サクロサンクトサクリファイス 23




 昼まではだらだらとベッドの上で過ごしていたが、夜勤だからと夕方少し前にジャイロが起き出して支度を始めた。ジョニィはジャイロが脱ぎ捨てた服をだらしなく羽織ってキッチンに向かいハーブティーを淹れる。コーヒーはジャイロが淹れたのの方が美味いから無理はしない。シャワーを浴びたジャイロが服を半分着たところでテーブルに寄ってきて一口飲んだ。
「寂しくないか?」
「何が」
 ジャイロは最近ソファにほっとかれたままのクマちゃんをつれてきて、大事にしろよ、とジョニィに押しつけた。
「抱き締めてキスして眠ってやる」
「きっとオレにも届くぜ」
 ハーブティーを飲み干しネクタイを締めコートを取り上げるとそれだけで部屋が肌寒くなった。ジョニィは玄関先までジャイロを見送った。キスでまた何分か時間を費やす。最後にジャイロはジョニィの額にキスをして頭を抱いた。
「イイ子で待ってろよ」
「どうかな」
 生意気そうに言い返し、階段に消えてゆく姿に手を振る。ジャイロの姿が見えなくなると、一気に胸から空気が抜けた。閉じたドアにもたれかかって、しばらくじっとする。瞼は開いていた。兄の姿ももう見えなかった。現実の上に立っているな。そう思った。
 キッチンにとって返し使ったカップを洗う。冷たい水の流れ落ちるシンクの銀色の光。ジョニィは自分の濡れた手を見た。ナイフを取り上げる。ジャイロはこれで魚を捌く。特別上手な訳ではないが、彼は時々魚料理に挑戦する。ジョニィは魚と言われてもただ焼くだけだ。刃を目の前に翳すと、そんな思い出もフェードアウトし、ただ一つの思いが胸を占める。
 ディエゴ・ブランドーを殺さなければならない。
 ジョニィはナイフを片手にリビングへ戻った。テレビをつける。ジャイロといる間は極力つけない。ジャイロもそうしようとしない。だがもう平気だ。
「オレがあの地獄のような場所で生き延びることができたのは優秀な部下のお蔭です」
 電源を入れた瞬間にディエゴの声がスピーカーから飛び出しても画面にアップが映し出されても騒がない。倒れたりなどしない。血も流れない。
 あの日以来、ディエゴはあらゆるメディアに引っ張りだこだ。テレビでもこの顔を見ない日はない。そして会見は必ずグラウンド・ゼロの前。ジョニィはソファの上にあぐらをかき、じっとディエゴの顔を見つめた。ディエゴの頬には大きな傷がある。口の端から耳まで裂けた傷。あのビルの崩壊で負った傷だ。それは一直線の傷ではなく、ひび割れのように頬を走っている。大きな絆創膏もその傷を全て隠しきらないが、しかしディエゴがその身から溢れさせるもの――自信や、メディアの前では隠し気味の傲慢さ、野心や、また女たちが騒いで離そうとしないその造形の美しささえ損なわれてはいなかった。ジョニィはそれら全てに唾してやりたかったが。
 ナイフを持った手を伸ばす。これであの傷を抉れるだろうか。喉を切り裂くことができるだろうか。心臓に突き立て、息の根を止めることが。どれも具体的な想像としては浮かばなかった。ナイフでは駄目だ。もっと強い力が必要だ。ヤツを殺すためには。
 殺意が研ぎ澄まされる。ジョニィの目が暗く燃える。人差し指がテレビの向こうの笑顔を狙った。
 銃が必要だ。
 一点に集中させた殺意を放つ道具を。この国で人を殺す道具と言えば銃なのだ。
 ジョニィはナイフを洗って元の場所に戻すと、ジャイロのシャツを脱いだ。クローゼットの奥に隠すように押し込めていたものを取り出す。胸元のゆるいピンク色のTシャツと、ぴちぴちのジーンズ。袖を通した瞬間に鳥肌が立った。布地を押し上げて乳首の形が分かる。鏡の中に女の姿を確認し、電気を消す。テーブルの横を通り過ぎざま、クマのぬいぐるみと目が合った。ジョニィはクマちゃんに後ろを向かせ、わずかな時間そこに佇んだ。
「ごめん」
 ぬいぐるみの頭にキスを落とす。
「でも赦してくれとは言わない」
 これからしようとすることに恐れも躊躇もなかった。恐怖は既にあの日、消え去っていた。
 悲しくさえ、ない。
 ジョニィは一人で外に出た。鍵の下りる音が背後に大きく響いた。

「よろしくお願い申し上げます」
 ベッドを目の前にして男は一番にそう言った。右手が無造作にリボルバーを放る。くすんだ白いシーツの上、それは軽く沈み込んだ。
 狭い路地の、古いホテルの四階だった。
 男の名はリンゴォ・ロードアゲイン。きらきらと少年のように輝く濡れた瞳でジョニィを見た。
 地下鉄の駅でジョニィは男を見つけ出した。きっとこの男は、という確信があった。また男もジョニィの目線に気づき、穏やかに方向を変え、地上に向かう階段ではなく、柱にもたれかかるジョニィに近づいた。
 ジョニィが声をかけようとした瞬間、香水の匂いを漂わせて二人組の女が間を遮った。
「何か用?」
「時間ある?」
 目の前に並んだたっぷり膨らんだ尻にジョニィが舌打ちし場所を変えようとすると、男が言った。
「話すのは一人ずつにしたい」
 そしてひたとジョニィに視線を据えた。
「左の君だ」
 二人組の女は立ち去り際、振り返ってジョニィの足元に唾を吐いた。
 だがジョニィは気にならなかった。男は目の前に迫っていた。
「名前は」
「ジョニィ」
 素直に答えていた。自分の金額以外何も言うつもりはなかったのに。
「リンゴォ・ロードアゲイン」
 男は名乗り、自分が今滞在しているホテルに来ないかと言った。
「どうして」
 一応突っぱねる。
 すると男、リンゴォ・ロードアゲインと馬鹿正直に名乗った男はかすかに微笑するような、しかし至って真面目な顔で答えた。
「我々の必要を満たすため」
 勿論それはカネでありセックスだろうとジョニィは当然のように思っていた。だがリンゴォの言葉は、まさに科白どおりのものだったのだ。
 必要なのはこの目の前のものだ。
 銃。
 リボルバー。
 ジョニィはそれが必要だった。身体を売ろうと決意したのもそのためだ。しかし。
 銃を視界の端に捉えたままリンゴォを見上げる。男はベッドを挟み、銃を放った手をゆっくり脇に下ろした。
「俺には分かった。君には素質がある」
「何の」
「俺は公正さを望む」
 リンゴォは佇立し、ゆっくりと頭を下げた。
「名は先ほど名乗らしていただいた。リンゴォ・ロードアゲイン。そのコルトには六発の弾が入っている。距離は君と俺のちょうど中間」
「あんたシリアルキラー? 女誘ってはこういうことしてんの」
「今更知らぬふりは必要ない。俺は駅で君の殺気を感じた」
 そうだ。
 ジョニィにも分かっていた。この男は銃を持っていると。だからジョニィは決意したのだ。身体を売ることではない。
 この男を殺して銃を奪おう、と。
「公正に?」
 ジョニィは唇をねじ曲げた。
「グリップはあんたの方を向いている。アンフェアだ」
「そうかな。俺はただ放った。銃口が君を向いているのは偶然のなせるわざだ」
 急に静かになった。天使が通った瞬間のような、この夜さえ騒音に満ちたニューヨークの真ん中で、二人の間だけでなく沈黙が世界を支配した。
 手を伸ばしたのは同時だった。自分の方が素早いと思っていた。しかしリンゴォの動きには熟練されたものがあり、銃など一度も握ったことのないジョニィより早く、それはグリップを掴んでいた。当然のことかもしれない。――当然だ、とジョニィは思った。こんな光景はやる前から目に見えていた。
 銃が持ち上がる。ベッドを挟んで、リンゴォが腕を伸ばす。その躊躇なく真っ直ぐ伸ばされた腕の先で、真っ暗な銃口がジョニィの眉間を狙っていた。全てがスローモーションに見えた。ゆっくりと確実にトリガーを引く指。白い煙を散らして発射される弾。銃弾は回転しジョニィの目には見えるはずもない螺旋の軌道が見える。風の音がする。銃弾から。そして自分の身体の中から。弾が命中するであろう眉間を中心に世界が渦を巻く。回転する。高く引き絞られた風の音は、銃弾が額を突き破った瞬間、巨大な銅鑼の音となって弾ける。
 死ぬのか。ジョニィは思った。ぼくはここで死ぬのか。このまま死ぬのか。黄金色をした音が額から身体の隅々まで突き抜ける。骨が熱くなる。眩しい光の中、目が潰れそうだ。しかし誰かの姿が見えた。襟首を掴む強い力。抱き締める腕。ジャイロ。風の音。 手を、何故そのように動かしたのかは分からない。両手を、ジョニィは目の前に突きだしていた。意識さえなかった。銅鑼の音の衝撃に、影が射した。真っ白な視界にものの輪郭が蘇る。黒い影が視界の半分を占めている。血だ。それは匂いを感じたからだった。嗅覚だけでなく、全身がその皮膚を持って懐かしい匂いを感じ取っていた。吹き出す血。どこから。
 リンゴォの顔が歪む。呻き声はまだ耳に届かない。しかし異変は明らかだ。右足が太腿からばっさりと断ち切られ、胴体と泣き別れている。血はそこから吹き出しているのだ。
 脚だけではなかった。ベッドが裂かれ羽毛が舞い、床板が砕け木っ端が舞う。
 …何が起きている。一体何がリンゴォの脚を断ち切った?
 耳に最初に蘇ったのは風の音だった。ジョニィは伸ばされた自分の手を見た。爪が。回転している。
 見えたのはそこまでだった。流れ出した赤いものが視界を覆った。その直前、リンゴォが呻き左手を自分の手首に触れさせるのが見えた。
 再び、世界に沈黙が満ちた。全ての色が反転した。痛みも衝撃も一瞬、無となり、血に覆われかけた意識が明瞭さを取り戻す。ジョニィは見る。木っ端が再び床の形をなし、羽毛は沈みベッドは元通りになる。血はリンゴォの脚に吸い込まれ、リンゴォはすっくとジョニィの前に立っている。二人の間にはベッドがある。銃が転がっている。グリップはリンゴォを、銃口はジョニィを向いている。これから銃を拾って相手を殺さなければならない。
 ――これから!?
 リンゴォの腕が伸びる。躊躇のない、手慣れた動作。ジョニィは同時に手を伸ばしたはずなのに出遅れる。否、もう銃を拾おうとはしていない。
 殺す。
 身体の奥に風の音は続いている。つむじ風のように回転し、それは研ぎ澄まされる。
 目の前の男を、ぼくはこの手で殺してやる。
 発射された銃弾は頬の肉を抉った。だがジョニィは怯まなかった。同時に両手を突き出していた。爪が回転しているのが見えた。見えなくても分かっていた。風の音が研ぎ澄まされる。それを行うのは簡単だ。子供のように指鉄砲を作って人差し指で狙えばいい。バン、バン、と。
 発射された爪はリンゴォの胸と鎖骨に食い込んだ。更にトリガーが引かれる前にジョニィはリンゴォに飛びかかっていた。バキバキと音がした。床板は割れ、裂かれ、ジョニィはその上にリンゴォを押し倒し、脚で踏みつけた。リンゴォはほとんど抵抗しようとしない、いや、できないのかもしれない。撃ち抜かれた左半身がぶるぶると痙攣していた。喉が喘ぎ喘ぎ、ようやく呼吸していた。ジョニィはその様を見下ろし、続いて自分の手を見た。両手の爪が全てなくなっていた。同時に軋むような音を立てて生えてくる。
 激しく息が切れる。乾ききった喉に無理矢理唾を飲み込み、大きく息を吐いた。
「何故とどめを刺さない」
 息も絶え絶えにリンゴォが言った。
「言ったはずだ。これは純粋な殺人でなければならない…」
 しかしジョニィはその科白よりも別のものに気を取られていた。例えばリンゴォの身体に絡みつくパイプのようなもの。それに繋がる生き物とも人形ともつかない形のもの。耳に聞こえる囁き声。さっきから自分の傍らに浮遊するピンク色をした不思議な影。影はヒソヒソとジョニィの耳元に囁く。
 爪が生え揃い、ジョニィは再び指鉄砲を作って足下のリンゴォにつきつけた。
「もうぼくはあんたを殺すとかどうでもいいんだけど」
 少し笑いが込み上げる。
「この方が様になるだろ」
「どういうつもりだ」
「やっぱり最初からフェアな勝負じゃなかったみたいだ」
 笑みを消し、ジョニィはリンゴォ・ロードアゲインを睨みつけた。
「教えてもらう。今、一体何が起きたのか。あんたが使った魔法は何か。ぼくの隣に浮いているのは幻覚なのか。どうして爪が回転して飛ぶんだ?」
「さて」
 リンゴォは苦しげに眉を寄せた。
「爪のことは専門外だ」

 スタンド。
「能力名はマンダム。時を六秒だけ戻すことができる。きっかり六秒だけ」
 と言われて気が狂っていると思わなかったのは、回転する自分の爪が飛び出すのを見たからだろう。
 砂漠。悪魔の掌。異形の影。人智を越えた能力。
「でもぼくは砂漠になんか行ったことがない」
「あるいは聖なるもの」
 輝きを取り戻したリンゴォの目は真っ直ぐにジョニィを見た。
「俺に能力のことを教えてくれたお方はそう言った。これは聖なるものの力だと」
「…奇跡?」
「君も触れられたのではないか。聖なるものは力を持つ。きっと記憶にあるはずだ」
「さあ…」
 ジョッキーとしての栄光。汚辱の二年間。ようやく触れたジャイロの柔らかな手。
 ふと辺りを見回すが、ピンク色の影が消えている。
「スタンドなら、君の背中に消えた」
 ちょうど背骨の位置にと言われ、腰がカッと熱くなる。
 あの熱。
 崩れ落ちるビルの最上階で自分を押した手。
 少女の声が耳の奥に木霊する。
 ――GO!
 ジョニィは瞼を開いた。夜明けの路地に立っていた。朝がやってくる湿った匂いがする。どこからともなく立ち上る生活の匂いだ。汚水や、シャワーや、そして血の…。
 もう一度、まじまじと見つめ、右手を抱いた。手の甲には星型の痣が浮かんでいる。もう銃は必要ない。此の手で殺せる。正真正銘自分の手でディエゴ・ブランドーを殺す能力を、得た。
 朝焼けに誘われるようにジョニィは歩き出した。勿論あの場所へ。グラウンド・ゼロへ。
 交差点に車はない。ただ一つの人影が、赤い朝焼けの空を背に佇んでいる。ジョニィを待ち構えている。
「久しぶりだな、ジョースター」
 細身のスーツに身を包み、ホット・パンツが言った。




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いつもお世話になりますリンゴォ先生。 2014.2.28