サクロサンクトサクリファイス 24
「まず最初に言っておく」 エレヴェーターの透明な円筒が上昇し朝焼けに照らされるニューヨークの景色が足下にだんだんパノラマとして広がる。目覚めを待つ太陽の光の照り返しはホット・パンツの無表情を、とりわけその唇を赤々と照らした。 「お前のことはいつでも殺すことができる。妙な真似はするな」 「安っぽい脅し文句だな」 「脅しではない」 それに、とホット・パンツの冷たい視線はジョニィの身体を頭のてっぺんから爪先までくまなく刺した。 「安さではお前に敵わない」 女を相手に腹を立てるなんか、とジョニィは思い、ではこの腹立ちはどこから生まれるのだろうかと考えた。子宮も卵巣も持たない肉体の、この人造的な穴が怒りを孕むのだろうか。ホット・パンツの目はジョニィを男として見ていない。だが女としても見ていない。それ以外のもの、いや、以下のものだ。 軽蔑はもっともだろう。ホット・パンツはジョニィの二年間を知っている。ジョニィ自身唾棄し、捨て去りたい日々を。そして彼女はこの数ヶ月も知っているはずだ。調べていないはずがない。でなければあそこまで都合よく待ち伏せはできない。左手の薬指へ向けられる視線は氷というより刃だった。だがそこには一抹の憐れみもあった。ジョニィはホット・パンツに憐れまれている。優しさからではない。 ジョニィはガラスの壁にもたれかかり、ニューヨークの街並みを見下ろした。 「訊きたいことがあるんだけど」 返事はないので、そのまま尋ねる。 「赤ん坊は?」 細身のスーツは妊娠などなかったかのように彼女の身体にフィットしていた。 「お前に答えてやる義務はない」 「ぼくと君の仲だろ」 ふん、とホット・パンツは鼻で笑う。 「無駄口を叩くな。もう一度言う。お前のことはいつでも殺せる」 「あんたにぼくが殺せる?」 するとホット・パンツは取り出した銃をジョニィに突きつけた。 「どうかな」 ジョニィは動じない。 「君にトリガーが引けるとは思わない」 その時エレヴェーターが到着し、開いたドアの向こうにジョニィはホット・パンツの言葉がどれだけ真実か、彼女、また彼の殺意が本物であることを知った。そこに待っていたのは寡黙なネイティブアメリカン、何度もジョニィを刺した男。 「サンドマン…」 ジョニィは憎悪と吐き気に懐かしささえ感じながら相手を睨みつけた。 「久しぶりだな」 あの日以来だ、と言おうとしたが喉はからからだった。サンドマンのスーツの袖から右手は見えない。あの日ビルの最上階でジョニィの前に立ちはだかった姿を思い出す。右手から滝のように流れ落ちた血。だがサンドマンはジョニィの不躾な視線もものともしなかった。左手には既にナイフが握られている。 「分かった」 ジョニィは右手を軽く挙げた。 「話を聞く」 「ジョースター、貴様に最初から選択権はない。そのことを忘れるな」 そう言ってホット・パンツは部屋のドアを開いた。 テーブルに用意された朝食は、ともあれジョニィには有り難かった。昨夜の出来事で彼の頭は疲れ切っていた。本当ならば泥のように眠りたいところだが、スタンドという存在を知った興奮、もうすぐディエゴを殺すことができるという高揚、そして実際目の前に現れたホット・パンツとサンドマンの姿に興奮は現実味を帯びた緊張に変わっていた。 ディエゴだけではない。自分はこの二人も殺さなければならないのかもしれない。何かを守ったままできるほど、ディエゴを殺すという行為は甘くない。この肉体の全て、引き裂かれた肉、不全の器官が育んだ憎悪、全てを注ぎ、全てを捧げなければならない。この先あったかもしれないジャイロとの幸福な時間もだ。自分の魂は既にジャイロに触れた。彼の掌のぬくもりに癒され、ジョニィはもう一度ジョニィ・ジョースターとして呼吸し、立ち上がり、人を愛しさえした。汚損は拭われ欠落は埋められた。奪われ尽くしたマイナスがゼロへと戻ったのだ。だから。 恐くない、と自らの心を確認する。ぼくはもう何も恐れない。ジャイロが与えてくれたジョニィ・ジョースターとしての日々は永遠に消えることのない真実だ。今でも彼を愛している。愛がある故に、それを手放すことも恐れはしない。 ジョニィは大いに食べ、シャンペンも自ら注いで大いに飲んだ。遠慮はしなかった。これから為すことを考えれば遠慮などいるものか。目の前の席に着くホット・パンツは呆れた目でジョニィを見た。サンドマンはドアの前に佇んでいる。ナイフは相変わらず彼の手の中で光っている。 太陽が完全に顔を出し、ホテルの部屋は明るく照らし出された。このビルも相当に高い。 「ここが何階か気にならないか?」 ホット・パンツが尋ねる。 「何階だって知ったことじゃない」 ジョニィは口の中のものをシャンペンで胃に流し込み、げっぷをした。 「関係ないだろ」 「どうかな。さっきから随分無口じゃあないか」 「腹が減ってたんだよ。喉も」 からからだった、と言おうとして止め、シャンペンを最後まで飲み干した。 「無駄なことを喋るなって言ったのは君だろ、ホット・パンツ。早く用件を言ったらどうなんだ」 「分かっているだろう」 「さあね。あんな男に好きこのんで従っているヤツらの考えてることなんて分からないよ」 「あんな男に二年間抱かれ続けて結婚式まで挙げても、分からないと?」 空のグラスを、とん、と目の前に置きジョニィの顔は無表情に静まり返る。 「知りたくもない。ぼくが今考えているのはどうやってあいつを殺そうかってことだ。あんたらを殺すことも含めて」 指鉄砲でホット・パンツを狙う。指先では爪が回転している。引き金は心だ。ジョニィがそう決意すれば爪のカッターは発射される。ホット・パンツの身体をテーブルごと真っ二つにし、サンドマンのナイフが襲いかかる前に彼の身体を蜂の巣にするだろう。ディエゴはどこにいるのか。聞くまでもない! あいつはグラウンド・ゼロにいるに決まっているのだ。毎日テレビに出演しジョニィを誘っていた。ここまで来い、もう一度自分の手の中に戻って来いと。もうこの身体を抱かせるものか。その身体に食い込むものは爪だけだ。十の穴から血を噴き出させてやる。 現実のわずか先を走っていたジョニィの目は、しかし次の瞬間生温かいもので塞がれた。目が見えない。息が…できない? 顔を何かで覆われたのだ。目も鼻も口も塞がれた。これは何だ。両手で掻くが取れない。剥がれない。声を出すこともできない。 首筋がひやりとしたのは死の恐怖と、現実のナイフの感触だった。ホット・パンツの声が聞こえる。 「Dioを殺すと言ったのか? ジョースター。ここまで愚かだったとはな」 足掻いても無駄だ、という科白は同時にジョニィの胸に湧いた言葉でもあった。今更恐れるな。自分の死さえ。ぼくは決断をした。 殺意と首筋のナイフが同調するほんの刹那の間をジョニィは待ちはしなかった。手がそこにあると言うならば、見えなくても狙いはつけやすい。手をその腕に沿わせ爪の先を相手に向ける。引き金は心で引く。決断した瞬間にはジョニィの爪は回転しながら相手に襲いかかる。低い呻き声が上がった。もう一人、ホット・パンツは? ジョニィはただ真っ直ぐ正面に向かって撃った。だが悲鳴も爪の食い込む音も聞こえなかった。響いたのは金属質の音。爪の弾かれる音だ。だがジョニィは躊躇わない。サンドマンに向けていた手も正面に構え、爪が再生する先からとにかく撃ちまくる。とうとう悲鳴が上がった。だが殺意は別の場所にあった。空中だ。こちらを狙っている。ジョニィは手を持ち上げそれを撃つ。今度こそ聞こえたのは痛みを堪える悲鳴だった。 顔からどろどろとしたものが流れ落ち、息が通る。ジョニィは窒息以前に呼吸さえ忘れていたことに今更気づきながら大きく息を吸い込んだ。 ぜいぜいと息をする中で見たのは防御したのだろう手と喉を撃ち抜かれ床で浅い呼吸を繰り返すサンドマン、テーブルに掴まりようやく立っているホット・パンツと彼女の周囲に散らばった白いブロックのようなもの、それからテーブルの上、グロテスクな料理のように落ちている女の手首だった。スプレーを握った手が血を流し痙攣している。 「スタンドだと…」 ホット・パンツが喘ぎ喘ぎ呟く。 「ブラックモアの報告にはなかった…」 その時、足下から咆吼が聞こえ、ジョニィの身体はテーブルに押しつけられた。サンドマンがその隆々たる腕でジョニィの首を押さえつける。みしみしと骨が鳴る。 「やめろ!」 ホット・パンツが怒鳴った。 「やめろ、サンドマン」 サンドマンはなお獣のように唸りながらジョニィの首を締める。指先が一気にじんと痺れ抵抗ができない。やめるんだサンドマンという声はくぐもってほとんど言葉とも聞こえなかった。 「Dioの命令通りにしよう」 ディエゴの名前が出た瞬間、手の力が緩む。ジョニィは身体を捻ったが反撃することはできず、床に尻餅をついた。さっきたらふく食べてシャンペンで流し込んだ朝食が逆流し、吐瀉物はピンク色のTシャツもジーンズもその股まで流れ落ち毛足の長い絨毯を汚した。 差し出されるタオルもなかった。ジョニィはテーブルの上のナプキンを掴み取り、嘔吐の跡を拭った。視線の先ではホット・パンツがサンドマンの傷を治している。喉を貫かれたのだ。助かりはしないだろうとジョニィは冷たく考えていたが、ホット・パンツが手にしたスプレーを吹きかけるとみるみる傷口が埋まり呼吸さえ元通りに戻ってしまった。 「あのビルで死なずにすんだのも肉スプレーのお蔭か」 ジョニィは口の中に残る苦い胃液の味を吐き捨てる。 「クリーム・スターター」 ホット・パンツの言葉はジョニィに聞かせようというより、問われもしない思い出話を話すようにぽつぽつとこぼれた。 「足場を作ったのはサンドマンの力。イン・ア・サイレント・ウェイは音を物質化することができる。今私を守ったのもその力。でもあの崩れ落ちるビルから私たちを救ったのはDio。Dioがいなかったら私たちは死んでいた」 「もういい加減目を覚ませよホット・パンツ」 ジョニィは椅子に腰掛け、シャンペンに手を伸ばした。その手は傍目には震えていなかったが、力が抜けていることにジョニィは気づいた。頬杖をついて誤魔化す。 「ヤツは君らを利用してるだけだ。利用価値があるから生かしているにすぎない」 「お前に説教されるまでもない」 鋭い視線がジョニィを射た。 「私がそれを解っていないと? サンドマンも? 最初から承知の上だ。だから何だと言うの? このゴミ屑のような世界でDioは私を選んだ。彼は私を手に入れた。それで充分だ。それだけが全てよ。Dioは神さえ為し得なかったことをしたのだから」 「何」 「私を抱いた。私の総てを赦した」 思わず嗤ったジョニィの真横でグラスが弾け飛んだ。ホット・パンツではない。サンドマンの左手がこちらを向いている。ジョニィは横目に返り見た。ナイフだ。 「話を進めろ、ホット・パンツ」 サンドマンは立ち上がりドアを背に立ちはだかる。ホット・パンツも疲れ切った様子で椅子にかけた。 「Dioはニューヨーク市長に立候補した」 知っていると言うのも億劫でジョニィはふんと鼻を鳴らした。ホット・パンツはちらりと不快そうな視線を投げたがこれ以上の寸断を厭い言葉を続けた。 「後援者も多い。その最たる人物が前大統領のファニー・ヴァレンタインだ。我々は最終的に大統領選に打って出るつもりだ。Dioはお前にも相応のポジションを用意している」 「ファースト・レディにしてやるから帰って来いって? 馬鹿じゃないのか」 「Dioが用意したのはジョニィ・ジョースターの席だ」 ぐっと喉が詰まった。ホット・パンツがジョニィと呼んだ。それはディエゴが呼ぶ声と同じことだった。 この肉体を切り裂いて偽りの女を、エリナ・ブランドーを作り上げておきながら。 「ふざけるな」 飽くまで熱のない声でジョニィは言った。 「帰る」 「猶予は与えろと命令されている。三日だ。三日後、自分の脚でDioの下に来い」 ジョニィは立ち塞がるサンドマンの前に立った。喉の傷は塞がれた痕跡さえもう分からない。それでも失われた右手は戻らなかったのか。それとも、とこの二年間変わることのなかった冷たく、また冬の曇り空のように静かな瞳を見て思った。サンドマンは自ら右手を取り戻すことを拒んだのかもしれない。あの右手を、彼の『Dio』に捧げて。 サンドマンはドアを開けなかった。ジョニィは自分で扉を開いて部屋を出た。エレヴェーターから見下ろす街並みはいつもの活動を始めていた。血管を流れる血液のように走る自動車の群れ、歩く人々。普通の一日が始まる。ガラスの壁面に映る姿は汚れきっていて、ジョニィは舌打ちし天井を見上げたがどうすることもできなかった。ホット・パンツの服を奪う訳にもいかなかったし。 途中の階で下り、病院での出来事を思い出しながら――耳の奥でウィーン、ガシャンという声――立ち入り禁止のドアを探す。裏手の通路には案の定ロッカーが並んでいて、ジョニィはそこから恐らく清掃員のものだろう上着と帽子を拝借し、外へ出た。 表に出ると部屋でも浴びた朝陽が更に眩しく輝いて降り注ぎ、ジョニィは帽子を目深に被りなおして俯いた。朝陽だけではなかった。街は眩しく光るものに満ちていた。すれ違う人々のパリッとしたスーツ姿や朝からデートだろうか香水の匂い。ピカピカ光る靴が自信に満ちた足取りでアスファルトを蹴る。ショーウィンドーに溢れる一足早い春。それから。ジョニィは顔を上げた。通りの向こうに光がシャワーのように注いで見えた。オープンカフェに座る恋人と、二人の間のパンケーキ、コーヒーの香り。 自分の身体から立ち上る饐えた匂いがジョニィの顔を歪めさせた。猶予は三日。これからどうする。Tシャツを脱ぎ捨てて、どこでコーヒーを飲めばいい。ジャイロ。昨夜あの部屋を出た時は、もう戻らない気持ちだった。戻れないと覚悟していた。今更会いたいなんて甘えている。 でも無性にあのコーヒーが飲みたい。 ジョニィの目にみるみる涙が盛り上がり、零れだした。泣きながら歩く姿をすれ違う何人かが不思議そうに見た。だがおおよその人間は無関心だった。ニューヨークの冷たさが今は逆に安心させる。ジョニィは泣くだけ泣いて顔を上げた。いつの間にか脚はグラウンド・ゼロに近づいていた。答えを出すにはまだ早い。三日経とうともディエゴの下に行くつもりなどないが。踵を返した視界の端、一瞬目に留まったものがジョニィを凍りつかせた。 壁に貼られたそれを見てジョニィはぎょっとした。感じたのは生きたまま腹を抉られるかのような恐怖だった。漏らしていないのが不思議だった。 ポスターの中からエリナ・ブランドーがこちらを見て笑っている。 もう何も考えられなかった。ジョニィは走り出した。しかし伝う壁のどこまでもどこまでもエリナ・ブランドーの笑顔は追った。 おまえの名前は。 ぼくの名前は。 朝陽に照らされた街が白く輝く。もう何も見えない。真っ白な中、息を切らせ走りながら浮かぶ名前は一つだけだった。 「ジャイロ…!」 * 白衣を脱いだジャイロが目を擦りながら出て行こうとすると、高い声が呼ぶ。 「おいおいよしてくれ」 ジャイロは欠伸をしながら振り返った。 「オレはもう上がり。百ドル積まれたって診ないからな」 「ジャイロ!」 少女は慌てた様子で廊下を横切る。 「待って!」 ルーシー・スティールはジャイロの背中に追いつくと、軽く袖を引っ張った。 「やっと会えたわ。探していたの」 「血相変えてどうした、スティール夫人。おたくの旦那にゃ名医がついてるはずだぜ。ま、実力はオレが上かもしんねーけど?」 だがルーシーはジャイロの冗談にも乗らず、恐いほど真面目な目でこちらを見つめた。 「この前メールをくれたわね。去年の九月、あの日、私たちが参列した結婚式について尋ねた」 「ああ」 ジャイロは悪びれずとぼける。 「んなメール送ったっけか」 「何故今になってあんなことを尋ねたの」 「まあ、ちっと気になることがあったようななかったような…」 「あなたはディエゴ・ブランドーを知っているの?」 ジャイロは歯を見せず微笑を浮かべ、そっとルーシーの手を離させた。 「旦那のある身で誤解を招くぜ」 「答えて、ジャイロ」 「今やニューヨーク一の有名人だろ」 「そういうことではないの。お願い真面目に答えて」 「どうしたんだ、ルーシー・スティール」 「あなたが心配なの。胸騒ぎがする」 「心配ねえよ。おたくらにゃ関係ない」 背を向けて歩き出したジャイロにもう一度ルーシーの声が飛んだ。 「東よ」 「……は?」 意味が分からず振り返る。ルーシーはもう慌てふためく少女ではなかった。 「どうしても宿命が追いついてしまったというなら、東を目指して」 「…何の話だ」 「走って」 GO、という一言に背中を押されるようにジャイロは病院を出た。少女の胸騒ぎが感染するなど大人の男ではない。しかし嫌な予感がした。車を飛ばしてアパートに戻る。街路から見上げる窓に人影は映らない。 螺旋階段を上る間、手はポケットの中の鉄球を掴んでいた。部屋の扉を目の前にし、ジャイロは軽く脚を開いて佇んだ。映画に登場するガンマンが抜き撃ちのタイミングを計るようにドアの向こうの気配を探った。 鍵は開いている。 片手でドアを開けた瞬間、鉄球を投擲する準備はできていた。しかしジャイロは掴んだそれを投げることができなかった。 椅子に一人の男が座っている。 明るいブロンド。痩せ型だが向けられた背中を見ただけでも服の下のしなやかな筋肉が分かるようだった。 男はゆっくりと振り返った。 頬を耳まで裂けた亀裂がいやらしく笑った。 「お帰り、ジャイロ・ツェペリ君」 ディエゴ・ブランドーはまるで部屋の主であるかの如く傲然と言った。 |