健全で罪のない悪夢のための犠牲







「やらしいキスをしてくれたら、寝る」
 馬鹿なことを言うものだ。
 今や二人の目の前の火は最後の太い薪にかかったところで、昼夜も分からなくなるような吹雪に包まれた小屋はこの火が潰えればそれと同時に潰れてしまうのではないかと思われた。そんな危機感のせいだろうか、雪嵐の中三日も閉じ込められているせいだろうか。
 確かにジョニィには心の底を焦がすような思いがある。遺体。今やジョニィの生きる希望。それは奪われてはまた手に入れ…しかし手に入れたからこそ命の危険はまた近づく。だがジョニィの中にあるのは恐怖ではない。失うことを恐怖こそすれ、ジョニィはそれを獲りにいくつもりだ。その攻撃性は遺体のことが口の端に上るたび目に燃えて消えない。
 これが温存の旅だとジョニィとて重々承知していた。無駄な体力を使っている暇も余裕もない。つまりこういうことを言ってもジャイロが、バカ、か、アホ、の一言で流すか、それとも手っ取り早く望みが叶うかの目論見があるのだろう。しかしジャイロはそれら期待に沿ってやることなく、露骨に嫌な顔をしてみせたのだった。
 三分間で一発殴り、二発殴り返される喧嘩をした。
 ジョニィの腕時計によると時刻は真夜中、外は吹雪、頭がおかしくなるにはちょうどのタイミングだろう。
「人でなし!」
 ジョニィが叫ぶ。
 しかしジャイロも、灰の上に唾を吐き出すジョニィもおそらく、口の中に広がる血の味と痛みが吹雪の音を遠ざけ、ただただ自分の肉体が生きていることを実感させ、妙に人心地がつく。落ち着きはしたものの、沈黙の中に仲直りは自然治癒のようにするものではないから、お互いに謝罪の気持ちを口にするまで結局ジョニィも起きていた。
「もう、いいよ」
 別にキスとかもういらない、と舌で口の中の傷を撫でながら不明瞭な発音でジョニィが言う。
「別に、とか言うか」
「君が嫌そうな顔したんだろ」
 血の味の唾を飲み込んだのか、うえ、と呻きジョニィがまた唾を吐く。
「何か思い出す」
「へえ」
「何かって聞けよ」
「やだね、きいてやんねー」
「遺体の右目を手に入れた時さ」
「結局喋るんじゃねーか」
「唾吐くなって怒られたな、敵から。フェルディナンド?博士?」
「覚えてねえ」
「君、恐竜化してたし」
 あの時…、とジョニィの手が伸びてきて顎に触れる。
「あの時、ほんの短い時間、君はぼくの敵になった」
「オレは味方だったか?」
 ジョニィは黙って唇の端にキスをし、ジャイロもそうして近づいてきたジョニィを返さなかった。薄く開いた唇から自分の体温を流し込むように触れると、ジョニィの手は強くしがみつき、頭を抱こうとして闇雲に髪を掴んだ。
 多く殴ってごめん、とジョニィが呟いた。じゃあ余分な分を取り返させてもらおうか、とジャイロはジョニィの帽子を少し捲り上げこめかみにキスをする。
「君の取り分ってささやかだ」
「このステージをゴールしたら倍もらうからな」
 すると妙な挑発的な目が笑った。
「楽しみにしとく」
「覚悟、だろ」
「あのさ、ぼく、君に殴られるの嫌いじゃないよ」
 突然ジョニィが言った。
「過ぎ去ってみると、だけどね」
 アブナイ嗜好に目覚めたという訳ではないらしいが、それにしても妙な科白を突然言ったものだ。
 二人の間には少し距離があった。ジャイロはもう一度ジョニィを引き寄せると拳を相手の頬に押し当てる。ジョニィはその拳に手を当てて、柔らかく瞼を閉じ、しばらく静かな呼吸をしていた。そのまま眠ってしまうかと思ったほどの穏やかな呼吸だった。

「今夜ぼくは夢を見るんだ。君に食べられる悪夢を見るよ」

 寄り添った肉体が眠っている。僅かな睡眠。ジャイロはもう片手に鉄球を取り、その感触を確かめた。長年の訓練、肉体に、そして魂に染みついた回転の技術。掌の皮膚にその感触を呼び起こさせる。気分を落ち着かせる。
 もしもジョニィがこのまま目覚めなければ、体温は下がり続け本物の、永遠の眠りについてしまうだろう。その時は。この吹雪が止まなかったら。その時は。
「あのなあ、ジョニィ」
 ジャイロは独り言を呟く。
「おめーよぉ、本当に覚悟しとけ」
 血の味が口の中に蘇る。吹雪が止むまで消えないはずだ。




2013.2.11