サクロサンクトサクリファイス 20
窓を霙が叩く。ガラスは濃い藍色に染まり、電気に照らされた部屋の様子を映し出していた。 夜だ、とジョニィは思った。夜が来た。寒い夜になりそうだ。 この部屋は静かだ。寒ささえ形をなして音を立てるのが分かるように。 ジョニィはテーブルに近づき、コーヒーを手に取った。あたたかい。そしていつもと変わらない香り。ジャイロのコーヒーは特別だ。真っ黒で、ドロドロで、同じ分量の砂糖が入っている。飲む前から味は舌の上に蘇る。 顔を上げる。部屋の隅にはチェロ。壁には女性の肖像画。ソファから転がり落ちた、ジャイロがクマちゃんと呼ぶぬいぐるみ。 目の前には、ジャイロ。 全て現実だった。現実の中に自分もジャイロも立っていた。ジョニィはこれ以上なく完璧に現実を感じていた。全てだ。肌に触れる冷たい空気も、手の中のぬくもりも、やさしいコーヒーの香りも、耳を打つ霙の音も、ジャイロの堪えられた呼吸も、じっと射貫く一対の眼差しも。そして全ては、経てきた全てとも完璧に繋がったのだ。 エリナ・ブランドーという名。 ジョニィ・ジョースターという存在。 罪も罰も宿命も、全ての帰結点がここだ。ここに立つ、自分の肉体だ。 ジョニィはカップを口元に近づけ、ふと思いとどまってテーブルに戻した。カップの底がコトリと音を立てる。ジャイロの眼差しを見つめ返した。ありがとう、と言おうとして口を噤んだ。ここで唇が震えれば、あからさまな動揺がこの肉体に表現されれば、まだ誤魔化せる余地があったろうか。しかしジョニィの静かな心は我が身と我が身を取り巻く現実を完璧に理解していた。誤魔化しもその場しのぎも選択肢として挙げるべくもなかった。 一歩、テーブルから離れる。床を踏む足音。裸足だった。視界の果てる際、床の上のどこかに靴は転がっているはずだった。これが初めての自分の持ち物だった。目の前の男が買ってくれた、自分だけの靴。だが、それさえ――それだからこそ――置いてゆくのが相応しい。 裸足の足は迷わず玄関に向かった。ジャイロの視線が追った。しかし追う言葉は聞こえなかった。それでいい。別れの言葉はいらない。欲しいものはもう肌の下に仕舞ってある。おはようの眼差し。コーヒーの味。変な歌。真夜中のぬくもり。ちょっとした乱暴な扱いにも親密さはこもっていた。この部屋では自分は人間だった。たとえこの身体が膣と乳房のある女の肉体だとしてもジョニィ・ジョースターでいられた。その記憶がある。この百数十日、自分はジョニィ・ジョースターとして生きたのだ。この記憶は消えない。ジョニィとしての血が巡るこの身体でなら、どんな場所でも、地獄の底だって歩ける。だから言えるのはありがとうだけだ。 ありがとう、と…。 ジョニィの脚が止まった。ドアの前に灰色の影が佇んでいる。ジョニィは今や自分よりわずかに背の低いその影を見つめた。 ニコラスが乾いた瞳で見つめている。 迎えに来てくれた…という思いはすぐに消えた。ニコラスはただ佇んでいるのではなかった。ドアを背に立ちはだかっていた。 「ジョニィ」 背後でジャイロが呼びかけるというより、独り言を呟くように言った。 「もしもおまえの最後の時間をくれるとゆうなら、オレの言葉を聞いてくれ」 ジョニィは兄の影に視線を釘付けにされたままジャイロの言葉を聞いた。 「逃げたいんなら、逃げろ。オレは追いかけないと決めた。おまえを引き留める言葉も吐かない。言いたいことはあるけどな、おまえが背中を向けたままオレの目の前から消えたら、永遠にこの言葉を隠し捨て去る。その覚悟をしている。で、オレはそうできるだろうぜ。なんせタフさには自信がある」 おまえも選べ。低い声が言った。 「決断しろ、おまえの人生を。そして逃げると決めたらどこまでも逃げ続けろよ。逃げ切った先には何もない。自由だ。そこまで辿り着けばおまえの勝ちだ。オレはそのことを知ることはできないないだろうが、おまえを祝福するぜ、ジョニィ。オレが捨て去る言葉に懸けて。父から授かったオレの名に懸けて」 ジョニィはニコラスの瞳を見つめる。ガラス玉のような瞳に驚きに打たれた顔が映っている。 背後で椅子を引く音がした。ジャイロが腰掛けたのだ。軽く顔を背けたのが分かった。髪が肩から落ちる音さえ聞こえた。 「ジョニィ」 ――ジョニィ。 感情のない乾いた声でニコラスが呼ぶ。 ――おまえがぼくを殺したのか? 目の前に夜が広がる。きっとそうだ。ぼくはあなたの優しさに縋った。父の言いつけをやぶり、殺さなければならなかった白いネズミを森に逃がした。あなたが、兄さん、落馬したのは馬が白いネズミに驚いたせいだ。ぼくの逃がした白いネズミが馬の前を横切った。 ――おまえがぼくを殺したのか? あそこにはディエゴもいたんだ。ディエゴがそう言った。白いネズミが馬の前を横切ったと。 ――ジョニィ。 だから兄さん、ぼくはあなたへの償いをするために、これから…。 ――ジョニィ。違うんならそうと言ってくれ。 「ジョニィ」 脚が蹌踉めいた。ジョニィはドアに縋り荒い呼吸をした。今、ニコラスは何と言った? 彼はおまえが殺したのかと尋ねた。それから。 ――違うんなら、ジョニィ。 虚ろな瞳に悲しい涙の潤みがくるりと円を描いて。 ――違うんならそうと言ってくれ。 手は冷たいドアノブを握りしめる。これを回して押し出せば。 ジャイロは動かない。 ただ待っている。 ジョニィが選ぶのを。 激しい呼吸に喉が痛んだ。ジョニィはドアにもたれかかって体勢をなおし、唾を飲み込んだ。振り向く。 ジャイロは手を組み、軽く俯いている。まるで祈るかのような姿だ。 このままドアの外に飛び出せばジャイロはきっと追いかけてこない。彼は口にした言葉を守るだろう。そしてジョニィが完全に逃げ切ると信じている。こんな自分を、信じている。 ジョニィは壁に手をつき、脚を引き摺りながらテーブルの前に戻った。 「ジャイロ」 荒い息を抑えられないまま、ジョニィは呼んだ。 「君はぼくがここに座ることを赦してくれるのか」 ジャイロの瞼が持ち上がり、顔が持ち上がった。瞳は鏡のようにジョニィを映した。 「ああ。赦す」 ジョニィは、ああ、と震える息を吐き出した。灰色の影は跡形もなくかき消えていた。ニコラスはもうずっと待っていてくれたのだ。赦しを乞う言葉ではない。ジョニィが違うと言うことを。自分はとっくに赦されていたのだ。見守る瞳はジョニィを本物の現実まで導いてくれていた。この肉体とこの心の立つべき本当の場所まで。 震える脚でどすんと椅子に腰掛ける。 「本当に手のかかるやつだな、おまえさんは」 ジャイロがわざと歯を見せ、品無く笑った。 コーヒーを挟んで穏やかな沈黙が続いていた。窓ガラスの周囲には積もった霙が凍って白い縁をなしていた。カップが空になり、漂う香りが消えそうになっても沈黙は続いていた。テーブルに椅子が一脚増えた日の、胸を長い針で貫くような冷たく、長く尾を引く痛みが、身体を内側から凍らせてしまうような痛みが再びジョニィを苛んだ。穏やかな視線は自分を包み込むようなのに、手指の一本さえ触れてはいないのに、その触れられない距離、彼が揺れることなく厳然と保つ距離が忍耐の限度をこえる冷たさとなり射貫くのだ。 静かな声で宣言したとおり、ジャイロは決して自分からは言わないのだろうし手を伸ばさないのだろう。選ぶのはジョニィだった。触れたいと望んだジャイロの掌を受け入れるのか。彼が永遠に隠し捨て去る覚悟もあるという言葉を聞くのかどうか。 ジョニィは視線を逸らし自分の背後を探した。しかしもうニコラスの姿はない。もうニコラスを言い訳にすることはできない。胸を貫く痛みはいよいよ冷たく、吐く息が震えた。 新しい椅子。ほんの一つ、あるいは数枚増えたカップや皿。この部屋も、初めて訪れた時のジャイロ・ツェペリの部屋ではなくなったのだ。ジャイロの人生に自分の一部が溶けこんでいる。改めて驚愕すべき事柄だった。人生の交わりは運命だったのだろうか。ビルの崩落。地上を歩いていたジャイロと最上階で結婚式を挙げさせられた自分。医者の人生と牢獄の人生。彼が故郷を離れてこのニューヨークにやって来たこと。天才ジョッキーと褒めそやされる人生を破壊した一発の銃弾。この肉体。失われたものも、穿たれたものも。傷も。亀裂も。 全てを差し出すということは全てが自分のものだったと受容することでもあった。欠け損なわれた肉体。奪われた時間。目を逸らしたいと思った全て、あれはニコラスのための傷ではない、自分自身の傷だったと。 しかし今。 何を失ってでも、欲しい。 「ジャイロ…」 この男は何故、最初から名前でいいと言ったのだろう。病院の白いベッドの上での返事を、今ようやくしたような気がした。 「ぼくの手を握って」 「喜んで」 柔らかな掌。これまでジョニィを何度も驚かせてきたやさしさは、強くジョニィの手を握った。 「…それから?」 「それから…」 「他の言葉では?」 ジョニィは強く手を握り返す。恐怖が抜けてゆく。真っ直ぐにジャイロの瞳を見つめる。 「ぼくの名前を呼んで」 「…ジョニィ・ジョースター」 「その続きは…?」 「キスさせてくれ、ジョニィ」 すぐには返事ができなかった。一呼吸、吸い込んで、止め。 「ぼくも、君とキスがしたい」 握った手を引き寄せると、ジャイロがテーブルの上に身を乗り出した。触れて、もう一度押しつけられ、離れる。 「それから?」 ジャイロは問う。 「…それから…?」 「だから」 「だから…」 「つまり」 「つまり…」 胸を貫く痛みはいつの間にか熱となって全身の神経を焼いていた。心臓はこれほど強く打ったことがあるかというほど鼓動を響かせていた。喉の奥も鼻の奥も目の奥も熱かった。そこから溢れるものが全部溶け出してひどい顔になるのではないかと思った。視界の中、ジャイロの顔がぐにゃりと歪みまばたきを繰り返す。涙が散る。 「馬鹿馬鹿しいと君は笑うかもしれないけど」 繋いだ手で頬や目元を拭い、真剣な顔で自分を見つめるジャイロを正面から見つめ返した。 「ぼくはこんなこと言ったことがないんだ。感じたこともないんだ。嘘かもしれない。勘違いかもしれない。君に笑われるかもしれないけど」 「今、オレは笑ってるか?」 ジョニィは首を横に振った。 「間違ったことだと思いたくない」 「言えよ。オレはおまえを信じる」 「君を愛しているんだよ」 結局涙は溢れ出して、ジョニィはそれを拭うこともできず言った。 「こんな僕なのに、今更捧げるだけのものなんか残ってないと思ってたのに、心が全部君に向かってる。君が好きなんだ」 ハッとするほど柔らかな、触れたのは掌で、頬を拭い涙を拭った。ジャイロは笑っていた。それは全てを赦すような微笑だった。 「オレの答えを聞きたいか?」 「…聞きたくない」 「なんでだよ」 「多分今が一番幸せだ。もう殺してくれ」 「…じゃあ殺すしかねえな」 握っていた手が離れる。強い力で引き寄せられる。キスをするジャイロの唇も、掌も、自分の頬に負けず劣らず熱い。 「ジョニィ」 名前を呼ばれるだけで苦しい。だが、望んだ。名前を呼んで。触れて、キスをしてくれ。それから。 「ジョニィ・ジョースター。おまえを部屋に入れる前から、あの時、九月のあの日、おまえが空から降ってきた時、神は背を押したんだ。オレとおまえの背を」 向こう側に…という呟きは妙に苦しげで、ジャイロは再びジョニィと呼んだ。 「コーヒー、飲むか?」 「今…それ…?」 「じゃあ、オレが何を言ってもイエスって言えよ」 「イエス」 「ついてこいよ」 「イエス」 「勇気はあるか」 「イエス」 「オレがおまえを愛していると、信じるか?」 震え、返事の前に唇を触れさせ、それからすぐそばで囁いた。 「イエス」 吐息が頬を撫で、離れた。彼はジョニィの前に佇むと膝を折り、跪いた。所作の美しく、礼儀正しいのにジョニィの胸がわずかに反る。ジャイロは上品な仕草で指輪の光る左手を取り、じっとジョニィを見上げた。 「おまえが欲しい」 イエス、と答える声は上擦り、掠れた。 指の上にキスが落ちる。それだけでもジョニィは震えたが、指先を軽く食まれ口の中に飲み込まれると溜息は堪えきれない呻きになって漏れた。 かちりと音を立てて歯が指輪に触れた。自分には感じる罪悪感などこれっぱかしもないのに、銀の指輪はジャイロに警告を与え続けた。ジョニィにとっては呪いのようなものだった。実際、ディエゴの執念がそのまま形になったように、どんな手段をもっても指輪は抜けることがなかった。それに歯が触れる。痺れる指の付け根を舌が舐めた。 「ふ……」 唇を噛み声を堪えながら、しかしジャイロから目が離せなかった。見えるもの、指に感じるもの、両方から神経が溶かされて崩れ落ちそうだった。涙は厚い膜を張ってもうこぼれ出すだけだった。 ジャイロが最後にぬるりと舐めるように指を離し目に映ったのは飾るものの何もない左手だった。ジョニィは濡れてひやりとする指を震わせジャイロを見つめた。ジャイロは前歯で噛んだ銀の指輪を床に吐き捨てた。 「ジャイロ…」 硬い音を立て転がる指輪を視線の端に追いかける。 「ジョニィ」 ずいと脚の間を割ってジャイロが近づく。静かな囁きは、目の前でどんな記念碑にも勝る宣言をした。 「おまえはオレのものだ」 |