろ、血相を変えてやって来るぞ。ジョニィはオレなしでは生きることも死ぬこともできはしない!」 「もしも」 サンドマンが口を挟む。 「ジョニィ・ジョースターが無視したら?」 「無視できないほどの姿を見せつけてやる。さあ王座で待ち受けるのはこのDioだ。お前たち準備はいいか?」 「勿論その為に去年から準備を進めていた…」 「違うぞ、ホット・パンツ」 ディエゴはベッドから包帯を巻かれた腕を伸ばしホット・パンツを抱き寄せる。 「オレと共に勝者の階段を上る準備だ」 「私はあなたの踏み台なんだろう、Dio」 「踏み台はそこらへんにぞろぞろいる。オレに必要なのはオレを抱きとめる椅子だ。座り心地のいい椅子」 「椅子か」 「お前はオットマンだサンドマン。語呂がいいだろう」 サンドマンは反応しない。赤ん坊が涎まみれの手で顔をベタベタ触るのにされるがままだ。 「ジョニィ」 ディエゴは腕に抱えた円筒の中の左脚に囁いた。 「お前の生でオレを祝福しろ。このDioを」 口づけをすると、だからやめろ子供の教育に悪い、とホット・パンツが叱った。サンドマンの腕の中では赤ん坊が声を上げて笑う。 * 爽やかな風が草原を吹き抜ける。ルーシーはポーチのアームチェアに腰掛けていた。胸にはまだノートを抱いていた。柵の向こうでは馬たちが晴れた冬の陽を浴びている。 マウンテン・ティムを見舞うのはこれが初めてだった。銃撃戦の現場で自分を助けてくれたのは彼だというのに、足はなかなかそちらを向かなかった。しかし今日、スカーレットの言ったとおり自分がオーナーを務める病院であってもスパイはあちこちにいるので落ち着かない。スティール、と遠慮がちに声をかけると彼女の夫は午後の仕事を全てキャンセルしルーシーを車に乗せてくれた。 クレーンなど重機が喧しく働き、少しずつニューヨークらしい街並みを取り戻すグラウンド・ゼロを横目に通り過ぎる。郊外に向かう道であると気づいたルーシーが運転席の夫を見ると、彼は前を見つめたまま言った。 「マウンテン・ティムは信頼できる男だ。それに見舞いの品を持って行きそびれていてな」 牧場の敷地に踏み入った時にはタイヤの音で気づいていたのだろう、マウンテン・ティムは外まで二人を出迎えてくれた。今はスティーヴンと二人、ウィスキーを舐めている。スティーヴン持参の品だ。怪我の具合はブラックモアに次いで酷かったのに、強引に退院して牧場に戻っても休んでいない。 「痛みももうない」 彼は笑う。君の顔を見れたから、とは流石に言わなかったけれども。 ウィスキーを挟んで、男たちは何を話すのだろう。ジャイロ・ツェペリのこと。医師であるジャイロはルーシーとスティーヴンにとって公私ともに親しい存在だった。また馬乗りのジャイロはマウンテン・ティムの気の置けない親友でもあった。 「彼はきっと訂正する。悪友だってな」 ジャイロとの思い出は尽きない。それにジョニィ・ジョースター。出会ったのはほんのわずかな時間だが忘れがたい。数年前テレビで見たジョッキーの姿。去年の九月のウェディングドレス。それからグラウンド・ゼロでの傷ついた姿。ジャイロも酷く傷ついていた。死んでしまうのではないかと思う程。 だが生きている。 その二人が生きている証拠がここにある。 ルーシーは抱き締める腕を解き、汚れた表紙を緊張しながら捲った。 「黙っていると気が狂いそうだ。 ジャイロは目を覚まさない。 一月十七日。 ニューヨークを出て、多分二日経った。よく覚えていない。ジャイロに抱えられて船に乗った。汽笛の音が響いたのは覚えている。ぼくはそこで気を失ったらしい。 貨物船に乗っている。乗組員は全員東洋人だ。言葉が通じないんじゃないかって心配したけど船医は英語が通じる男だった。他にも何人か。このノートをくれた人懐こい男は片言しか喋れない。でも色々と世話を焼いてくれる。 何を書けばいい。天気のいい日が続いている。航海は順調だ。乗組員たちは今夜もパーティーをしていた。男同士でダンスを踊り、おどけて尻に触る。ぼくはもうそれに加われない。 左脚がないのは夢じゃない。最初、目覚めた時は恐かった。これからどうなるのだろう。恐怖しかなかった。でもそんな恐怖はずっと生易しいものだったんだ。ジャイロが目を覚まさない。船医は突然転がり込んできたぼくらを匿ってくれた。(もしかしたら匿ってくれたのはこのノートをくれた乗組員、すきっ歯のあの男かもしれない。)船医は大量の血を失って気絶したぼくの左脚を治療してくれた。驚くべき体力だ、という。普通なら起き上がることはおろか目を覚ますことだってできないだろう怪我だと言った。いいや、ぼくのことはいいんだ。ジャイロだ。ジャイロが目を覚まさないんだ。 船に乗り込んだジャイロもそのまま倒れた。身体中に銃弾を受けたジャイロもまたこの船医の治療を受けたっていうか手術? 手術された。本当に身体中穴だらけだって。包帯に血が滲むんだ。見て分かるよ。生きてるのが不思議なくらいだって。奇跡だって。奇跡だっていうんならジャイロの目を覚まさせてくれ。おかしい。ぼくだけ目覚めて彼が目を開かないなんて。 パーティーを抜けたすきっ歯がぼくらの部屋に来た。ぼくが歯を食いしばって泣いてばかりいるからってノートをくれた。それからワインも。 ジャイロの口に少しだけワインを流し込む。ジャイロは起きないけど、ほんの少しのワインなら口の中に入っていく。生きているのが分かる。ぼくはそれが嬉しくてまた泣いてる。この船に乗ってから泣いてばかりだ。 ぼくもワインを少し飲んだ。一人で飲むと渋い。また吐いた。寝る。 一月十八日。 目を開けると船医がいた。昨日ぼくは一月十七日だと思ってたけど、この船が出たのが十七日で、それからもう何日も経っているという。でもぼくにとってはあの夜の続きだ。だから日付は変えない。 今日はよく晴れている。でも凄く寒い。息が真っ白だ。太陽も出てるのに。 船医はジャイロの包帯を交換し、ぼくの左脚を診てくれる。ぼくは熱があるらしいけどよく分からない。気分が悪いのはずっとだ。船酔いかもしれない。船医は傷のせいだろうって言う。 ジャイロが起きない。書くことがない。もう書くのはやめる。ジャイロを抱いて寝る。 一月十九日。 波が高くなった。気持ち悪くて吐いた。ジャイロは起きない。でも身体はあたたかい。 一月二十日。 愛してるよ、君を。 一月二十一日… 一月二十二日。 窓から太陽が見えてマジでビビった。ひどく長い間光を浴びていないように感じる。すきっ歯があんまりしつこく誘うから、背中におぶわれて甲板に出た。本当はジャイロと来たかったのにと思うとまた涙が出てきた。すきっ歯が気を遣って日本のお菓子をくれた。柔らかくて中にシロップが入っている。すきっ歯がそれを食べると薄い皮を破ったシロップが外に飛び出て汚い。でもぼくはちょっと笑った。すきっ歯はわざとそんなことをしたんだ。部屋に戻ると船医がジャイロの手を撫でていた。ヤバイと思った。絶対にアブナイやつだ。無理矢理すきっ歯の背中から下りて船医に立ち向かっていったぼくは案の定転んだし色んなものを倒したりした。でもすきっ歯も、船医も怒らなかった。船医は迷惑そうな顔はしてたけど。 二人きりになってジャイロの手を握る。どうして目を覚まさないんだ。大西洋はなんだか波も冷たくて、たとえ晴れた日でもぼくは毎日吐きそうになっている。お願いだ、起きてくれジャイロ。目を覚ましてくれ。 一月二十三日。 何も食べる気がしない。もう一週間が経とうとしているのに、ジャイロは 毎日書いている。毎日ジャイロが目を覚まさないってことばかり考えてる。最悪のことを考えては打ち消して、こうやって書いていても気が狂いそうだ。今日は日曜日だという。本当に? 安息日に神は慈悲をもたらさないんだろうか。いつも、ぼくは見てきたから知ってる、ジャイロは、ジャイロの寝顔は無表情に近いんだ。何を考えてるのか、どこから来たのか正体は何者なのか分からない、見てると謎の男だなあって思う寝顔なんだよ。いつもそうだった。あのニューヨークのアパートで過ごした日々。ぼくが生きてこの胸に刻みつけた日々。君の寝顔も何枚瞼のシャッターを切っただろう。なのに、ジャイロ、どうして微笑んでいるんだ。 どうしてそんな安らかな顔で眠っているんだ、ジャイロ。 お願いだ、目を覚ましてくれ。世話を焼かせて、と怒ってくれていい。泣いてばかりのぼくをまた叱ってくれていい。殴ったっていい。だから目を覚まして。そんな顔で眠らないでくれ。お願いです、神様、彼を連れて行かないでください。幼いぼくから兄を奪ったように、今また彼を奪わないでください。あの日ぼくが認めなかった罪をぼくは認める。魂が消えてなくなるまで永劫にその罪を背負う。ぼくはもう、ジャイロだけは失いたくない。他の何を失ってもだ。この命だって投げ出していいし、投げ出すよ。それで君が帰ってくるなら。いいや、命でも足りないなら、ぼくの希望を。もう二度と歩けなくなっても構わない。この右足もと言うならそれも捧げます。神様、ぼくの全てを奪ってもいい。だからどうかジャイロを目覚めさせてください。波の音しかしないこの部屋から、どうぞお救いください。」 ルーシーはふやけたページを捲った。点々と落ちた涙の跡。波打つページに、滲んだ文字。 「全てを捧げ、君を愛する。」 残りは白紙のページだった。涙の跡はその後何ページか続いていたが、新たな日付が記されることはなかった。その上にまた、ポトポトと涙が落ちた。ルーシーの目から溢れたものだった。 ルーシーは微笑み、しかしすぐ顔をくしゃくしゃにして泣いた。男たちは部屋から出てくる様子がない。ルーシーは存分に泣くことができた。ハンカチもクリネックスもいらない。涙が溢れるままにまかせ、ルーシーはノートを抱く。斜めから射す冬の陽が優しく爪先を撫でる。一頭の馬が風の匂いに誘われるように走り出した。窓から顔を出したマウンテン・ティムが叫ぶ。 「ヴァルキリー!」 * 不意に車椅子が止まってジョニィは背後を振り返った。甲板の上、空はよく晴れていた。海の色も明るい。美しい港はもう目の前だ。 車椅子を押す男は空を仰ぐ。長い髪が風になぶられる。 「ジャイロ?」 「思い出していた」 ジャイロが見下ろす。いつになく真面目な顔。郷愁を感じているのだろうか。 「生まれ故郷に帰ってきたから?」 「オレがこの街を出た時、相棒が一緒だった。オレの愛馬」 「ヴァルキリー…」 ジョニィも覚えている。マウンテン・ティムの牧場で出会った気高く美しい馬。 「置き去りにしちまったな。勝利の女神と一緒に」 「ぼくらは負けたんだろうか」 「少なくとも密航者で犯罪者で逃亡者だ」 「すごく堂々とした密航者だけどね。入国できると思う」 「向こうが駄目だっつっても通る。だろ?」 「ああ。ここでUターンなんかできない」 「障害があるといよいよ燃えるぜ」 品のない笑みを浮かべ、持ち上がった口元から金歯が覗く。 「ゴー、ゴー、ツェペリ」 「ゴー・ジョニィ。ゴー」 船が接岸し、タラップが下ろされる。ジャイロはひょいとジョニィの身体を抱え上げた。膝の裏に当たる手はほんのわずかに体温を感じる程度。しかし脚は、爪先をピクリとさえ動かすことができない。だらりと垂れた右足と、だらりと垂れたズボンの裾。この光景は何度見てもジョニィの胸を刺す。この脚はもう二度と動かないだろう。神に、いいや、彼に捧げた脚だ。 ジャイロはまっすぐタラップに向かって歩き出す。乗組員たちの注目が集まる。 「ちょっと!」 「ジョニィ、オレは真っ直ぐ行くからな」 その科白にやれやれと肩を竦める。 「もうちょっと目立たない廻り道の方がいいんじゃない?」 ジョニィは手を伸ばし、ジャイロの右目の下に浮かんだ痣を撫でた。銃弾の傷が癒えても残った痣は、不思議と美しい十字を形作っている。 「いいからオレについてこい。落ちるなよ」 「それ口実?」 にやにやと笑いジョニィはジャイロの首に腕を回した。 「真実だ」 「じゃ、ぼくの腕力相当覚悟しといてよ。首折るかもってくらい抱くから」 「望むところだぜ」 港ではたくさんの人間が船の到着を待ち、手を振っている。その向こうには古くも美しいネアポリスの街並み。 「あのさ、ジャイロ」 ジョニィは顔を赤らめながら強く言った。 「誤解してほしくないんだけど、その、ぼく、顔はいいし、脚はこんなことになったけど椅子に座った時とかやっぱりスタイルいいし、だからさ……多分、スカートも似合うと思うんだよね!」 ジャイロが目を見開くとジョニィは物凄い剣幕でまくし立てた。 「いいか! ぼくがスカートを穿きたいんじゃないからな! ただぼくには絶対似合うって言ってるんだ。この服、あのすきっ歯のお下がりで古いし腰からずり落ちそうだし新しい服欲しいし、じゃあ折角ならぼくが凄く似合う服を着てるとこ、君に見てもらってもいいだろ!」 尚も噛みつこうとするジョニィの鼻先にキスが触れ、怒濤のような言葉が止まる。 「ああ」 ジャイロは品のない、だがいつもの、こっちまで食べてしまうかと思う程の笑みを浮かべた。 「スゲー楽しみだ」 キスをすると甲板からも港からも拍手と口笛が起こる。 「相当目立ったぞ」 「運命共同体だ。同罪といこうぜ」 「勿論」 ジャイロは宣言どおり、真っ直ぐ船を下りてゆく。真っ直ぐと港へ。海を越えて辿り着いた東の、新たな岸辺へ。 風が舞う。渦を巻き、空へ昇る。冬の陽の光をきらきらと巻き込みながら。 朝が来たばかりのネアポリスは新たな旅人を迎え、動き出す。 2014.4.18 |