サクロサンクトサクリファイス 18




 また鼻血がこぼれだしたのは、帰りの車の中だった。マウンテン・ティムの車はニューヨークの街をのろのろと走った。街の象徴として自由の女神の次には名前の挙がるツイン・タワー崩落の爪痕はまだ街中に、そしてそこに住む人々の心に残っている。ニューイヤーのムードも自粛気味になるだろうとニュースは言っていたが、しかし通りにはネオンが輝き人の姿があり熱気もある。道も渋滞していた。カウントダウンの数字を見上げる人々の顔に、ジョニィは胸を引っ掻かれた。暗い車窓に映る自分の顔と人々の表情は重なった。何かを求めている。何かを望んでいる。言葉にならない、だが熱烈に求める何か。
 ふわりと目元が熱くなった。喉に流れ込む違和感に咳き込み、鼻血がこぼれていると知った。セーターの袖で拭うとジャイロが低い声で名前を呼び、ハンカチを差し出した。一体ハンカチを何枚持ってるのさ、と笑おうとしてできなかった。まだ湿ったハンカチは、多分ティムの家で洗ったのだろうもので、昼間に流した血の痕跡が薄く残っていた。平気だ、と押し返そうとしてジャイロの目を見てやめた。ジョニィは黙ってそれを受け取り、鼻に突っ込んだ。
 三人三様、酷い顔をしていた。ジョニィの鼻血。さっきから無言のジャイロは顔にロープの痕があった。ロープで叩いた痕、だろうか。運転席のマウンテン・ティムはもっと分かり易く顔に丸い青痣があり、その形にジョニィは見覚えがあった。ジャイロの鉄球だ。あんなものを思い切りぶつけて大丈夫だったのか。いや、そもそもこの二人は自分が眠っている間に何をしたのか。
 知りたくない、と思えばジョニィの表情はどんより曇り、ニューイヤーを待ち望む人々の表情から離れ俯く。この渋滞と重苦しい沈黙の続く車内において、しかしティムだけはそこまで腐っている訳ではないらしくラジオから流れる音楽に時々指がステアリングを叩いた。いつもならこういう仕草はジャイロが見せるものなのに。ちらりと横目に覗くと、ジャイロは腕組みをして目を閉じていた。
 アパートに着いてもジャイロは何も言わず車を降りた。
「おいおい」
 窓からティムが顔を出す。
「挨拶もなしか。大人げないぜ?」
「てめえもな」
 ジャイロはロープの叩いたような痕を撫で、ティムも青痣を撫でてみせたがその顔は余裕ぶって笑っている。それを見てジャイロはまた嫌そうな顔をし、唾を吐いた。
 別れの挨拶はなかった。ジャイロがアパートの中に消えてもジョニィはそこを動かなかった。ラジオからはニューイヤーの訪れを知らせるDJの声と明るい音楽、そして通りの向こうから笑いと拍手がさざ波のように漂ってきた。
「行かないのか?」
 ティムが尋ねる。ジョニィは鼻からハンカチを引き抜き、再びゆっくりと流れ落ちようとする血を拭った。
「一応、礼は言っておく。…でもそれだけだ」
「十分だ」
「本当に?」
「オレが君らからぼったくると?」
 沈黙の中、ジョニィは鼻血をすすり上げた。しかし生ぬるい液体は唇の上まで流れ落ちる。ハンカチを掴んだ拳の甲がそれを拭った。
「ぼくには資格がない」
 ようやく、ジョニィは言った。
「果たして資格がないのかどうか、自分の目で確かめるといい」
 ティムの視線はジョニィの背後に注がれていた。アパートの入口のドアの向こう、ジャイロの影は動いていなかった。
 マウンテン・ティムの車が走り去るとジョニィはようやく脚を動かしてアパートの入口に向かった。脚が重い。ジャイロの背中を追いかけて初めてここに辿り着いた日より、ずっと。
 ドアを開けたのはジャイロで、それからまたゆっくり螺旋階段を上った。部屋に入るとジャイロはコーヒーを飲むかと尋ねた。ジョニィは首を横に振った。
「寝る」
 ジャイロは自分のベッドを使っていいと言ったが、ジョニィは断った。ジャイロもそこまで勧めようとせず、あっさり引いた。
 お互いに何かを隠していることは明らかだった。それを言葉にせずにすむよう、ジャイロは明かりを落とし、ジョニィはソファの上で毛布を被った。

 弱ってはいたのだろう。朝、ジャイロが肩を揺するまで起きなかった。
「具合はどうだ」
 眠気で霞む視界の向こうジャイロが言った。ジョニィは答えずぐったりと首を反らした。
「気分が悪けりゃオレのベッド使え」
「いい」
「また風邪引いたらどうする」
 手が肩から優しく離れる。それを視線で追うとジャイロはこちらを見て笑っているようだった。
「行ってくる」
 頬にはまだロープの残した痣が残っていた。
 ジョニィはソファの上でごろごろといつまでも毛布にくるまり、天井や窓を眺めるともなし眺めた。今日は一月一日、新しい一年の始まりだ。しかし昨日と昨夜の出来事を思い出すにそんな爽やかさは微塵も感じられない。昼近くになってやっと起き上がる気になったのは腹が減ったからだった。
 昨日は丸一日いなかったようなものだから、キッチンにも何もなかった。冷蔵庫の扉を開けては閉め、パスタやトマト缶の詰まった戸棚を開けてはまた閉めた。ポットには今朝ジャイロが入れたコーヒーが残っていた。ジョニィはそれを注いで、カップを両手に握った。
 窓から通りを見下ろす。昨夜自分が佇んでいた場所を見つめ、マウンテン・ティムとの会話を思い出した。
 服を脱ぐ。全て脱ぎ捨てバスルームへ向かう。ジャイロの部屋を通り抜ける際、また最初の夜を思い出した。鏡に映る肉体を見た。掌で乳房の形をなぞり、その手を下へおろしてゆく。陰毛の生えていない滑らかな丘を、掌は滑り落ちる。触れる。その箇所は昨夜熱を持っていた。ジョニィの触れる前から熱を孕み、ジョニィ自身がそうだと認める前から欲情に素直に反応していた。
 だが女ではない。
 形は女の身体だ。膣もある。しかし裂け目の奥は行き止まりのトンネル、ただの穴だ。この肉体は濡れず、命を育まない。
 そして勿論、もう男でもない。男たる証は消えた。二年前にだ。何度も触れた。傷痕だけでもと探そうとしたのに、最初からそんなものはなかったかのように肉体は作り変えられてしまった。
 だが思考はもう一度元の地点に戻る。自分は女ではないのだ。
 ジョニィ・ジョースター。かつて鏡の中に何十回、何百回と囁いただろう。鏡を見るたびに囁きかけた。ぼくの名前はジョニィ・ジョースターだ。しかし高く掠れた声は、既に記憶にある自分の声ではない。そんな自分がジョニィと名乗る意味は何だろう。男でも女でもないものが、一体この部屋で何をしているのか。
 女になれたら、ジャイロに愛される資格があっただろうか。
 もし男のまま出会えたら抱いてくれと誘うことができただろうか。
 鼻から一筋、滴り落ちた血が胸まで届く線を描いた。ジョニィは鏡に顔を近づける。指先が唇をなぞり、血の赤を引いた。
 やはり自分の顔は変わったのだとジョニィは思った。見慣れた顔が鏡の中で軋みを上げている。指で触れるとこちら側の自分と鏡の向こうの自分がせめぎ合って、触れ合った指先から皮膚が破れ血が流れるようだった。
 分かっている。ただの鼻血だ。鏡に掌を押しつける。赤い手形はわずかに滴る。
「おまえは何て名乗るつもりなんだ」
 鏡の中に問いかける。
「それでジャイロに何と言うつもりなんだ?」
 鏡の中の顔に問いかけながら、馬鹿馬鹿しいと赤い唇を歪める。前髪の隠しきれない熱っぽい目も、血のなぞった赤い唇も、全て今更だった。女ならば。女が男を誘う時はもっと可愛らしいものだ。もっと色気を利用するものだ。男ならば。ジョニィは自分の顔がいいことを知っている。一度ものったことはなかったが、男が誘いをかけてきたのも一度や二度ではなかった。それを余裕の笑みでかわしてきたのに、今鏡の中の自分はあまりに無残で情けない。
 蛇口から乱暴に溢れ出す水で顔を洗い、濡れた手で鏡を拭いた。血の手形は薄く引き延ばされ、大量の水に混ざって滴った。タオルで拭い、ゴミ箱に放ろうとして思い出したのはやはり初日の科白で汚れたからといってタオルを捨てるなというあれ。洗濯機に放り込み、ジョニィは蹲る。
 口に出したい言葉を言う資格はない。それでも心の奥底から湧き上がるものに唇が震え、ジョニィはくしゃくしゃに歪んだ顔を膝に埋めた。今更知りたくもない感情だった。しかしきっと最初から持っていた感情なのだ。それが生まれたのは、ジャイロがウェディングドレス姿の自分を抱いた時から、きっと出会ったあの時からだ。意識を失い眠ったこの胸にも、度し難い熱は既に生まれていたのだった。

 夕方を前に雪がちらつき始めた。夕飯を、ジャイロは角のデリで買ってきた。ジョニィはジョニィで手でも動かしていないと落ち着かなかったからこれまた山のようにパスタをこしらえていた。今度は茹ですぎたのではない。メニューの全てをオーダーされても対応できるほどのミートソース、トマトとシュリンプ、カルボナーラ、こちらからはバジルのいい香りがする。
 テーブルの上は料理で溢れかえり、二人は言葉少なにそれを平らげた。意図した沈黙ではなかった。ジョニィは料理に夢中なふりをした。ジャイロは惣菜もジョニィのパスタも美味そうに食べている。そのように見える。
 食い散らかした皿をキッチンに運び、シンクを洗剤の泡で満たした。
「結構結構」
 ジャイロの手がぽんと頭の上に置かれる。
 雪は路面や隣のビルの屋根に薄く積り、街灯の照り返しで窓の外はほんのり明るかった。先にシャワーを使ったジャイロがやっぱり半裸のまま後ろにやってきて街路を見下ろし、車の心配をした。他愛のない言葉の中にジョニィは、ジャイロは明日も仕事に行くのだと思い、地下鉄の中で自分は来年になったらバイトをすると話したことを思い出した。ジャイロが今日の夕飯を買ってきた角のデリでだ。来年。もう来年になった。全部昨日のことだというのが嘘のようだ。
 脚が重い。
 それに冷たい。
 背後で笑い声が起きる。ジャイロがテレビを点けたのだ。ジョニィは食器乾燥機のスイッチを入れると濡れた手を拭きながらキッチンを出る。膝が軋む。
「寒いな」
 天気予報を見ながらジャイロが言った。
「しばらく雪だとよ」
「…遅いくらいじゃない?」
「去年は…クリスマスから真っ白だったよなあ。タイヤ替えといてよかったぜ」
「明日…」
「ん?」
 言葉が続かない。明日。明日何が起きるのだろう。自分は角のデリに行って面接を受けるのだろうか。想像がつかない。ジャイロは朝からコーヒーを淹れ、仕事に行き、帰ってくる。今日は洗濯をしていない。玄関付近が泥で汚れている。マウンテン・ティムの家の前にあった泥濘を踏んだからだ。明日、鼻血のついた服を洗濯し床を掃除すれば、いつもどおりの、この三か月繰り返してきたような日常が戻ってくるのだろうか。
「ジョニィ」
 ジャイロが呼んだ。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「別にないよ」
 ジョニィは答えた。
「寝たい」
「ベッド使え」
 聞こえなかったふりをして歯を磨いた。しかしソファの上にはジャイロが居座っていた。それどころか横になって占領している。
「ほれ」
 爪先が寝室を指した。
「ぼくだってぼくの寝たい場所で寝るよ」
「オレもな」
「ぼくは遠慮してない。だから言いたいことを言ってる」
「その意気だ」
 乱暴にテレビが消されリモコンが床に放り出された。ジョニィは肩を掴まれ寝室に引き摺っていかれた。抵抗する間もなかった。
 ベッドに倒れ込むとジャイロは笑ったが、ジョニィはすぐに起き上がった。手が掴まれた。
「待て」
 振り返るとジャイロはちょっと真面目な顔になった。
「安心しろ。襲ったりしねえから」
「最初から心配してないよ」
 じっと見つめ合う。ジャイロが何を考えているのかは分からなかった。雪の夜は寒い。確かにそうだ。じゃあこれはただの優しさと呼ぶべきものなのか?
「今更だけどさ」
 ジョニィは淡々と口にした。
「ぼくのこと気持ち悪いとか思ったりしないの?」
「一度も」
「患者だから?」
「もう患者じゃねえだろ」
 ベッドに手をつき、ジョニィはゆっくりと身体を横たえた。ジャイロが少し片側に寄ってスペースを空けた。
 背中を合わせて横になる。
「嫌か?」
 暗闇の中でジャイロが尋ねた。
「訊くのが遅いよ」
 ジョニィは背中に体温を感じながら、雪の降り続く窓に向けて答えた。
「嫌じゃないけど」
「朝から蹴落とすなよ」
「君こそ」
 朝になったらぼくを追い出すんじゃないかと言おうとして、やめた。きっとジャイロがそんなことをするはずがなかった。
「おやすみ」
 そう囁いたジャイロの姿は見えなくなる。いつもだ。病院のカーテンの向こうに消え、寝室に消え、ドアの向こうに消え、見えなくなった。今もその姿は見えない。だがすぐそばにいる。この触れた背中に彼の熱を感じている。
 おやすみを囁いた男が、すぐそばに眠る。
「おやすみ…」
 ジョニィは呟いて固く目を閉じた。

 鏡を見るたび、ここを出て行かなければならないと考える。
 今日こそだ。いつかやって来る日が来ただけだ、と。
 洗濯した服をクローゼットに、床も磨く。いつもどおりのジャイロの部屋。ソファの上にはクマちゃん。チェロは部屋の隅で沈黙し、壁にかけられた肖像画の女性は優しく微笑む。それでも。
 テーブルに増えた椅子が、一脚。
 ジョニィはニットの帽子を深くかぶり、外へ出た。角を曲がる。デリにはまだ求人の貼り紙が貼ってある。それを通り過ぎ、グラウンド・ゼロへ向かう。
 降り続いた雪が更に脚を重くした。ジョニィは何度も立ち止まり休憩を繰り返して進んだ。グラウンド・ゼロに辿り着いた時には、昼を随分回っていた。既にあの瓦礫の山は見えなくなっていた。フェンスと防音柵が張り巡らされ、かつては歩き回った場所にさえ近寄れなくなっている。柵に遮られた視界の上にはあの時はなかったクレーンが首をもたげていた。ジョニィはそれを離れた場所から見つめ、しばらく佇んだ。重機の唸り声と振動が冷たく動かなくなった脚を震わせた。フェンスに張られたポスターを見に近寄ることもできなかった。
 帰りには更に倍の時間をかけた。
 角からアパートを見上げると窓に明かりがともっていた。ジョニィの脚は躊躇した。そしてこれはそんな弱い心ではないと強がり何か言い訳を考えようとしたが、結局角に佇んだまま目も耳も身体も心も窓の明かりに釘付けになったのだった。乾いて、静かで、つめたく冷え切った日没の空気は一日中グラウンド・ゼロを彷徨い歩いたジョニィの脚を苛んだ。寒さはほとんど痛みにも感じられた。だがそれさえ忘れてしまうほど窓の明かりはジョニィを驚かせ、懐かしい警戒心も呼び起こした。あの明かりが自分を待っているとは限らない。得たと思えば、その満足感がいつか喪失に繋がるだろう。快楽はまだ見ぬ未来を抉る。ここで浮かれるのは利子をきかずに金を借りるようなものだ。宿命という取り立て屋の恐ろしさをジョニィは夢に見るまで知っている。
 踵を返して逃げだそうか、とも思った。しかし明るい窓からはジャイロの変な鼻歌さえ聞こえてきそうで。
 会いたいと思った。自分に笑いかける、あの穏やかな眼差しを求めた。更にはニョホというおかしな笑い声や、ふざけている最中も揺るがないような瞳の奥の色や、自慢げに笑う時覗く金歯や、窓の向こうにジャイロを思えばきりがなかった。ジョニィは脚を引き摺り、アパートの入口に立った。低い石段を数段のぼり、ドアに手をかけもう一度上の階を見上げた。自分のこの行為を、帰る、と言ってよければ…。
 苦労して螺旋階段をのぼり、部屋の前に立った時今度はノックするのにも勇気を要した。すっかり気弱になっていた。控え目に扉を叩くと、はたとドアの向こうの空気が止まり、一拍、それから一転バタバタとした足音が近づいた。
「誰だ」
 怒ったような声が尋ねる。
「ぼくだ。ジョニィ」
 名乗ると勢いよく開いた扉が目の前を掠めた。
「おせーぞ!」
 確かにジャイロは怒っていたらしくて、軽い拳を一つくれるとジョニィの腕を掴んで引っ張った。ジョニィの脚はもつれ転びそうになり、思わず腕や背中にしがみつく。ジャイロは黙ってジョニィの身体を支えた。沈黙の内に為される彼の行為は真摯だ。ジョニィはありがとうを言ったつもりだが、意に反して口の中で呟かれる不明瞭な音の塊にしかならなかった。
 キッチンからは美味しそうな匂いが漂ってきたが、それよりその紙のような顔色をなんとかしろとバスルームに追い立てられた。浴槽に張られたたっぷりの湯に身体を沈めると凍えた神経の一本一本までほどける。ジョニィは湯の中で自分の脚を撫でた。氷のように冷たい。浴槽から出る時になっても、あたたかい夕飯を摂っても――昨夜の残り物じゃない、ジャイロは今夜の食事を作ったのだ――腰から下の感覚は戻らなかった。
「食べ過ぎて疲れた」
 ジョニィはテーブルの上に突っ伏す。
「ほっつき歩いて、だろ。またあそこに行ったのか」
「うん」
「探し物は見つかったかよ」
 返事はしなかった。皿を下げる音が聞こえてもジョニィは顔を上げなかった。しかしジャイロが居候の義務をくどくど言い聞かせることはなかった。皿の気配が消えて、料理の匂いが遠ざかる。
 脚を動かさなければ。しかし思考は空転するばかりで先のものが見えない。どこへ行く? 明日? 今夜? これから? この脚を動かしてどこへ。
 不意に眩しい光に照らされた景色を顔面にぶつけられたようなショックが全身を襲い、ジョニィは目を見開いた。腕の隙間から覗く。テーブルの向かいにジャイロが座っている。ニヤニヤと品なく笑う男は口元から光る金歯を覗かせ、挑むようにジョニィを見ていた。
 脚だ。冷たく投げ出された脚。
 テーブルの下で裸足の足が触れ合う。
 冷たく、感覚の失せかけた足の裏を、ジャイロの爪先がなぞる。靴のサイズはジャイロの方が大きい。そのままなぞられて足の裏をぴったり合わせれば、相手の方が指が出る。ジョニィは再び目を伏せ、否もうほとんど見えない状態で足の裏の感触にばかり集中した。ジャイロの足の裏はぴったりと、カタツムリが雨に濡れた葉を這うように、パズルがしっくりいく場所を見つけ出すように、寸分の隙もなく触れ合う場所を探していた。
 あっという間にジョニィは足の裏以外、自分に構うことができなくなった。果たしてジャイロがどんな顔をしてこの行為に集中しているのか、見てやろうということにさえ頭が回らないほど興奮していた。こうやって触れられる爪先が足の裏の熱が、身体中の神経回路を繋ぎ直して全部快楽に変換してしまうような。全く度が外れている。自分もだが、ジャイロもだ。何故こんなことをするのか。ジョニィはもう寝たふりを続けていなかったし、ジャイロも当然最初からそれを解っている。
 爪先を指でぎゅっと包まれ、声が出た。
「ジョニィ」
 悪戯っぽい小声が呼ぶ。
「もう降参か?」

 この部屋に脚を踏み入れることを「帰る」と呼ぶ。互いの挨拶で目覚め、同じ味のコーヒーを飲み、テーブルで向かい合って夕食を摂る。雪は止んだのに同じベッドで眠る。それを今や「日常」と呼ぶ。
 夢の中でさえ眩暈を感じるのだろうか。ジャイロの寝息を首筋に感じ、ジョニィはくらくらと現実の底へ、二人横たわるベッドの上の自分の肉体の眠りの中へ落ちてゆく。




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2014.1.26