サクロサンクトサクリファイス 22




 鉄球を手に取る。瞼を閉じる。瞼の裏に浮かぶ光の模様が消え闇が訪れる、その奥に静かに沈んでいる記憶を掬い上げる。初めて鉄球を手にした日。父に教わった一族の秘密。受け継がれた技術。手にした真球を黄金長方形の軌跡で。完璧な回転を。
 開いた瞳に光が蘇る。見慣れた寝室の静けさ。故郷から持ち込んだ本。読書のためだけに使っていた枕元のテーブルランプ。窓。窓の半分は隣の建物の影になる。もう半分に雪に包まれた街路が見える。窓には氷が結晶を形作っている。
 完璧な回転を。
 何度練習しただろう。おそらく数えきれるものではない。成功の感触はこの肉体が覚えている。心を落ち着かせ、集中しろ。ジャイロは胸の中で繰り返す。感傷に引き摺られるな。
 鉄球が意志のない空転をし、力は逃げ、妙に重たい重量が掌に落ちた。それは父の言葉だった。
 感傷。ベッドに横たわるジョニィの顔色は青ざめたまま、目を覚まさない。脚の間を伝う血を見た瞬間のギョッとした、自分でも意外なほどの心の揺れ。昨夜の行為のせいとは思わなかった。出血は、自分が完璧に手に入れたと思ったジョニィが自分以外の誰かの手で傷つけられたものだと直感的に理解した。この腕の中に抱き締めたジョニィに、ヤツはやすやすと手を伸ばしたのだ。ディエゴ・ブランドー。ジャイロもその名を知っている。イギリス出身の俊英ジョッキー。ニューヨークの若き成功者。この男がジョニィに銀の指輪を贈った。純白のウェディングドレスを着せた。崩壊直前のツイン・タワーの最上階で結婚式を挙げ、ジョニィを、エリナ・ブランドーを妻とした男。
 ディエゴ・ブランドーと口の中で呟く。証拠は揃っていた。崩壊するビルから降ってきた花嫁。最初に名乗られたエリナという名。グラウンド・ゼロに貼られたポスター。エリナ・ブランドー。ジャイロはルーシー・スティールにメールをした。あの日、あんたら夫婦が参加した結婚式とは? 新郎はディエゴ・ブランドー。新婦の名はエリナ。身内のないエリナの手を引いてヴァージンロードをエスコートしたのはファニー・ヴァレンタイン前大統領だった。ジャイロはポスターに書かれた事務所の連絡先も調べた。案の定ヴァレンタインと縁の深い法律事務所の電話番号であり、SNSの公式アカウントに紹介された写真の中にはいささかピントのずれた箇所だったが見たことのある顔が映っていた。名前の知れない患者の行方をしつこく調べようとした白人と黒人の男の二人組。ブラックモアとマイク・Oだ。
 全ては繋がっている。調べれば分かったことだった。しかしジャイロは敢えてこれまで調べることをしなかった。何故か。恐れたのではない、とジャイロは強く思った。目の前には傷ついた心と身体を抱えたジョニィがいて、ジョニィと名乗り、ジョニィ・ジョースターとして生きようとしていた。たとえ膣のある肉体を持っていようと、ジョニィとして生きたいという強い意志を持ち自分の脚で歩こうとしていたから、ジャイロにはそのジョニィが全てだった。
 言い訳だろうか。ジャイロは枕元にしゃがみ込み、ジョニィの寝顔を見つめた。青ざめ、無表情よりもわずかに厳しい顔をしている。だがそれでもなお綺麗な顔だと思った。鉄球の必要はなかった。静かに眠っている。うなされてはいない。むしろ今にも唸り出しそうなほど顔を歪めているのは自分の方なのだ。
 掌を見つめる。昨夜あますところのないほどジョニィの身体を知った掌だ。この掌も黄金長方形をしている。美しい形をしているだろうとジョニィに自慢したことがある。もう一度だ。ジャイロは鉄球を回転させた。聞き慣れた回転の音。死刑囚からさえ恐怖を奪い取る回転はジャイロの心に煮え滾るものを完全には静められなかったが、しかし思考はまともな回転を始めた。これからどうするのか、だ。
 ヤツらが自分のこの部屋を特定するのは簡単だろう。ここにジョニィがいることはどうだろうか。ジョニィはかつて足繁くグラウンド・ゼロに通っていた。しかしその頃、例のエリナ・ブランドーのポスターは貼られていなかった。何故今なのか。ディエゴ・ブランドーのニューヨーク市長立候補。気絶したジョニィの身体をベッドに横たえ、ベッドに腰掛け何度もそのニュース映像を見た。タブレットの音量を落としていなかったせいで、最初ディエゴの声が溢れ出し慌てて終了させたが、幸いジョニィは起きなかった。自分も相当慌てていたのだ。
 ディエゴ立候補の背後にはヴァレンタイン前大統領の力もある。それらに対してたかが医者が何をできるだろう。しかし男ならば何ができなければならないのか。掌の上の回転が懐かしい景色を蘇らせた。ふと、その場所に、自分の故郷にジョニィを連れ帰るのはどうだろうと夢のようなことを考えた。現実的な案の一つではある。だがこれまで沈黙していたヤツらが急に動き出した。このタイミングで逃げ切ることができるのか。昨夜はジョニィに逃げろと言い、きっとジョニィなら逃げ切れるだろうと根拠のない確信をしたのに。
 タブレットを床の上に伏せる。ジャイロはベッドにもたれかかり、天井を仰いだ。
「ジャイロ…?」
 細い声が呼んだ。
「どうしたの。溜息ついて」
「溜息なんか…ついたか?」
「うん」
 ジョニィの手が伸びてきて顎から頬に触れた。
 今度こそ、自分でも分かる溜息をついた。
「ジャイロ、こっちこないの」
「ん?」
 首を逸らすと、まだ青白いがいつもの顔でこちらを見つめるジョニィと目が合う。
 いいのかと尋ね返しはしなかった。ジャイロがベッドに上るとジョニィはその分のスペースを空ける。背中から抱きしめ、相手の頭の上に顎をのせた。枕に頭をのせたままではジャイロがヘッドボードに頭をぶつけてしまうから、ジョニィはごそごそと身体を動かしジャイロの腕の中に収まった。体温の低い、冷たい身体だった。ジャイロは自分の脚でその冷たい脚を挟み込んだ。
「君らしくないね」
 ジョニィが呟く。
「何が」
「躊躇するなんてさ」
「もう、してねーだろ」
「遅いよ」
 冷たい足の裏が甲にぴったりとくっつけられる。
 熱が移動しジョニィの身体があたたまるまで二人は無言だった。ジャイロは息を長く吐く深い呼吸をした。ジョニィは呼吸のペースも、心臓の鼓動さえ同じくしようとするかのように、それに合わせた。枕元はぼんやりと明るい。雪は止んでいる。
 ジョニィが自分の左手を持ち上げた。
「ぼくは…」
「言うな」
 ジャイロは低く、分かってる、と囁いた。今度はジョニィが深い溜息をついた。
 マウンテン・ティムが教えてくれた、二年前に途切れる天才ジョッキーの経歴。ジョニィと交わした会話の中で何度も飛び出した二年間というキーワード。医師として視たジョニィの身体も昨夜の出来事も、全てがその想像を簡単にさせた。ジョニィ・ジョースターという存在を改造し、完璧な形成手術を施させた男がいる。二年間、この肉体をほしいままにした男が。
 ジャイロは鉄球を握り締めた。過去に嫉妬するなど益体もないことだと分かっていようとも。
「あ。それ…」
 ジョニィは握り締めたジャイロの拳を両手で包み込んだ。
「鉄球…」
 鉄球はまだ回転している。ジョニィは軽く目を閉じ、耳を澄ました。
「風の音だ。すごく懐かしい…」
 そんな風に聞こえるだろうか。ジョニィの掌の上に移すと、ジョニィはそれを握り締めて、不思議だ、と言った。
「確かに触ってる、この手の中に握ってるのに、まるで触ってないみたいだ」
 回転が止まるとジョニィはもう一度ぎゅっと手の中に握りこんだ。
「君がこれを持たせたくれたのはぼくが苦しんでいる時だったな」
 ジョニィが夜うなされている時、風邪で熱を出した時、ジャイロはその技術をほんの少し使った。一時の安らかな眠りのため。
 苦しい?ジャイロ、とジョニィが尋ねた。ジャイロはジョニィの髪に顔を埋め、馬鹿、と一言囁いた。
「君も馬鹿だ。人妻を部屋に入れたのが運の尽きかな」
「ジョニィ」
「ぼくは」
 ジョニィは自分の左手の掌に触れ、薬指の付け根をなぞった。
「ぼくはジョニィ・ジョースターだ。指輪は君が外してくれた。ぼくは正真正銘君のものだよ。ぼくはもう何も怖くない」
 ぐっと身体が押し付けられる。ジャイロもその身体を強く抱きしめる。
「ぼくはもう何も恐れない」
「男前だ。惚れ直すぜ」
 じゃあ、とジョニィが抱擁から逃れ、身体を起こすとジャイロの両脇に手をついた。
「しよう。昨夜の続き」
「続きを」
「君がしたかったことも、ぼくがしてほしかったことも、一晩じゃ足りなかったこと全部」
 下から裸の胸に手を這わせると、ジョニィの目が潤んだ。
「全部、してくれ。全部されたい」
 上気し、かすかにわななく唇をジョニィは噛んだ。
「したい」

 外がだんだんと暗くなる。窓には雪の白さが目立ち、薄青い空気の中でジョニィは抱かれた。柔らかな掌や指先が何度も、しつこく胸を撫でた。唇で吸われると、相手がまるで子供みたいだと笑うこともできたが、快感はだんだん内部に蓄積し今では愛撫されるたび熱が波のように襲って、次で攫われるのではないか、今度の熱に襲われたら自分の身体は蒸発してしまうのではないかと思うほどだった。
 君としかしたくない…。ジョニィは泣きながら呟いた。
 ぐっと下から突き上げられる。ジョニィは腰を蠢かせ嬌声を漏らす。
「今の」
 熱い吐息の合間に話しかけられているのだと、既に快楽に翻弄されているジョニィはしばらく気づかなかった。身体を支える腕があっても、目の前にジャイロの顔がないのは不安だった。顔を見られないと言ったのは自分なのに、縋れない顔も見られない体勢で、不安の中快感だけが引き摺り出され剥き出しになる。ジャイロ…と涙声で応えると、今の、とジャイロは繰り返した。
「もっぺん言えよ」
「ジャイロ…」
「オレだけか?」
「君だけだ…!」
 頸をひねり視界の端に長い髪や見慣れた濃い眉や露わになった耳を捉えジャイロの存在を再確認しながら、君だけだとしつこいほどに繰り返す。
「君だけだ…君だけ…君以外の誰ともしたくない!」
「オレだけ…?」
「ジャイロ…!」
 身体がぐらりと揺れて、倒れそうになったのを痛いほど強く抱き締められた。
「誓えるか…?」
「ひどい」
「誓ってくれ」
 後ろ手に伸ばし相手の頭を抱く。
「君にしか触ってほしくない、君以外の誰にも触られたくない…。君だけ…欲しいのは君だけだ」
 泣きながら、不意にどうしようもなく笑顔がこぼれた。
「君を愛してるよ」
 低い返事が首筋に囁きかけられた。幸福を耐え切れずにジャイロが漏らした呻きだった。
「こんな幸せなこと君以外とできない。…誓うよ。何て誓えばいい」
「神かけてオレだけだと」
「神様にだって悪魔にだって誓うさ。君だけだ、ジャイロ」
 泣きながらジョニィは笑い、また涙が溢れてきて背後からジャイロに抱かれたままぼろぼろと涙をこぼして泣いた。ジャイロは獣のような自分の息を宥めながら、ジョニィ、ジョニィと何度も囁きかけ、ジョニィが泣く分笑い声を分け与えた。
 部屋がすっかり暗くなり、一度ベッドの上は静まり返った。だるいおしゃべりと笑い声が闇の下で震え、テーブルランプの明かりがともされた。ようやく食事だった。料理とワインがベッドの上に持ち込まれ、だらしなく幸福を溢れさせた。
 バスタブに湯を張り、ジャイロがジョニィの身体を洗った。彼は今まで話題でさえ触れたことのない腰の銃創にキスをした。街中で撃たれたのだとジョニィは話した。それさえディエゴの差し向けたものかもしれなかったが、もうそのことは喋らなかった。ジャイロは頭の先から、もう疲れて動けなくなった脚の爪先までジョニィを洗い清め湯であたためた。ジョニィはジャイロの背中を洗うと言い、その背中に抱きついていつまでも動かなかった。
 バスルームを出て、真新しいシーツの上でもう一度身体を重ねた。言葉のない、ゆっくりとした動きの永遠に続くかのような交接だった。それも果て、どちらが相手の寝顔を見ながら眠りにつくのか、オレだ、いいやぼくだと言い合う内に眠ったのはジョニィだった。
 真夜中に目が覚めるとジャイロの腕を枕にして眠っていた。ジョニィはしばらく目を開けていた。闇に目が慣れると窓からの雪明りでジャイロの顔がよく見えた。左手でその頬を撫で、ジョニィはそっと唇を押し付けた。
「ジャイロ」
 聞こえないほどの声で囁く。無我夢中で誓った言葉に偽りはなかった。もうジャイロ以外の誰にも触れられたくなかった。だから…。
 内側から溢れる微笑はそこで消えた。ジョニィは身体を起こし無表情に窓の向こうを見た。自分がすべきことは分かっていた。これが宿命だ。
 闇の中でジョニィの瞳は黒く輝き、しかしそれが誰かに見つかる前に、夜明けまでの一眠りと瞼の下に隠された。




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2014.2.15