サクロサンクトサクリファイス 25
眠気が脳の一部を圧す。オレときたら仕事で疲れてるんだ。そこへこれは何の冗談だ? ディエゴ・ブランドーはテレビ映えのする顔に大衆受けする笑みを浮かべてジャイロを見つめている。それはテレビで見るよりも数倍は美形で、ジャイロの苛立ちは嫌が応にも加速する。 「ここはいい匂いがするな。部屋に入る前から分かっていた。コーヒーだ。コーヒーの香りだな? 君が淹れているのかジャイロ・ツェペリ。そうだろうな。ジョニィにこんな美味そうなコーヒーを淹れられるはずがない」 ディエゴは勝手に喋りながら嬉しそうに頷く。 「コーヒーを淹れてくれ。砂糖もミルクも入れるな。ブラックだ」 「出てけ」 「今すぐ飲みたい。すごくいい香りだ」 「出てけっつてんだろうが!」 放たれた鉄球は壁にめり込み回転を続けている。ジャイロは唖然とした。ディエゴは軽く首を傾げてくつくつと笑っている。 「英語が通じないのか? コーヒーだ」 偶然首を傾けたのか。いいやヤツは避けたのだ。信じられないことだが意識して首を傾け、鉄球が顔面にぶつかる直前で避けて見せた。いいや余裕さえあっただろう。事実鉄球が顔の真横を掠めたという驚きさえ微塵もない。ニヤニヤ笑いは満面に広がり口元からは鋭い歯が覗く。 その隙をつくように壁の鉄球が跳ね返ったが、本来ディエゴの後頭部を直撃するはずだったそれさえジャイロの手の中に戻って来た。動体視力がいいどころの話ではない。動物的な勘と、それに反応し得る肉体。 くく、くくく、と妙に響く音が聞こえた。ディエゴの喉が鳴っている。笑っているのだろうが表情はむしろ無表情に近かった。爬虫類のような、表情のない顔。それまでの美形が不気味な雰囲気を醸し、ジャイロがもう一発と鉄球を構えた瞬間、ジャイロ自身腕の筋肉を震わせたという自覚が脳に届くより早くしなやかな肉体が飛びかかっていた。 顔を爪が掠める。思わず腕で庇いながら、異様に重たい重量に驚いた。荒く吐き出される生ぬるい息は湿っていてジャイロの鼻を塞ごうとする。 「オレのジョニィはどうだ? ジャイロ・ツェペリ。もう抱いたんだろう。テーブルは使ったか? ソファの上は? ドアの前でヤったか? あの裸を窓に押しつけて見せつけてやったか?」 笑い声はもはや人間のものではなかった。ジャイロはぞっとしながらその声を聞いた。 「あの身体は最高だろう。オレが造り、調教したのだ。オレの味も匂いもたっぷり染みこんだ肉体だ。それでも興奮したかね、ツェペリ君。何度あそこに突っ込んで射精した。オレの形をしたカントに」 ジャイロは腕で庇うのも忘れ目の前の顔を凝視した。みるみる縦に引き絞られる瞳孔。頬に走るのは傷痕ではない。それは耳まで裂けた口だ。乾いて硬質化した肌は鱗そのものだった。そしてジャイロの肩を押さえつける手も踏みつけにする脚も既に異形と化していた。ごつく鋭い爪。斑模様の肌。背中の向こうでは尻尾までが楽しげに振られている。 「答えろ。オレのジョニィはどうだった。最高だろう?」 だがジャイロの中にも既に恐怖はなかった。驚きはしたが恐れてはいない。口の端が自然と吊り上がり、覗く金歯を光らせて笑う。 「テメーが欲しがってんのはエリナだろうがよ」 「オレは男だぞ。ケチなことは言わん。エリナは既にオレのものだぞ。エリナ・ブランドーは神の前で永遠にオレのものになると誓った。ジョニィもだ。オレはあいつの過去を総て奪った。この先も奪うぞ。ジョニィはオレのものだ。返してもらう」 「取られた自覚はあるんだな」 「コソ泥が攫ったところで結果はこうだ」 ジャイロは抵抗せず床の上に投げ出していた手を急に捻った。その後ろで回転していた鉄球がディエゴの左目を目がけて弾かれる。 今度こそ鉄球はディエゴのこめかみを掠めた。鉄球はそのままブロンドを絡め取り、ディエゴの身体はぐいと背後に引かれた。爪の浮いた隙をつきジャイロは横に転がった。もう一個の鉄球を構えた時、ディエゴの姿はほとんど人間のものに戻っていた。こめかみに抉られた痕が残っている。手には回転を止めた鉄球が握られている。 「…こんなもの」 カスが、と噛み締めるようにディエゴは呟き、出し抜けに窓に向けて投げつけた。 「あっ、てめえ!」 勿論ガラスは割れ鉄球は外に飛び出して戻らない。ジャイロは窓に駆け寄り路地を見下ろしたが転がる鉄球の影はない。その背後でディエゴはモバイルを取り出し、帰る、とひとこと言った。 「一つ慈悲をくれてやろう」 「はあ?」 ジャイロはこれ以上ないほど顔を歪め振り向いた。 「今夜はジョニィを抱くといい。思う存分な。これが最後になるはずだ」 「いいから出てけ」 「ジョニィは自分の脚でオレの下に戻ってくるぞ」 待て!と叫んだ時にはディエゴは玄関のドアの向こうに消え、ジャイロが慌てて追いかけドアを開けた時には廊下にも螺旋階段にもその姿はなかった。ジャイロはしばらくそこに佇んだ。息が上がっている。じわじわと痛みが湧き上がってきた。シャツの肩には血が滲んでいた。 キッチンに佇む。陽がだんだん高くなり、薄青い空が明るく輝く。窓から射す陽が位置を変える。 目の前では火にかけたケトルが音を立てていた。ジャイロはコーヒーミルを横目に見た。しかし手を伸ばさなかった。火を落とし、ケトルの口から白い湯気の立ち上るのを見る。何故自分が湯を沸かしたのかさえ思い出せない。オレは寝ていないんだ、と胸の中で繰り返した。オレは寝てないんだぞ? ディエゴの去った後、寝室からバスルーム、クローゼットの中まで探したがジョニィはいなかった。ディエゴが攫ったのかとも思い一瞬沸騰したが、ヤツの言葉を思い出せばそうでないことは明白だ。それでもディエゴ・ブランドーに対する怒りは消えず――消えるはずもなく――服を脱ぎ捨ててソファに叩きつけ、あの騒ぎがあった中で今も椅子に鎮座ましますクマちゃんの憐れみの瞳を感じながら陽に温められる前の冷たい空気に肌を刺されようやく少し冷静になった。肩には爪の食い込んだ痕。四本の傷が縦に走る。 キッチンに来た。寝室よりもどこよりも足は自然とここへ向かう。コーヒーを淹れるつもりはなかった。淹れてやるもんかと口をへの字に曲げた。しかし喉は渇いていた。身体はいつも香りを、あの安らぎを欲していた。 不意にジャイロは舌打ちした。その音は打ち据えるように響いた。 ジョニィがいない。 何故だ。 何があったのか。昨日出勤を見送る姿は普通だった…。と思い出すと、ジョニィの精神状態は常に揺らいで落ち着きがないのを考えれば逆にあの静けさの方が不自然だったかもしれない。ジョニィは何かを心に決めていたのか。自分の脚でディエゴ・ブランドーの下に戻ることを? 鍵の音がやけに大きく響いてジャイロの肩も跳ねた。傷がずきんと疼いたが、次の瞬間にはその痛みも忘れた。ドアの向こうに呆然と立ち尽くしているのはジョニィだった。 背後で派手な音がし、熱い飛沫が足にかかった。ジャイロは掴んでいたケトルを勢い手放したことさえ自覚していなかった。床に転がるケトルと盛大に撒き散らされた湯にも構わなかった。足音を立ててジョニィに近づき、右の拳で思い切り殴りつける。ジョニィの身体は大きく蹌踉めき倒れるかに見えたが、低い姿勢になったその姿が留まった。脚がしっかりと床を踏みしめていた。殴られたばかりの顔が上を向く。口から血が流れている。いつも淡いブルーをした瞳が黒い炎を宿しているかのような気迫が音を立てて迫り、次に蹌踉めいたのはジャイロの身体だった。ジョニィの右拳はしっかりと顎にヒットしていた。 「何しやがる!」 「それはこっちの科白だ!」 ジョニィは二撃目を構えている。ジャイロもファイティングポーズを取る。改めて見るジョニィの姿はボロボロだった。見覚えのあるピンクのTシャツは吐瀉物で汚れ、拭い切れていない滓がこびりついて酷い匂いだった。それにどこかから取ってきたような上着もだ。実際に盗ってきたのだろう。本来ジョニィのものではない体臭が嘔吐の匂いと混じり合う。悪臭は顔を歪めるほどだが、それ以前にジャイロの顔は怒りで歪んでいる。 怒り任せにジャイロは叫んだ。 「なんつー格好してんだてめえ! ちったあ考えろ!」 「何を考えるんだよ!」 「胸丸出しじゃねーか!」 「ぼくは男だ!」 「クソッ、そうだったな…」 何故かその一言がジャイロの頭に現実を取り戻させ狂乱は一瞬静まったが再び盛り返す。 「そうだけどそうじゃねえだろ!」 踵を返して走りだそうとするジョニィを部屋に引きずり込みドアを閉めて鍵をかける。暴れる身体を強く腕の中に抱くと饐えた匂いは鼻腔を直撃したが、それさえ吸い込んで固く檻のようにジョニィの身体を閉じ込めた。激しい呼吸の音だけが聞こえた。呼吸は次第に呻きを帯び、やがて嗚咽へと変わった。 「ぼくは男だ!」 抱き締められくぐもった声でジョニィが叫んだ。 「ぼくは男なんだ!」 「ジョニィ」 「ぼくは…!」 脚から力が抜け、ジョニィは自力で立ってはいられなかった。ジャイロはきつく身体を抱いたままずるずると床にしゃがみこんだ。ジョニィが大声を上げて泣き出した。子供のようにその身一杯の怒りともどかしさを撒き散らす号泣だった。 手が伸ばしジョニィもきつく抱きつく。爪が肩の傷と同じ場所に食い込んだ。ジャイロはじっとその痛みに耐えた。 抱きつく手からも力が抜けてしゃくり上げるだけになった時、ジャイロも認めるジョニィご自慢の綺麗な顔は酷い有様で、それと同じだけ裸の胸も涙と鼻水にべたべたに汚れていた。悪臭は、鼻が馬鹿になったのか気にならなくなったが薄汚いものは薄汚い。 「ジョニィ」 促したが自力では立てないようだ。しかしジャイロにも抱きかかえるだけの力が残っていなかった。肩を貸し、脚を引き摺りながらバスルームへ向かう。 バスタブにぺたりと尻をついたジョニィの身体から服を引き剥がし背後に投げ捨てる。シャワーを捻ると熱い湯がジョニィの上に降り注いだ。湯に触れた瞬間ジョニィの身体は跳ねたが、声は漏らさなかった。口を噤み、じっと項垂れてシャワーに打たれるままの横顔は、ジャイロの見飽きないジョニィの横顔だった。 ジャイロ…、と小さな声が呼んだ。 「何だ」 「鏡を割って」 ジャイロは壁に取りつけられた鏡を見る。 「割って。見たくない」 手が鉄球を探していた。一つはキッチンだ。多分、湯を撒き散らした床の上に転がっている。もう一つはディエゴが窓の外に投げ捨てた。 いや、割らねーよ、と返しジャイロはバスタブ脇から立ち上がる。ドアを少し開けてバスルームの明かりを落とした。ドアの隙間から差す光はもう昼のものだった。ジャイロはそれさえ閉め出した。浴室はシャワーの音だけが響く闇に支配された。 ジョニィは動かなかった。何も言わなかった。闇の中でもそれは分かった。バスタブの縁を越した湯が流れ落ちる。タイルの上にしゃがみ込むジャイロの足も濡らす。 「ジャイロ」 名前を呼ばれる。 「君の名前はジャイロだ。ジャイロ・ツェペリ」 ああ、と低く相槌を打つ。 「分かってる。君のことをぼくが忘れる訳がない」 どの程度意識されたことばなのか、しかしジョニィの口からそれがこぼれた時ジャイロは背筋に鳥肌が立つのを感じた。腰に生まれた痺れは背骨を伝って駆け上がり頭頂に抜けた。 「ジャイロ」 「何があった」 「ぼくは何者だろう」 掌が湯を掬い上げる音。指の隙間から湯が零れる。 「ジョニィ」 「ぼくはジョニィ・ジョースターだった。この部屋で君と暮らした数ヶ月間、ぼくは確かにジョニィ・ジョースターで、ジョニィ・ジョースターとして生きてたんだ。でもそれはこの部屋にいる間だけだ。誰もぼくを知らない。本当のぼくを知るのは君しかいないと思ってた。でも本当は、このぼくは本当のぼくじゃなくて、君が知っているぼくも偽りなんじゃないか」 答えてくれ、という呟き。湯の跳ねる音。両手が湯を掬い上げてざばりと顔にかける。 「殺してくれ」 「おまえがその殺し文句を言うのは二度目だぜ」 「君に殺されるならそれでいい。ぼくはジョニィ・ジョースターとしてもう一度地上を歩けるなら命を捨ててもいいと願ったんだ」 「おまえはジョニィだ」 「嘘だ」 「ジョニィ」 頭を抱いて引き寄せる。また泣いている。溢れ出す涙が湯に落ちる。 「やっぱりあの時殺してくれればよかったんだ」 「おいおいジョニィ。そしたらオレはどうなる」 「新しい恋人を探せよ」 「それができりゃ苦労はしねえ」 暗闇の中でジョニィの頬に触れ、濡れてはりつく髪を払う。 「おまえをアパートから放り出したり、いっそのこと殺せるぐらいならよぉ、んなことになってねえんだよ。今、あの九月二十五日に時間を巻き戻してもオレはもう一度おまえを愛する」 皮膚の下を電気が走ったかのようだった。ジョニィの震えが痛みさえ伴ってジャイロに伝わった。 「オレは何度でもおまえを愛するんだぜ」 シャワーは熱い雨を降らせ続け、雨音は止まなかった。ジャイロはタオルを使って丁寧に何度も何度もジョニィの身体を拭い、洗い清めた。顔を拭われる時、脚の間に触れられる時、ジョニィはまた少しの間泣いた。 「ジャイロ」 湯を溢れさせジョニィが手を伸ばす。ぬくもりを帯びた腕は首に絡みつき、ジャイロは濡れた身体をバスタブから引き摺り出して抱き上げた。昨夜寝ていなくて疲れている? 知ったことか! ベッドの上、裸のまま抱き合う。ジャイロが胸に吸いつくとジョニィが再び拗ねた。 「嫌か?」 「イヤじゃないけど、イヤだ」 「オレにとってはおまえも、おまえの身体もジョニィ・ジョースターだ。赦せ」 「しょうがないな…」 ジョニィの手が柔らかく頭を抱く。 「ぼくも同じ気持ちだから」 ジャイロのそれはゆるく立ち上がっていたが、しかしもう胸にキスをする以上のことができなかった。いつ意識を手放したかも記憶にない。小さな乳房に顔を埋めるようにしてジャイロは眠っていた。 * 朝の狂乱の痕跡がそのままの部屋に踏み込み、ディエゴが下品なほどの笑い声を上げた。ガラスがビリビリと震え、それを聞くサンドマンとホット・パンツの脳も揺れるかと思うほどだ。叫喚だった。 「ジョニィ」 ディエゴは嘔吐の跡に鼻を近づけ、床の上を転げ回る。 「ジョニィ、ジョニィ、オレのジョニィ・ジョースター!」 天井に翳した手の、薬指には二つの指輪が嵌まっている。エンゲージリングは午後の光を反射させ閃いた。 壁の向こうから泣き声がする。ホット・パンツがいたって自然に部屋を出た。ドアを開けた瞬間、音量を増した声は赤ん坊のものだった。 急に静かになる。ディエゴがむくりと起き上がった。顔にはさっきまでの馬鹿笑いの余韻もなかった。 「来い」 振り返りもせずディエゴは言った。サンドマンは黙ってそれに従う。 続きの部屋のベッドの上にディエゴは服を脱ぎ捨てた。最初に外したのはベルトだった。真っ先にズボンもパンツも脱ぎ捨て下半身を露わにする。 くるりと振り返る。サンドマンは立ち止まる。 「撃たれたのか?」 冷たい舌が喉元を舐めた。塞がれた傷痕はほとんど目立たない。しかしディエゴには匂いが分かる。血の匂い、ホット・パンツのスプレーの匂い。食い込んだジョニィの爪の匂いを探すかのようにディエゴはサンドマンの首に噛みついた。サンドマンは迷うことなくディエゴの裸の尻に手を伸ばした。自分の感情からではなかった。命令のまま、いつも通りのことだ。 今日はベッドではなかった。ディエゴは窓に両手をつき、脚を広げた。 「ジョニィは何と言った?」 「Dioを殺すと」 挿入の瞬間、ディエゴは悲鳴を上げ引き攣った息のまま笑い出した。 「オレたちも殺すと言った」 「そこはいい。さっきのをもう一度言え」 「あんたを殺すと、Dio」 ディエゴは何度でも果て、それでも止めなかった。 「ジョニィを扱ったようにやってみろ」 「そんなことをしたら、あんたを殺すかもしれない」 「まさか」 笑うと頬の亀裂も歪む。それは全体で奇妙にバランスの取れたいやらしい笑みになった。 「お前に殺せるはずがない」 サンドマンが射精すると、その熱にもう一度ディエゴも絶頂を迎えた。しかし昂ぶりは一瞬だけだ。すぐに虚ろが胸を内側から喰い尽くす。 「ジョニィ」 その名前を呼ぶ。 「オレを殺す…? ジョニィ…?」 |