サクロサンクトサクリファイス 26




 生まれたての気持ちで目覚める。ジョニィは優しい夜の闇に瞳と漂わせぼんやりとした。腕の中には重量があった。自分を抱く重量もあった。ジャイロの身体であり、ジャイロの腕だった。手指の腹でそっと顔を撫でると、ガオ、と小さく狼の鳴き真似をする。ちょっと開いた唇から覗く金歯が光って、暗い部屋にもかすかな光は射しているのだと思う。
「ジャイロ」
 ジョニィは掌を頬に沿わせ、額に口づけを落とした。
「起こした?」
「かもな。でも悪い気分じゃあない」
 瞼が開いて穏やかな瞳が見上げる。
「腹減った。おまえは?」
「ぼくも」
「何が食いたい」
「何でもいい」
 外側から少し大きな手で包み込み、ジャイロは自分の頬を撫でる掌にキスをする。
「ジョニィ」
「えぇ?」
 ジョニィはわざと困ったような声を上げて笑った。
「するの?」
「したくないか」
「三大欲求に忠実だな」
「生存本能には逆らえない」
「その生存本能を裏切るよ、ぼくの身体は…」
 言いかけたところをジャイロの唇が塞ぎ、寝起きのキス、酷い、と互いに笑いあいながら唇を離した。
「してもいいよ。っていうかぼくもしたいけど、それより先にさ」
 君のコーヒー、とジョニィは囁いた。
「飲みたい」
 すると太腿に当たるジャイロのそれが硬くなって、ジョニィはまた笑い声を上げた。小さく、絶え間なく、無邪気で、耳に心地良い。ジャイロの手はもうジョニィの腰に伸びていたが、愛しげに撫でながらもジャイロは、コーヒー?と尋ね返した。
「コーヒーだよ」
 君の淹れるコーヒーが大好きなんだ、と素直な告白を聞けば床の上に転がったままだろうケトルを思い出しても水浸しのキッチンに向かわなければならない。
「コーヒーだけか?」
「肉…ううん、久しぶりに魚もいいかな。でも肉」
「久しぶりにステーキ食いてえよな」
「最後に食べたのいつだっけ」
「クリスマスの後の…ってことは去年か?」
「去年。一ヶ月経ってなにのにね」
「こええ」
 くだらないお喋りをしながら、なかなかベッドを出る踏ん切りがつかない。いつまでもこうしていたいという思いが、他愛もない言葉を応酬させる。空腹だ。確かにコーヒーが欲しい。しかし満たされてゆく。このまま全てを満たしたい。ベッド。横たわる身体の間にある小さな隙間。耳も、心も。二人の関係。今がいつまでも続けばいいのに…と。ささやかな望みだ。しかしささやかで当たり前のように思われることこそ、守るのは難しく立ち向かうべき困難を引き寄せるのだ。ジョニィは街角で撃たれ、ジャイロとていつまでもネアポリスでツェペリ家の子供のままはいられなかったのだ。
 耳慣れない音に身体が硬直する。反射的な恐怖。それは破壊の音だった。金属と木とが貫かれ砕かれ床に落ちる音。二人は抱き合った格好のまま身体を起こし寝室のドアを凝視した。音は更にその向こうの空間から聞こえた。
「ドアが壊された…?」
「きっと玄関だ」
 ジャイロはベッドから下り、寒さに一瞬ぶるりと震える。ジョニィはベッドから片足を下ろしたところで、あれ、と指さした。
「何だ、あれは。何なんだ。生き物なのか?」
 寝室のドアの隙間から何かが姿を現している。手が伸ばされているのかと思ったがそうではない。
「風船…?」
 首を出したそれはバルーンアートの犬そっくりだった。違うのは自ら首を動かし目を光らせ、しかもクンクン鼻を鳴らし唸っている点だ。風船にそんなリアルな真似はできない。本物の犬だって目を蛍光色に光らせることはないはずだ。
 ジャイロが腕を掴んで引っ張った。何も言わずドアから一番離れた窓辺に寄る。分かっている。アレは自分たちを追っているのだ。
「クソッ」
 心底忌々しげな声でジョニィは悪態を吐いた。
「三日間の猶予はどうした」
「三日?」
「ディエゴの手下に会ったんだ。信じてなかったけどさ。でも今夜だなんて」
「待てジョニィ、ディエゴの手下に会っただと?」
 窓枠を持ち上げたジャイロがその手でジョニィの肩を掴んだ。サッシに触れて急に冷たくなった手。
「…ジャイロ」
 ジョニィはジャイロが呼ぶ名前に違和感を覚えた。バルーンアートの犬はもう身体の半分も覗かせていた。しかしジョニィは逃げようという焦りよりもジャイロの目を見つめ、尋ねた。
「会ったのか…ヤツに」
「ああ」
「それで…!」
「今のところは引き分けだ。これが決着だってんなら相手になるぜ」
 ジャイロは窓から大きく身を乗り出した。
「待て、ジャイロ」
「安心しろ。下りたことはある。行ける」
「それもあるけど、ぼくら裸だ」
「心配すんな、裸でも下りられる」
「君…以前に何をしたんだ!」
「それがよぉ、寝た女が人妻で…」
「いいや。行こう」
「おいジョニィてめーが」
「悪い思い出なら言わなくてもいいよ。もし素敵な一夜だったんなら後で聞かせてくれ」
「よっしゃ。後で語ってやる」
「…マジ?」
「すげえいい女だったぜ。妬くか?」
「無事に逃げられたらね」
 再び破壊の音が響いた。釘が何本もドアノブの周辺を貫く。バルーンアートが動く程度にしか考えていなかった二人も、ようやく犬は斥候であり武器であると理解した。驚く間もなく部屋に入り込んでいたもう一体がするりとシーツに潜り込むや否や布地を切り裂く。ぞっとした二人が言葉をなくしていると隙間の出来たドアから次々に新たな犬が侵入する。
「ジョニィ!」
 抑えた声で叫び、ジャイロが再び腕を引く。窓から身を乗り出すと冷たい風に別の意味でぞっとした。しかし命には替えられない。いいや、あの二年間に比べればこれがどの程度の恥だ、とジョニィは唇を歪めた。あそこに比べれば真冬のニューヨークだって太陽輝くプライヴェートビーチだ。
 ジョニィは窓枠を掴み外へ躍り出た。
 古く鉄錆びた梯子を伝い下りる。最後の一階分は完全に足場が抜けていて、ジャイロは雪の残る路地裏に飛び降りた。両手は着いたが、見た目よりもダメージのある着地ではないようだ。すぐに立ち上がり両手を差し伸べる。マジ?とジョニィが心の中で呟いたのはシチュエーションに対するものだけで、飛び降りることには躊躇はなかった。ジャイロを信じている。一瞬の無重力に身を投げ出し、ドサッという音と共に雪の中に倒れていた。
「ジャイロ!」
「しぃっ! まだ大声出すな」
 その時、アパートから悲鳴が上がった。女のヒステリックな悲鳴が冬の夜を震わす。あちこちの窓に明かりが灯り、騒ぎが大きくなった。しかし路地裏を向いた窓とは逆方向だ。建物の中央、廊下側へ向けて騒ぎは大きくなる。いいや、窓が一つだけ開いた。
 尻餅から立ち上がったジャイロの目の前に落ちてきたのは懐かしの鉄球だった。続いてブーツが一揃い、最後にふわふわと舞い降りたのは黒いワンピースだった。ジャイロはワンピースを乱暴にジョニィの頭に被せる。もちろんジョニィはそれを着た。ジャイロはブーツを履き、鉄球を掴んだ。
 また悲鳴が聞こえた。もう声の主は分かっていた。このアパートの大家一家、シュガー・マウンテンの母親。強盗だと叫びながら、騒ぎをどんどんこの路地から遠ざけている。今一つだけ開いた窓から見えない目で自分たちを見下ろし贈り物をくれた少女は、ワンピースを脱ぎ捨てたばかりで寒そうにふるりと震えた。
「靴はそれだけ」
 囁きは耳元で聞くかのようにはっきり聞こえる。
「さようなら、ジョニィ。さようなら、ジャイロ・ツェペリ」
 ジャイロがしゃがみこむ。言葉にしなくても通じる。広い背中にジョニィはしがみつく。背負われて逃げる背中に、ジョニィはいつまでもシュガー・マウンテンの視線を感じた。振り返ると、少女の身体を押し退けて黒人の男と白人の男が顔を出し大声で喚いていた。病院でジョニィの素性をしつこく尋ねたあの男たちだ。
「ジョニィ」
 全力疾走する馬のように白い息を吐き出しながらジャイロが言う。
「今からオレの秘密を話す」
「え…?」
「オレの本当の名前を教えてやる」
「イヤだ」
「そういう意味じゃあねえ」
 走りながら喋るのはきついのか、ジャイロはぶはっと息を吐き、大きく息を吸って冷たい空気と酸素を胸に取り込む。
「絶対に逃げてやるぜ。そしたらよぉ、神の前で誓わなきゃあいけねーよな。本当の名前が必要だろ」
 ニョホ、ホ、とジャイロは笑っていた。
 ジョニィはしがみつく手に力を込めた。
「君、ぼくのこと殺すつもりか?」
「馬ッ鹿、ジョニィ。生き延びんだろ?」
 生き延びるよなぁ、と言われ、生き延びるさ、と生意気な口調で言い返す。いい調子だ、と荒い息を吐きながらジャイロが褒めた。
「一度しか言わねーぞ」
 一月のニューヨークの路地裏を、ブーツ以外は全裸で走り抜けながらジャイロは彼が父親から与えられた名前を教えた。ユリウス・カエサル・ツェペリ。この緊迫した状況の中でさえジョニィが噴き出すには充分すぎるインパクトだった。
「笑うな!」
「ごめんごめん。でも君のお父さんマジぶっ飛んでる。凄い。最高じゃないか」
「あのチェロも父上……親父のだったんだ」
「父上?」
「忘れろ」
「じゃあ笑ったお詫びにぼくの本当の名前も教えるよ。ぼくの名前はジョナサン・ジョースターだ」
「普通じゃねーか」
 大きな通りにはまだ車も、僅かながら通行人の姿もあった。しかしジャイロはそのまま通りを横切り、悲鳴が上がった時には次の路地に飛び込んでいる。
「すっごい叫ばれてるよ」
「オレの肉体美で気絶したのかもしれねーぜ」
「ああそうかもね」
 ジョニィは律儀に同意した。

 ストックホース並みのスタミナを見せてやると言ったジャイロの足取りはもう走るというものではなく、ジョニィはとうとう背中から下りた。人通りの少ない路地は溶け残りが凍った上に更に積む雪がどす黒く汚れ、嫌悪感に構っている暇はなかったが、それでも裸足の足の裏が刺されるように痛い。だがジャイロはブーツ以外何も身に纏うものがないのだ。その状況と比べればたとえ少女サイズで寸足らずのワンピースも立派な服だ。
「ここにいろ」
 ジョニィは裸足のまま路地から出た。
「よせジョニィ」
 ジャイロが息も絶え絶えに止める。
「よせったってこの状況のまま逃げ続ける訳にはいかないだろ」
「尻、出てんぞ」
「君は尻どころの…」
 指さしたところでジャイロが盛大なくしゃみをした。
「…話じゃないだろ」
「捨てるもんは全部捨てたんだ。今更コソコソ隠れてられっかよ」
 流石はニューヨークだ。本当なら寒くて外に出たくない夜もタクシーが走っている。二人はパッと車道に飛び出て、驚き急ブレーキをかけるタクシーの運転席に向かいそれぞれ爪のカッターと鉄球を発射・投擲した。
「ジョニィ!」
 おそらく自分一人が攻撃すると思っていたのだろうジャイロが素っ頓狂な声を上げる。
「おまえ…スタンド能力か!」
「え、知ってるの?」
「どこでそれを。いつからだ。最初からなのか」
「その話は後だ」
 今は…!とジョニィは運転席のドアを乱暴に開け憐れな運転手の眉間に指をつきつけた。
「降りろ」
 怯えきってシートから転がり落ちた運転手を踏みつけるようにジョニィは運転席に乗り込む。
「ジャイロ!」
「もう乗ってる」
 助手席のドアを閉めながらジャイロが言った。
 ジョニィは足元にディエゴの顔でもあるかのようにペダルを踏みつけた。ベタ踏みのアクセルに急に回転数を上げたエンジンが抗議の声を上げる。車体が大きく揺れ、つんのめるようにしてタクシーは走り出す。
「クソッ」
 シートベルトを締めようとしたところで頭をぶつけたジャイロは悪態をついたが、口元には笑みが戻っていた。
「行け! 東だ!」
「東?」
 ジョニィは尋ね返す。
「いいから東に行け」
 東には何がある。イーストリヴァーを渡ってブルックリンを抜けて…。
「どこに行く気だ、ジャイロ!」
「それよりてめー、いつの間にスタンドなんか」
 しかしそれをゆっくり話す暇はない。ましてリンゴォ・ロードアゲインのことなど話し始めたらジャイロから殴られてもう一度最初からやり直しだ。しかも問題はそれだけに終わらない。
「追手だ」
 ジャイロは大きく振り返りリアウィンドウに貼りつく。後ろから追ってくるのは黒いBMWだ。また隣の車線にも同じ型の車がぴったりとつけ、角を曲がらせようとしない。それぞれの車には似たような顔の男たちが乗っていて、感情のない瞳でタクシーを追いかける。
「誘導されている…!」
 ジョニィはタクシーで走り抜けている景色がニューヨークのどこなのかが分かった。
「スピードを上げろ!」
 ジャイロが叫ぶ。
「でもこのままじゃ…!」
 と言いつつもそうせざるをえなかった。BMWのスモークガラスがするすると下り、男たちが銃を構えているのが見えた。
「来るぞ!」
 ジャイロの腕が伸びて頭を伏せさせる。耳を聾する銃撃の音と共に窓が割れ、車体に跳弾する妙に安っぽい音が響き、火花が散る。
 だが撃ち殺される恐怖よりジョニィは、銃火のやかましさにさえ負けない大声を上げた。
「でもジャイロ、この先はグラウンド・ゼロだ!」
 タクシーは立入禁止のフェンスを破って突っ込んだ。弾雨が遠ざかる。一瞬たりともスピードを緩めず、半ば鉄の棺桶と化したタクシーはバリケードに衝突してようやく止まった。
 衝撃で意識が飛ぶ。どれほどの時間だったろうか。全身が痛い。座席か天井かそれともエアバッグか、ともかく身体をしこたまぶつけてぐったりと人形のようにもたれかかっていた。生きているのが不思議だなと考えた直後に死んでたまるかと怒りに似た感情が湧く。
 ジャイロは?
「ジョニィ…!」
 その声は身体中を襲う痛みよりも大きかった。
「ジャイロ! 生きてる?」
「お互いな」
 ブーツの脚がドアを蹴破り、二人は這々の体で外に出た。
「まだだ。止まるな、ジョニィ」
「えっ」
「映画じゃこの後の展開はお約束だろーが」
 カーチェイスに銃撃戦、その後は。
 二人は身体に残った力を振り絞り瓦礫の散らばる地面を走る。最初に感じたのは音ではなく背中を押す衝撃と熱だった。半ば飛ばされるように前に向かってダイヴし、地面に伏せる。頭の上を爆発の炎と煙が掠める。
「危機一髪…」
「いや、まだこれからだ」
 息を吐くジャイロの隣でジョニィはみるみる苦み走った顔になった。
 グラウンド・ゼロ。
 少し拓けた更地の先にはまだうずたかく積まれた瓦礫の山が聳え立つ。あれがビルの形をなしていた。その七十八階で死んだように生き、最上階で結婚式を挙げた。エリナ・ブランドーの生まれた場所。そしてジョニィ・ジョースターの死んだ場所に再び帰って来た。
「待っていたぞ」
 明らかな軽蔑さえまじえた声が響いた。
「自分の脚で帰って来たな、ジョニィ」
 燃え盛る炎が男の姿を明るく映し出した。ジョニィとジャイロは炎を背に立ち上がり、身構えた。
 瓦礫の山を背景に自分がこの場の支配者であることを疑わない傲然たる態度。明るいブロンドは若い女だけでなく彼をニューヨーク市長にと推す支援者たちにも人気だ。ひび割れた頬を大きな絆創膏で隠し、爬虫類のような冷たい笑みを浮かべた男。
「ディエゴ・ブランドー」
 憎しみさえ籠めて呟いたのはジャイロだった。




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2014.3.27