サクロサンクトサクリファイス 21




 暗いベッドの上、高鳴る心臓を両手で押さえる。ジャイロがテーブルランプをつけた。女はここに連れ込まないという最初の科白を信じるならば、就寝前の読書でしか使われたことのないだろう暖色の淡い光が緊張し手足を縮こまらせるジョニィの姿を照らし出した。ジャイロの手は相変わらず優しかった。抗う気などもとよりなかったが、それでも服がすぽんと腕から抜けた時、あれよあれよと言う間にってこういうことだな、とジョニィは思った。あれよあれよなんて実際には言わないけど。
 胸を手で隠したのは初めてだった。こういう風に見られるとは思っていなかった。これまで散々性的な目で見られてきたのに、穏やかな眼差し一つ向けられただけでジョニィの中に火がつく。手の甲にキスをされ見上げられれば、それが開けゴマよりも強力な魔術で、君を信じよう、君に全てを委ねようという思いが腕を開かせる。するとジャイロは子供のように笑って吸いつくので、ちょっと耐え切れなくなってジョニィはその頭を抱いた。キスできない、とくぐもった声が胸を震わす。くすぐったい。それ以上に奇妙な感覚が突き上げ、ジョニィは唇を噛む。
 固い抱擁から逃れたジャイロが肩を掴んだ。
「こわいか?」
 ジョニィは首を横に振る。
「全然」
 キッと視線を正面から受けとめる。ついばまれるようなキス。それからまた視線が合う。ジョニィは自分の意志を伝えるべく、強い視線で見つめ返す。首筋のキスに目を伏せ、その熱を感じた。ジャイロのキスはどれもあたたかい。熱は冷たく眠った肉体をやさしく揺り起こす。ジョニィは震える胸を自分の掌で撫でた。この下で鼓動する心臓はジャイロを待っている。もっと触れられることを望んでいる。肌も血も肉も、今や長い眠りから目覚めた。裸の触れ合う熱が、愛撫がこの世に存在するということをジョニィは思い出した。熱い舌が触れた時、喉を仰け反らせ頭のてっぺんまで突き上げた熱が出口がなく再び体内をぐるりと巡るのを感じた。
 倒れ込んだ背はベッドに受けとめられ、身体の上にはジャイロの影が射した。伸ばした手で、雪崩れ落ちてくる髪をかき上げ頬に触れる。ジャイロの脈も上がっていた。喉に触れるとそれが分かった。呼吸はまだ、撓め力を抑えるように穏やかさを保っていた。望むならば…、とジョニィは思った。今はこうしてジャイロの存在を感じていたい。その熱に包まれ、鼓動を同じくし、その呼吸に包まれて我を忘れるほど浸りたい。だが、同時に触れ合った肌が感じている。浸りたい、溶け合うほどにどこまでも。
 手が脚を押し広げジャイロがそこに顔を埋めようとした瞬間、ジョニィは思わず素に戻って膝を閉じてしまった。ジャイロの頭は太腿に挟まれる。
「…これはこれで悪くねーけどよぉ」
「ごめん。その…」
「おまえは謝らなくていいんだ」
「でも」
 ジョニィは太腿に力を込める。おいこら、とジャイロは笑った。
「ジョニィ」
「分かってる。ぼくの身体は『視た』んだろ?」
 でも…と繋げようとした言葉をジャイロは最後まで言わせなかった。強い力が膝の裏側から掴んだ。ジャイロの眼差しに、ジョニィはまた背筋を震わせた。それは沈黙の内に投げられた視線だったが、穏やかさは影をひそめていた。ジャイロは誘っていた。挑発的な色気が滲み出し、ぐいと惹きつけてジョニィを離さなかった。目を逸らすことができなかった。視線はジョニィを獲物のように搦め取ったまま、ジャイロの唇は膝の内側に触れた。肉厚な唇が触れ、開く。覗く金歯が肌を掻くように噛む。それは次第に下へと下っていった。次第に脚を開かされているのか、自分から迎え入れているのか、ジョニィは視線を繋ぎ留められたまま誘惑の下を更に強い渇望が這いまわるのを感じた。
 ふ、とそこに息が触れた。ジャイロが見つめている。既に視たというそれ。作られた亀裂。人造的、だが決定的女の証。まだ閉じた入口の上を指がなぞった。ジョニィは息も呻き声も喉の奥に閉じ込めた。ジャイロが大きく口を開ける。濡れた舌が見える。
 そこは征服すべき場所であって、そのように触れられる場所ではなかった。ジョニィ自身、抗生剤を塗りつけた指を突っ込んだ時も自らの肉体の不全の器官に慈しみなど抱いたことはなかった。舌で触れる場所ではない。セックスであってさえ、そうだったのだ。
「ジャイロ…」
 ジョニィは手を伸ばし、長い髪を掴んだ。声は泣き出しそうな揺らぎを孕み、息が攣った。ジャイロは熱心で、おそらく丁寧で、おそらくその全て愛情と呼ばれるべき愛撫だった。女ではないから濡れない。しかしペニスがまだあったならばきっと射精している。そう確信する熱が下腹に生まれ、今にも溶け出さんばかりだ。この器官が本物の女のもつものだったなら…。行き止まりの穴、乾いた亀裂はしかし今潤され、ジャイロの頭に擦りつけられる太腿は今この時、この行為の中で肉体がジョニィの精神以上にその感情を理解している証のようだった。
 熱は高まる一方で、自らの熱い息に鼻も口も塞がれそうだ。口を開け喉をひらくと聞いたことのない声が飛び出した。それは確かにジョニィの声だった。高く、あられもなく、浅ましいほどだと思った。慌てて口を塞ぐ。しかしジャイロの舌はジョニィの隠そうとしたものを更に引き出すようにさし入れられ、ジョニィはたまらずシーツを掴む。
 大きな吐息が聞こえた。かすかにぼやけた視界の中、ジャイロが顔を上げ太腿に頬を擦り寄せてニヤニヤと笑っていた。唸る声が低くジョニィの名を呼んだ。内股に吸いつかれ、痛みにも似た強烈な刺激が脳の奥まで突き抜けた。
「ジョニィ…」
 ベルトが床に落ちる大きな音。それからジョニィはあの夜以来、まじまじとジャイロのそれを見た。記憶にある自分のものより大きい。ディエゴのものとも全然違う。互いの呼吸の響く中、おそるおそる指を絡めるとジャイロが深い息を吐いた。
「本当に…?」
 力が入らず、横たわったまま手を伸ばして触れることしかできない。キスのかわりにその指先で熱を、感触を感じ取りながら囁いた。
「ねえ、これ、本当なのか。ジャイロ…」
「嘘でこんななるか」
「だって」
 あの夜は…と言いかけて、ジョニィもやめた。顔を見合わせると自然と笑みがこぼれた。何もかもがあの夜とは全く違っていた。ジャイロ、と呼びそれを手の中に握ったままキスをした。
「おまえが欲しい」
 漲りを擦りつけ、ジャイロが囁いた。ジョニィは火傷しそうな熱に触れていた手を自分の下腹へ滑らせ、潤され溶けきったそこに触れた。熱い。脈が打つたびそこもじんじんと疼く。神経が快楽の回路に繋がれている。そこだけではない、身体中全ての回路がだ。目の前の男が。
「ジャイロ」
 この男がそうした。
「きみが…欲しい」
 何度もキスをし、視線を交わし、合図を送る。それを受け取る。彼が入ってくると感じた瞬間に緊張は全て愛しさの丈を吐き出すような吐息に変わった。涙が溢れ出る。痛みも確かにある。だがまるで違っていた。痛みも、痛みさえ感じる端から歓びにスイッチされる恍惚も、これまで感じたことのないものばかりだった。頬に、目元に、額に何度もキスを繰り返される。ジョニィは何度も喘ぐ息を吐き出しながらジャイロにしがみついた。
 本来あらざる器官で受け入れる。何度も繰り返してきたことだ。この二年間はそれが仕事だった。それだけがジョニィの価値だった。生活の全てを占めるものがそれだった。だのに今、受け入れたジャイロの肉体はジョニィの知らざる扉を押し開けようとしていた。ジャイロ。ジャイロ・ツェペリ。ジョニィが呻くと、耳元の吐息が促す。もう一度、ジャイロ、と呟くつもりで熱の籠もった息をついた。
 重い。そして深い。
「ジョニィ…?」
「こんなの、初めて……」
 上擦った囁きが唇からこぼれ落ちると、奥深くまで満たすジャイロの質量と熱に変化が現れ、ジョニィはまた痛みによる悲鳴を噛み殺した。ジョニィ…!とジャイロの声が余裕を脱ぎ捨てる。
「おまえ…」
 しかしジョニィは痛みよりもそれを抱き締めようとジャイロの身体にまわした腕に、絡みつかせる脚に力を込めた。
「初めて、なんだよ」
 自分の科白が思いの外の歓びをジャイロに与えたことに微笑みながらジョニィは手を滑らせ、ジャイロの腰に触れた。
「ねえ」
 ジャイロが欲望のままに流されてしまいそうな己を何とか抑制しているのが分かる。好きにしてくれていい。全部君のものだ。何をされてもいい。何でもされたい。それから。
 ありがとう、と言いたくてジョニィは口を開いたが震える息が出るだけだった。瞼を伏せ、溢れる涙を落としてもう一度ジャイロを見上げた。彼は辛抱強く待っていてくれた。何と言えばいい。
 瞳を交わす。淡い光の中、ジャイロの瞳は色を変える。いつもジョニィの姿を反射させるだけだった瞳が、彼が秘してきたものの片鱗を溢れさせる。
 ごつりと額がぶつかり合った。ぼやけた視界の中でジャイロが笑った。眉や伏せられた瞼が震えていた。ジョニィ、と囁かれ笑みの中で何度も頷いた。
 注がれるもので身体を満たし溢れさせる。永遠に終わらない夜の中にいると思った。雪が窓を覆い、世界は確かに二人だけのものだった。込み上げる熱に浮かされながら何度も譫言のようにジャイロの名前を呼ぶと、柔らかな掌が頬を包んでなだめるように撫で、お前を愛しているという囁きでシーツの海を満たした。

 まどろんでいるのか目覚めているのか曖昧な時間がだらだらと過ぎるうち窓の外がぼんやりと明るくなって、実は朝も結構遅い時間だと分かる。腹減った、とジャイロが立ち上がったがジョニィは起きることができなかった。身体は心地良くだるい。脚も動かないが、いつもの不安になる冷たさではない。
「ぼく、コーヒー」
 開いたドアの向こうに声をかけると、オーダー入ります、とふざけた声。そんな他愛もないことにジョニィは笑い転げ乱れきったシーツの皺を更に増やした。
 はみ出した脚に、思い出してジョニィはシーツを手繰った。露わになった内腿にジャイロの吸いついた跡が赤く残っていた。指先でなぞりながら昨夜のことを思い出す。頬が緩み、また自然と笑い出したくなる。永遠に終わらないと思ったのに、もう朝が来てしまった。胸のほっとするコーヒーの香り。それからいつもの朝食の匂い。トーストと、今日は何だろう。卵はハードボイルドか。久しぶりに甘いものが食べたい。冷凍庫の中にアイスクリームの買い置きは?
 今のジャイロにならこの気持ちも通じるのではとジョニィはニヤニヤしながらベッドの上に転がっていた。向こうからはテレビの声も聞こえてきた。ジャイロがつけたのだろう。ニュースらしい。中継が繋がっています。ニューヨークはマンハッタンのトリニティ教会から…。
 その瞬間、時が止まるのを感じた。
 確かに時間が止まった。否、止まったことなど意識できるはずもない。だが永遠の暗闇がその瞬間ジョニィの肉体と魂を圧迫し、押し潰そうとした。
 喉が開く。低い喘ぎが口をつく。呼吸をしているのにまるで息が楽にならない。呼吸は忙しく、激しくなり、視界が揺れる。
「ジョニィ…?」
 遠くからジャイロの声が聞こえたが部屋の入口は十メートルも向こうにあるようだった。ここはどこだ。ジョニィは立ち上がろうとしてベッドから転げ落ち、床に這いつくばる。ここはビルの何階だ!?
「ジョニィ!」
 ジャイロが抱え起こそうとしている。脚がぐらぐらと揺れる。ジョニィは前へ進む。ぼくは歩ける。歩行器は使わない。補装具の軋む音がする。また壊れているのだ。構うか。逃げろ。走れ。誰かが背中を押した。熱い掌。早くここから逃げ出せ。明るい長方形の入口に向けてジョニィは脚をめちゃくちゃに動かし、転ぶようにして飛び出す。
「ではこのたびニューヨーク市長に立候補された理由をお聞かせください」
 目の前にはテレビ。大勢の記者に囲まれて一人の男が立っている。上等なスーツと上品な身のこなしに、あまりにもアンバランスな頬の傷。大きな傷が亀裂となって頬に走り、それを大きな絆創膏が覆っている。だがその歪んだヒビさえ自信に満ちあふれた笑みとなり。
「ええ」
 男が言う。
「それは勿論、傷ついたこの街をそしてアメリカという国を救いたい一心からです。ニューヨークは今偉大な指導者を必要としている。傷つき疲弊した自分たちを導く者を」
「それが自分だとお考えですか。随分傲慢な物言いにも聞こえますが」
「オレは奇跡の体現者だ。ツインタワーの最上階にいながら、あの崩落から生き延びた」
 冷たい瞳がテレビ画面の向こうからジョニィの心臓を貫く。
「オレはニューヨークをもう一度世界の中心にしてみせる」
 拍手が湧き起こり、更に何本ものマイクが突きつけられる。それは鳴り止まない拍手と押し寄せる記者団のざわめきと、その中でも確かに響く男の声を拾い上げスピーカーから流した。オレは全てに勝利し、全てを手に入れてきた。必ずだ。
「必ず」
 その両眼が再びジョニィを見た。確かにジョニィを見ていた。
 血の気が引く。崩れ落ちそうになる身体を力強い腕が支える。しかしジョニィは首を伸ばし、テレビ画面の向こうに消えた顔を追いかけ、呆然と呟いた。
「ディエゴ……!」
 両脚の間から血が一筋、内腿を伝い落ちた。




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2014.2.23