サクロサンクトサクリファイス 27




 感覚が研ぎ澄まされていく。これだけの負傷と寒さと疲労の中でも、神経が指先の先まで爪先の先まで行き届きあらゆる情報が流れ込む。熱。痛み。生きている。流血しながら、泥と埃と灰にまみれながら、尚もこの両脚を踏みしめて自分は生きている。
 自分だけではない隣の男も生きている。確かな息づかい。懐かしい馬の呼吸にも似た荒々しさと、熱とが一月の夜に白く浮かび上がる。たったブーツ一足の他は全裸でここまで駆け抜け、灰と煤にまみれ、手には鉄球を握りしめている。
 敵意もまたひしひしと全身に感じられた。この場にいるのは目の前のディエゴだけではなかった。傍らには、守るように少し前に出たサンドマン。その背後にホット・パンツ。しかしジャイロはジョニィが目を据えると反対側に視線をやり、おいおいマジかよ、と呟いた。ジョニィもちらりとそれを見て、懐かしい顔が想起させる悪夢の記憶に目を剥いた。アメリカ合衆国前大統領ファニー・ヴァレンタインだ。その隣にいてこちらに銃口を向けているのは憤懣の表情を浮かべた二人の男。ジョニィはその顔も忘れていなかった。アパートに追ってきたのもこの二人の男だ。ブラックモア。マイク・O。揃い踏みだ。
「どうしたジョニィ。感動の再会だぞ。飛び込んでこい」
 ディエゴが芝居がかって腕を開く。ジョニィは黙って手を構えた。回転する爪は相手の眉間に狙いを定めている。
 ジョニィ、と隣からジャイロが呼んだ。
「お前は撃つな」
「は? 何言ってんの?」
 ジョニィは奥歯を噛み締め指先に神経を集中させる。
「ジョニィ」
 急に笑顔を消してディエゴが呼んだ。
「まだ分からないのか」
「何が」
 冷たく返事をすると、ディエゴは再び堪えきれない笑いを喉に響かせた。
「それ。それだ、ジョニィ。お前は気づいてないのか? ならばこのDioが教えてやる。お前はこのオレをこそ愛している、ジョニィ」
 口を突こうとした悲鳴を飲み込みいよいよ指先に力を込める。しかしディエゴは笑って構おうとしない。スタンド能力が発現したことを知らないのか。多勢に無勢だと余裕を見せているのか。
「一つヒントを与えてやろう。ジョニィ、何故撃たない。その回転する爪が何もかも切り裂くことはオレも知っている。大した威力だ。その気になればそこのサンドマンも殺れただろう。それにオレのこともだ。さっきから撃つチャンスはいくらもあった。横から見ているブラックモアの弾より、お前の爪がオレの眉間を撃ち抜く方が早い。なのに何故、お前は撃たない。ジャイロに撃つなと言われたからか? 迷っているのか? いいかジョニィ、お前が自分の感情を何と名付けようと、何だと把握していようと、それはもうオレへの愛だ。お前はオレなしでは生きることができない。オレを殺そうと思うからお前は生き延びることができる。オレが飼ってやるから、オレが死なずにいるから、お前は安心してオレへの復讐心を滾らせ生きることができるのだ。今、オレを撃ったらどうなる?」
 プッと唇を鳴らし、ディエゴは両掌を空へ向けた。
「お前は生きるための指針をなくす。どう生きればいいのか分からなくなる。息もできなくなるはずだ。それもそのはずだ。オレはお前の全てを知っている。世界中でオレだけがジョニィ・ジョースターの全てを知り、理解できるからだ。青春時代と家族との鬱屈、ジョッキーとしての成功。その肉体も。男を失い、女の肉体でセックスをし、身も心も作りかえられエリナ・ブランドーという名も手に入れた。結婚指輪を嵌め、ウェディングドレスを着た。神の前で誓い、赦されない全ての罪と共にオレのものになった!……実の兄を殺したという罪と共にな」
「ディエゴ!」
「ほら、何故撃たない? 今、撃てよ。できないんだな。胸に手をあててよく考えるんだ。お前を嫌っている父も、誰もお前を赦さない。神もだ。隣の男も真実を聞いたらドン引きするぞ? だがオレだけは違う。オレは罪を犯したお前を愛している。だからあの罪はオレの心の中に留めていた。どうだ、ジョニィ、オレを殺したいだろう」
「殺してやる…!」
「ならこっちに来い。自分の脚で歩いてここまで来い。撃つことを許してやる」
 爪のカッターが発射される。しかしそれはディエゴの髪の毛を掠めただけで遠く外れた。
「戻って来い。オレの足下に跪け、ジョニィ・ジョースター。お前の真実の姿、全てを知っているのはこのDioだけだ。お前を本当の姿に戻してやれるのも、このDioだけなのだ」
「黙れ!」
 右手の爪を全て撃ち尽くす。更に左手も、と思った時、しかし既にディエゴの姿はなかった。隣でジョニィ!と叫ぶ声が聞こえる。一瞬にして炎に照らされた景色が翳り、身体は瓦礫の上に叩きつけられていた。
 異形が、自分を見下ろしている。爬虫類の目。爬虫類の顔。鱗の生えた皮膚。
 あの距離を一瞬で移動したのか? この姿は? スタンド…。
 雄叫びが聞こえ、視界の端でジャイロが腕を振るう。しかし自分を押し倒す化け物はひょいと首を捻っただけで投擲された鉄球を避けてみせた。
「貴様も調査どおりだ、ジャイロ・ツェペリ」
 人間の声帯の発する声ではない。しかしコレは、この化け物はディエゴ・ブランドーだ。
「攻撃されてからでなければやり返さない。対応者にすぎん、とお前を調査した者は唾を吐いていたぞ。戦えぬ男など男の風上にも置けないとな」
 鉄球は瓦礫を抉って回転を続けている。
「どうするジャイロ・ツェペリ。逃げ出しても構わん。オレはお前などに興味はない。失せろ。追いかけもしないさ。あるいはお前が望むなら、お前のことを飼ってやってもいいぞ? 妻のためにプレゼントを買い与えるのは昔から夫の務めじゃないか」
 ざけんな…!と飛びかかろうとした瞬間、銃声が響いて血飛沫が飛ぶ。肩の肉が抉れ、ジャイロは倒れそうになりながら脚を踏ん張った。ぎろりと後ろを振り返る。撃ったのは飽くまで冷静な顔をしたマイク・Oだ。その隣のブラックモアも、それにファニー・ヴァレンタインも三文芝居を眺めるように、早く終わらないかという顔でこちらを見ている。
「ジョニィ」
 冷たい舌がべろりと顔を舐め上げる。
「なんならここで証拠を見せてやるか? 夫婦の証を」
 ぼそぼそと囁かれた言葉に爪のカッターを撃とうとしても、両腕は鋭い鉤爪のある手で押さえつけられ、脚は動かない。
 ジョニィの目に漆黒の炎が燃え上がる。絶対に、目の前の男だけは…。
 が急に意識を逸らされる叫びが響いた。
 サンドマン!と叫んだのはホット・パンツだった。
「どういうつもりだ、サンドマン!」
 ジョニィはディエゴの肩越しにその男を見た。ディエゴはゆっくりと振り返った。サンドマンが残った手に銃を握り、ディエゴの頭を狙っている。
「俺にあんたが殺せないと? Dio」
 口調は静かなまま、サンドマンは内側に熱砂のような感情を渦巻かせた。
「俺も男に生まれた。欲しいものは手に入れる。その為には何でもする。あんたが教えた、Dio。男の生き方とはそういうものだと」
「ならオレの考えを理解しろ」
 恐竜のような頭が振り返ってもサンドマンは微々たる動揺も見せなかった。
「あんたのことは理解している。あんたは俺のものにならない。だから手に入れる、俺のやり方で」
「サンドマン!」
 ホット・パンツの鋭い叫びが響いた。
「銃を下ろせ。さもなければ…」
 しかし言葉は続けられない。誰一人として動くことができない。
「これはこれは」
 別の方向から朗々たる声が響く。
「これはどういうことだ。直近の部下を統率できないようではこの先が思いやられるな、ブランドー」
「ヴァレンタイン」
 ディエゴが吐き捨てた。声の主は堂々と力強い足取りで歩み寄る。その脚が見える。隣ではジャイロが白く震える息を吐きながら自分に狙いを定めて近づく二人の男を睨め上げる。ジョニィは彼の姿を見た日の記憶と共に忌々しくその名を口にした。
「ファニー・ヴァレンタイン」
「私の名を軽々しく口にするな」
 ヴァレンタインは憎悪にも近い厳しい視線でジョニィを刺す。それは即ち彼の手のした銃の向く先だった。
「一つレクチャーしてやろう、ブランドー。繁栄に犠牲は付きものだ。それが自分の愛した人間であってもだ」
「ヴァレンタイン、貴様!」
「いいやその前に私は目の前のものを人間とは認めない。男でもない。女でもない。紛い物の肉体を売りさえするバケモノを私は人間とは認めないぞ」
 ジョニィは理解した。自分を狙う銃口のどす黒さ、重さはファニー・ヴァレンタインの個人的感情、彼の私的正義による自分への憎悪なのだ。
「そりゃどうも」
 ディエゴに押し倒されたままジョニィは唇の端をちょっと持ち上げて笑った。
「あの日ぼくの手を引いてヴァージン・ロードを歩いてくれたのに、お父さん」
「誰が貴様の父だと!」
「スイませェん、落ち着いてください大統領……いえ前大統領」
 ブラックモアが一歩前に進み出る。
「ご安心ください。問題はすぐに排除いたしますので…」
 その視線はジョニィを見据えていた。
 ブラックモアは振り返りもせず合図も送らない。しかしマイク・Oもまた同じようにジャイロに銃を突きつけ、躊躇いなく引き金にかかった指に力を込めようとした。あまりにもあっさりと。ディエゴが反応するよりも早い、それは素早さではなく行為があまりにも出し抜けで止め得ないものだった。
 ここで、死ぬ?
 ディエゴ相手でもなく、ただの銃弾一発で、死ぬのか?
 ジョニィの耳の奥に耳鳴りが鳴り響く。キーンと高い音を発するそれは回転する音だ。風の渦巻きが引き絞られ、勢いを増した渦の発する回転の音。
 死なない。こんなところでは。
 ジョニィの目から漆黒の炎が消え、淡い水色の瞳は自分を押し倒す異形の面を見上げた。
 押さえつけられた手の、指先を僅かに動かす。
 回転は続いている。
「やめなさい!」
 その声は凛としてグラウンド・ゼロに響き渡り、誰もが一瞬その声に気を取られた。
 グラウンド・ゼロという空間に再び全員の意識が向いた時、夜に響く蹄の音が分かった。蹄の音だ。馬が駆けてくる。
 暗闇から現れた斑模様も美しい馬とそれに跨がるカウボーイ、そしてカウボーイに身体を支えられ銃を突きつける少女の姿はジョニィにとって救世主そのものであり、絵画的でさえあった。
「やめて。全員銃を下ろして」
「ルーシー…!」
 ヴァレンタインが感慨深げに呼んだ。
「我が女神。どうしてこんな場所にいる。そしてどうして私の邪魔ばかりする」
「やはりあなたねファニー・ヴァレンタイン」
「マウンテン・ティム…!」
 苦しげに呼ぶ、これはジャイロだ。
「お前たちのことだったのかジャイロ、それに…」
「貴様らは黙っていろ!」
 何故かブラックモアが憤る。
「スカーレットの話を聞いておかしいと思っていた。彼らを巻き込んで何をするつもりなの」
「ルーシー、言ったはずだ。私が望んでいるのはこの国の繁栄のみ。私にはこの国を繁栄に導く力がある。再び大統領として返り咲くには力が必要でね。そのためには多少の犠牲はやむを得ない。あとは君が我が下にくれば完璧だ。神の奇跡をその身に宿した君が」
「私はルーシー・スティール。スティーブン・スティールの妻。それ以外の何者でもない。本来守るべき人々を踏みつけにするあなたの正義になんか力を貸さない」
 ルーシー・スティールの銃は迷わずヴァレンタインに向けられ、同じ瞬間にはブラックモアの絶叫が辺りに木霊していた。
「女!」
 ブラックモアは怒りに震える手でルーシーに銃を向けた。
「お前は、今! 自分が何をしているか、分かっているのか。今、今すぐ! その汚らわしい銃を下ろせ!」
 高まった狂騒が飽和し、ブラックモアの絶叫が消えると場は静まり返った。タクシーの燃え上がる音だけが響く。全ての銃口が膠着していた。どれか一つが火を噴けばこの場にいる全員が倒れることになるだろう。もしかしたらルーシーだけは、彼女の身体を強く抱きかかえるマウンテン・ティムによって守られるかもしれないが…。
 息の合間、歯が震えている。ジョニィはジャイロを見上げる。その身体はかたかたと震え、肩には血の花が咲いている。しかしその目はしっかりとジョニィを見た。
 この世界がクソだろうと、地獄だろうと。
 自分の魂が汚れていようと、肉体が紛い物だろうと。
 ジャイロを信じる。
 ジャイロを信じることはできる。
 ジャイロだけは信じられる。
 耳の奥に渦巻くものがあった。風の音だ。
 鉄球がゆっくりと転がってくる。とてもゆっくりとした速度でジョニィの手元目がけて転がってくる。誰の目にも入っていないようだ。ディエゴの目にも。
 ジョニィは爪を回転させる。もう少しだ。この爪の先で触れれば、鉄球の回転が復活する。
 音は金色をしていた。
 鉄球は弾け飛び、ディエゴの顔面を狙う。ディエゴは大きく首を逸らしたが頬が大きく抉られた。肉が弾け、裂けた傷から奥歯の牙まで覗く。
 悲鳴を上げディエゴが仰け反る。
 その瞬間、サンドマンの銃口もホット・パンツの銃口もジャイロを向いた。
 激しい雨のような銃声がグラウンド・ゼロに叩きつけた。その様子をスローモーションでジョニィは見た。
 ジャイロの身体が血を拭き上げる。
 一発。もう一発。銃弾が食い込んで、そのたびに血が、炎に赤く照らされて夜に散る。
 ジョニィはディエゴの下から抜けだそうとするが動けない。上体を仰け反ったディエゴが、それでも鉤爪を食い込ませジョニィの左脚を離そうとしない。
 ジョニィは手を構えた。ディエゴは笑っている。最初から笑っているのだ。鉄球で頬を抉られながらも、ジョニィをこの手の中に捕まえて、笑っている。
 唇が動く。
 ジョニィ、と。
 ディエゴ囁きに被せてもう一つの声が、ジョニィ・ジョースター、と呼んだ。
 身体の熱を感じていた。何にも負けない熱が背骨に生まれていた。
 何かがいる。自分以外の大きな力がジョニィを支えている。
 誰かいるのだ。背後に寄り添っている。生温かい息遣いを感じる。
 このぬくもりは、あの日、九月のあの日、ビルから飛び降りた自分を掴み引っ張り上げたあの体温だ。
「ジョニィ・ジョースター」
 耳元で声は囁く。
「迷ったなら撃つのはやめなさい」
「迷ってなんか、いない…」
 ジョニィは手指の先を自分の左脚に向けた。
 音は聞こえない。だが三発目。背後からマイク・Oの撃った弾がジャイロの身体を貫く。
 今行く。今、行くぞジャイロ。
 ぼくの爪はベッドも床も切り裂く強力なカッターなんだ。
「ジョニィ!」
 ディエゴの叫びは遅かった。ジョニィの爪は既に全弾発射され、ジョニィ自身の脚をずたずたに切り裂いていた。
 これで自由だ!
「ジャイロ!」
 脚は動く。それでも動く。神経が隅々まで行き渡っている。だから動かせる。片足でも。もう片足の膝から下がなくても。これはぼくの脚だ。
「ジャイロ!」
 泣き叫び、ジャイロの腰にしがみつく。ジャイロの身体は傾きかけるが、それでも倒れない。更に四発目の銃弾は逸れて瓦礫を砕いた。ファニー・ヴァレンタインの銃弾だ。ジョニィは振り返り、再生した爪を発射する。ヴァージンロードを共に歩いたヴァレンタイン。化粧を施したホット・パンツ。何度となくジョニィを差したサンドマン。そして、ディエゴ。
 弾雨の余韻が長く尾を引く。
 銃口から立ち昇る煙。噎せ返るような血の匂い。馬上のルーシー・スティールが両手に握った銃からも硝煙は立ち上っていた。彼女を抱き締めたマウンテン・ティムは背中から血を流し、鞍から滑り落ちた。
 声が響く。時間が動き出す。
 馬から飛び降りたルーシーがマウンテン・ティムの身体を揺さぶっている。皆、倒れている。自分の主を、愛する人を守るように、そして守られるように。
 その中にディエゴは佇んでいる。
 ジョニィは激しく息をする。
 ディエゴの足下には千切れた自分の左足が転がっている。撃ち尽くした爪弾は?
 ジャイロ。
 ジャイロは?
 ジャイロは倒れない。
 右手が真っ直ぐに伸びている。その指先は血で真っ赤に染まっている。
 ジョニィの顔に血が滴る。ジャイロの傷口は更に抉られ、そこから血が溢れ出している。何故。
「ディエゴ」
 ジャイロが口を開いた。唇の端から血がこぼれ落ちる。だがジャイロは唇の端を持ち上げ、開いた口から金歯を覗かせ品無く光らせた。
 両腕が強くジョニィを抱き締め、抱え上げる。
「見えるか、ディエゴ・ブランドー」
 ジョニィは両腕でジャイロの首に縋りつき、ジャイロが声をかける相手を振り向いた。ジャイロは密着した身体を更に強く抱き締め、笑った。
「ジョニィ・ジョースターはオレがもらった」
 こちらをじっと見つめるディエゴの瞳が歪み、カスが…、と小さく吐き捨てられた呟き。噛み締めていた爪が歯の間からぱらぱらと落ちる。その時、ジョニィは気づいた。白い額の小さな点。そこに食い込んだもの。広げられたジャイロの傷口。血塗れの指先。
 鉛玉の食い込んだ額から、つ、と一筋の血が流れ落ちた。
 鱗が剥がれ落ち、炎の明かりの中にブロンドの輝きが戻る。ひび割れた頬、引き裂かれた頬を笑みのように浮かべ、ディエゴ・ブランドーの身体は瓦礫の中に崩れ落ちた。
 ジャイロはにやりと笑った口に指を咥えた。指笛が高らかに鳴り響くとマウンテン・ティムの馬が闇の中から駆け寄る。
 片手に手綱を掴み、ジャイロは尋ねた。
「乗れるか?」
 ジョニィの唇は震えていた。激しい痛みはある。しかしそれ以上に魂が叫んでいる。
「ぼくはジョッキーなんだ。乗れる」
 馬は瓦礫の山を後にし、ニューヨークの夜をひた走る。頬を冷たい風がびゅんびゅんと音を立てて掠める。その中に冷たいものを感じた。雪がまた降り出した。
「ジャイロ…」
 ジョニィは裸の胸に縋りつき、弱々しい声で囁いた。
「どこに行くんだ…?」
「東だ」
 潮の香りがする。冬の海の冷たい匂いが鼻を刺す。
 海だ、と囁くと、ああ、と穏やかな声が返した。
「大西洋だ」
 景色がかすかに青みがかった灰色に染まる。夜明けが訪れようとしている。蹄は埠頭に高らかなギャロップを響かせ、それも激しく降り出した雪の中に遠ざかり、後は汽笛の余韻と波の音が残るばかりだ。出航した船の姿さえ、白く塗りつぶされる。
 コツ、コツ、と硬質な音が響いた。埠頭に残された馬が蹄を鳴らしているのだ。一台の車が猛スピードで乗り付け、開いた助手席から少女が飛び出した。ルーシー・スティールだった。ルーシーは孤影に駆け寄ると、首を垂れた馬の頭を抱き声を上げず泣いた。追って車から降りたスティーブン・スティールが脱いだコートを彼女の肩にかけ、そっと抱き締めた。




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2014.3.28