サクロサンクトサクリファイス 17




 やる気ないんなら寝たら、とジョニィが言うと、やる気がねえんじゃねーんだよ頭と身体が動かないだけだ、と言い返すがその実眠いに違いないのだ。目の前のPCはさっきから一センテンスも動いていないし、資料のページが捲られてもいない。
 クリスマスが終わってもニューイヤーが近づくにつれ調子づく人間は増え、九月の事件は確かに尾を引き摺ってはいるものの、急性アルコール中毒やオーバードーズ、階段を踏み外したのから煙突につっかえたのまで様々な病人怪我人でベッドは溢れかえっている。閑古鳥が鳴いても困りものだが、病院が満杯だのと碌なことではない。
 その中でジャイロは昨夜の急患の処置について上と喧嘩をしたらしく、今朝目の下に隈を浮かべて帰宅した時からずっとぶつぶつ呟いていた。
「寝なよ、逆に邪魔だし」
「てめー、家主に向かって…」
「そもそもその始末書? いつ出すの。明日なんだろ。で、君は今夜勤明けだ。何時間寝てない?」
「うっせーぞジョニィ。オレには責任ってやつがあるんだ」
「大変だね。幸いなことにぼくにはない」
「居候の責任ならあるぜ。掃除、洗濯…」
「だからその掃除の邪魔だってのさ」
 が、こんなくだらない会話をしながらジョニィもまた既に掃除を続ける体勢ではなくて、モップにもたれかかりながらぐんと身体を傾けジャイロの顔を覗き込んだ。
「酷い顔してるぜ」
「色気が増しただろ」
「試してみたら?」
 ジャイロは立ち上がり、窓から身を乗り出して通りに手を振った。ジョニィが別の窓から見下ろすとカートに買い物を山と積んだ近所の老女が投げキッスを寄越した。
「見ろ」
「優しいおばあさんでよかったね」
「だからどうしててめーの脳みそはそうひねくれて…」
 言いかけたジャイロは窓枠にもたれ大欠伸をする。
「欠伸は脳が酸欠状態なんだって」
「医者に説教か?」
「ソファ貸してやるよ」
「偉そうに」
 そう言いながらもジャイロはソファにドスンと横になり、跳ねたクマちゃんが床に落ちた。半ば目を閉じて手だけを彷徨わせるジャイロの腹の上に救出済みのクマちゃんを載せてやると、ニョホホという笑い声。大の男がぎゅっとぬいぐるみを抱き締める。
「どれくらい?」
「起きるまでだ」
「じゃあ本気で起こさないけど」
「自分で起きられる」
 会話が途切れるとすぐに寝入ったと分かる沈黙が下りた。ジョニィはモップを片付けた。掃除機は出さなかった。起こさない、とは約束したのだ。キッチンでコーヒーを飲んだり、テーブルの上の新聞を読んだり、しかしすぐに退屈になる。いつもジャイロのいない昼間はどう過ごしているだろう。時間が急に空虚なものに思えた。何もすることがない。ジョニィは急に焦りを感じた。何もすることのない時間とは、かつては安息だった。傷つけられることのない時間を言うのだった。しかし今はこの空虚な沈黙、虚ろな退屈がジョニィを記憶の渦に引きずり込もうとする。時間の針が巻き戻される。安息が終わる。
 肩が震えた。テーブルに頭を載せたままうたたねをしていたようだった。外はまだ十分に明るい。夕方にもなっていない。ジャイロは。
 ジョニィは立ち上がり、足音を忍ばせてソファに近づいた。眠る男はクマのぬいぐるみを抱き締め、しかし決して無邪気な顔はしていなかった。むしろ何ものも語らぬ無表情。答を閉ざす、謎の男。
 じっと見つめる下で小さく声を上がり、ジョニィはわずかに反る。狭いソファの上でジャイロは寝返りを打とうとし何とか腕の位置を変えて横を向くことに成功した。ジョニィは床にぺたりとしゃがみこみ、息を止めてジャイロの寝顔を見つめた。唇がかすかに息を吐き出した。震えそうだ、と思いながら、事実身体を支える指先を震えさせながらジョニィは顔を近づけた。唇が触れたのはわずかな時間で、押し当てられたそれをキスと呼ぶにも初々しい、まるで子供のような触れ合いだった。昔のジョニィなら、いや五秒前のジョニィだってこれをキスとは呼ばなかっただろう。しかしもうジョニィの顔は真っ赤になっており、息を止めたままゆっくりと床の上をずりさがりながら、キスをした、自分からジャイロにキスをしたと頭の中で繰り返していた。

          *

 冬空の下、乾いた唇を撫でる。ジャイロは地下駐車場の半ばで立ち止まり、緩いコンクリートの坂とその向こうに平たく広がる朝の光景を眺めた。地下から見上げて見える光景は眩しい。小さく吹いた口笛の音はコンクリートの壁と天井に反響し、思いの外鋭く響いた。入口のガードマンが振り向いた。ジャイロは通用口に向けて歩き出した。
 エレヴェーターに乗り込み、冷たい壁に背をもたれる。抱えた鞄の中には始末書が入っている。しかしそれももう大した問題ではなかった。指先で唇をなぞる。既に人で溢れかえった廊下を抜け、ホワイトボードで今日の予定を確認するがERにおいて予定は常に未定だ。ともかく、と白衣を羽織り動き出す。ここでは自分は医者だ。ベッドの上の患者もまだ見ぬ患者も自分を待っている。
 医者は先祖から受け継がれてきたツェペリ家の家業だ。そのことに対する誇りと、自分のついた仕事を尊ぶ気持ちはある。仕事は仕事だ。もう一度唇を撫でようとした手をまじまじと見つめ、ばちんと両手で頬を打った。
 メスをその手に持てば雑念は消える。そのように訓練されている。正午になり、午前中いっぱい手術室に詰めていた同僚がさっきまで開胸し肺に触れていた手で煙草を吸い大きな溜息をつく横を通り過ぎ、自動販売機を求める。不味くてもいい、取り敢えずコーヒーだ。指先がまた無意識のうちに唇をなぞる。そのことに気づいたのは廊下の真ん中で立ち止まった少女が同じように唇に指先をあて、あら、と声を上げたからだった。
「ジャイロ」
 声をかけたのは少女の押す車椅子に乗った初老の男だった。
「久しぶりに顔を見るな。どうやらしぶとく生き残ったらしい」
「ミスター・スティール、あんたもお元気そうで」
 ぞんざいな言葉ながらジャイロが頭を下げそれなりの敬意を払ってみせたのはこの男がテレビでも有名な大物プロモーターだからという訳ではない。理由の主たるところは後ろに立つ少女にあった。ルーシー・スティール。このスティール総合病院のオーナーは彼女である。
「ミセス・スティールも」
 少女はニコッと笑いルーシーでいいのに、と言った。
「でも本当に久しぶりね。同じ病院にいるのに。元気だった? あの時以来かしら…」
 ルーシー・スティールは不用意に口にした訳ではなかったが、それでも肩が震えた。車椅子の夫が幼い妻の手に触れ、ジャイロを見た。
「あの日、君もツインタワーのそばにいたそうだな」
「ああ、ちょうど真下だった」
「わたしたちは最上階にいた。お互い生きているのが不思議なほどだ」
「最上階とはまた」
 男たち二人は空の広くなったニューヨークの景色を窓から見遣った。ルーシーは俯いて夫の手に自分の手を重ねていた。
「奇跡だな」
「ほう。奇跡を信じるかね、ジャイロ・ツェペリ。常に現実だけを見据えている君が」
「だから信じてんのさ。ついでに幸運の女神ってやつもな」
「君にはそれがついていたと?」
「あんたの後ろにもついてるらしい」
 ジャイロが笑いかけると、ルーシーも少し頬を緩めた。
「悪いがこれから人と会うことになっている。今度ゆっくり話をしよう。夕食でもどうだ」
「あんたの奢りなら喜んで」
「君もそろそろパートナーを連れて来たまえ。君の女神をな」
 ジャイロはオーナー夫妻を見送りながら、ふうんと鼻から息を吐いた。指がまた唇をなぞっていた。
 あの日、オーナーのスティール夫妻がツインタワーにいたことはニュースにもなっていた。内容は何だったろう。セレブの集まりか? 興味がないので覚えていない。
 コーヒーを求めて歩き出しながらジョニィのことを思い出した。食事に連れ出すのはどうだろうか。最近ジョニィはアパートの外に出ようとしない。同居を始めたばかりの頃あんなに執着していたグラウンド・ゼロからも足が遠のき、最近ではニュースも避けているようだ。心の傷は考えられるものだが、それでもふとあの瓦礫の山を背に立ちジョニィの言った言葉が蘇った。見つけなければならないものがあるとジョニィは言った。あの場所で人々が探しているものなど決まっている。
 指輪の贈り主。
 足が自動販売機の前を素通りした。砂糖に蟻が群がるように人が並んでいた。ジャイロは振り返ったが足を止めず通り過ぎ、混み合った食堂で人に揉まれながら忙しく昼食を摂った。
 胃の中にものを入れれば身体に合わせて心も少しは油を差したように滑らかに動き始める。とにかくジョニィを外に連れ出すのは悪くないだろう。病院のオーナーが招待してくれるのだからそれなりの夕飯を期待していい。美味いものを食えばジョニィの心持ちも少しは変わるだろうし、そうだ、まずレストランに入るための服も揃えなければ。靴を買いに出た時もジョニィは子供のようにはしゃいだ。あの調子で…。
 と、いったいジョニィはどんな服を来て何と名乗るのかと考えた。
 ジョニィがあのような肉体を持っているのは、自分の意志以上の何かが関わっているらしいのはジャイロにも察せられる。その事情をジョニィは話さないし、ジャイロも尋ねない。
 最初に名乗った名。
 エリナ。
 身の証を立てるため名乗った名。
 ジョニィ。
 左手薬指の指輪。ウェディングドレス。ビルの上から降ってきた花嫁。
 二年前に消えた元・天才ジョッキーと同じ名。
「やめだ」
 ジャイロはカップを持ち上げ、ぐいとコーヒーを飲んだ。
 抱え込むつもりはない。同居人はジョニィ・ジョースターと名乗り、ジョニィ・ジョースターとして生きようとしている。そのジョニィとの生活が楽しい。肉体がどうあれ、天から降ってきたのであれ、ジョニィとして生きることを選択した人間が自分の道を歩むなら、ジャイロにはそれで十分だ。最近、その足取りが覚束ないようにも見えるが、口を開けば生意気だし、しかしジャイロのギャグと歌についてくるセンスがある。しかもそれを譜面に起こすこともできる!
 もう数日前に過ぎてしまったがクリスマスプレゼントという名目でもいい。そう思った。椅子は…あれは自分が欲しかったのだ。向かい合い、同じ目線で話すための椅子が。まずは服だ。ジャイロは残ったコーヒーを飲み干した。あいかわらず薄くてぬるい。不味いが、まあ今日はそれでも許してやる。そんな気分だ。

          *

 買ったばかりの帽子で耳元まで隠すと、懐かしい感触にくくっと笑いがこぼれた。ジャイロがニヤニヤ笑いながら脇腹を小突く。ジョニィは笑っていないという表情を返したが、にらめっこにはすぐ負けた。また笑い出すと、おいやめろ、とジャイロが小声で――しかし自分も笑いながら――たしなめ、また脇腹を小突かれる。
「痛い」
 つつき返すと、やめろ、とまたつつかれた。笑い声が溢れて、車内の視線が集まる。二人は素知らぬ顔をして背筋を伸ばしたが、周囲の視線が外れるとまた抑えきれない笑いが込み上げる。堂々巡りだ。
 服を買いに外へ出る。最初は尻込みしたが、結局誘惑には勝てなかった。おさがりだからという不満がある訳ではない。ただ自分の身体がどうあれ、これまで着てきたものがどうあれ、ジョニィは自分の望む服が着たいとずっと望んでいたのだ。
 しかし最初に買ったのは帽子だった。ニットの帽子はあたたかく耳まで覆った。子供の頃から帽子は好きだった。かぶると、今の自分がジョニィ・ジョースターとして生まれた自分の地続きだと感じることができて、ジャイロとふざける表面上の浮つきだけでなく、心の底にも熱が湧き上がっていた。
「ジャイロ、ぼくさ…」
 ぼく、と自分のことを口に出すのがこんなにも馴染む。少し高揚しながら話し出した。
「来年、ちょっと、バイト? とかしてみようかと思うんだよね」
「マジか」
「角のデリ、求人が出てるんだ。ぼく最近、料理も慣れてきたし」
「おいおい、向こうで作るのは売り物だからな。パスタを鍋一杯とかはなしだぜ」
「五月蠅いな。っていうかしつこいな、君も!」
 電車が揺れ、明かりが明滅した。一瞬、周囲が静まり返った。その時だ。
 喉が詰まった。息が出来ない。ジョニィは自分のことに戸惑い、唾を飲み込もうとした。それさえできなかった。
 騒音も、お喋りも、ジャイロの笑い声も一瞬にして消えた。
 いいや。ジョニィは目玉を動かす。ジャイロの口は動いているが何を言っているか分からない。車窓は真っ暗で時々光の筋が走った。薄暗い電灯に点されたここは地下鉄の中で…。振り返ると車窓に青白い顔が映っている。血の気を失い、淡いブルーの瞳をこぼれそうなほど大きく見開いた女の顔。お前は…誰だ。
 エリナ・ブランドー。
 耳元で呼ぶ声が聞こえる。ジョニィは首を戻し、ジャイロを見た。今度のジャイロは笑っていない。唇が動く。肩に手を置かれる。唇が何度も同じ動きをする。大丈夫かと尋ねられているのだ。ジョニィは返事をしたつもりだったが、唇は動いていなかった。
 視線だ。鋭い爪のように食い込む視線がこの身体を捕らえている。硬い爪で両側から掴まれるように。痛い。しかしどこから発せられる視線なのか。ジョニィはきょろきょろと車内を見渡す。隣の席にはジャイロ。その向こうには。ボックス席から覗く幾つもの頭。斜め前に座る老婦人が訝しげにジョニィを見ている。この視線ではない。ジョニィは再び振り向く。ドアの側に何人か立っているのは若い男たちだ。学生か何かだろう。耳にはイヤホンを突っ込み視線を遠くに投げてあたりの何ものも見ようとしない。いや、一人振り向いた。ジョニィを見る。落ち着け。ジョニィは視線を逸らす。自分が見たからだ。自分の視線に反応しただけだ。さっきから痛いほど刺さり、絡め取る視線はそういうものではない。ぶれない。ずっと真っ直ぐ向けられている。表層だけではない。奥まで刺さる。
 内部から湧き上がる奇妙な感覚に、ジョニィは前にのめった。ジャイロの、支えようと伸ばされた腕に縋り、強く目を瞑った。ジャイロはいる。確かに隣にいる。ここは地下鉄の中だ。周りには知らない人間だってたくさんいる。何も怯えることはない。こんな衆目の真ん中で事件など起きるはずがない。ここはビルの七十八階ではない。しかし自分は十七歳のあの日、白昼街のど真ん中で撃たれた!
 痛みは肉体の最奥から湧き起こった。疼く。ジョニィは歯を食いしばる。疼痛は熱を孕みじわじわと苛む。身体の一番奥。あり得る筈のなかった器官。裂かれ穿たれた穴の奥。そこから血が…。
 掌がジョニィの鼻を覆った。驚愕して振り向くとジャイロが手を伸ばしている。掌が血に濡れる。鼻血だ。またジャイロの唇が動く。しかし聞こえない。まだ音から隔てられている。ジャイロ、とジョニィは呼ぼうとする。ジャイロ。唇を動かせ。身体を動かせ。恐怖に屈するな。諦めるな。押し潰されるぞ。瓦礫の下の死体のように。
「……ジャイロ」
「ジョニィ、大丈夫か。ほれ」
 差し出されたハンカチを鼻の下に押しつける。ハンカチはみるみる血の色に染まる。
「下りよう」
 ジャイロの視線がちらりと電光表示を見た。最寄り駅までまだ距離がある。音は次第に蘇る。身体が傾く。騒音はブレーキをかける音だと分かった。ジョニィはジャイロの腕を掴んで立ち上がった。
「下りよう」
 引っ張られるように立ち上がったジャイロもすぐ隣に並んだ。しかし視線は。
 目の前でドアが開く。踏み出す直前、ジョニィはもう一度肩越しに後ろを振り返った。大きく歪んだ唇がひび割れた笑みを浮かべている。
「行こう、ジャイロ」
 次第に酷くなる痛みに視界が霞み、瞼が落ちる。しかし動かし続ける脚を決して止めなかった。階段を上りながら、膝は何度も崩れた。地上に出る頃には一人で立つことができず、ほとんどジャイロに支えられていた。それでも意志だけはあった。あの視線から逃れて地上へ。人々の歩く地上へ。再びこの脚で踏むことのできた、地上へ。
「ジョニィ?」
「平気だ…」
 そう答えながら更に酷くなる疼痛に顔を歪める。鼻血も止まらなかった。ハンカチは濡れて重く湿っていた。
 ジャイロがモバイルを取り出し電話をかける。その間も片腕はしっかりとジョニィの身体を支えていた。
「平気だ。抗生剤を塗れば…」
「抗生剤?」
 ジャイロは聞き返し、いやこっちの話だ、と電話の向こうに言う。その先の記憶はおぼろげで、判然としない。

          *

 夕方を前に空は曇り始め、クリーム色と淡い白色の溶け合った空は次第に灰色に沈み、迎えのピックアップトラックが牧場に着く頃には遠い景色が霞んでいた。雪だ、と横目に見て思った。
 マウンテン・ティムは何も言わなかった。後部座席の気絶してぐったりと重たい身体を運ぶのを何も言わず手伝い、鼻血のこびりついた顔にジャイロが「ジョニィ…」と呼びかけるのにも黙って何も言わず、用意されたベッドを貸して濡れたタオルさえ手渡した。ジャイロはタオルでジョニィの顔を拭いたが、自分の手にこびりついた血を気にする様子は全くなかった。
 いつもならここでコーヒーが入る。沈黙の空気を埋めるにはもってこいだ。しかしジャイロは動かなかった。開いた寝室のドアから見えるベッドの端を気に懸け、ティムを振り返ろうともしなかった。ならばビールの出番だが、ティムもまた冷蔵庫に向かっては動かなかった。
 何を考えているのか見せない瞳が、静かな眼差しを注ぐ。長い髪から覗く耳は清潔だ。医者の、消毒液の匂いと、ティムはもう一つ別の匂いをかぎ取った。テーブルに頬杖をつく背後に忍び寄り耳元で匂いをかぐと、ジャイロの肩がびくりと震えた。無言のまま振り返り睨みつける目は、もう気づいていた。だからマウンテン・ティムは期待通り、最初に企んだことを成し遂げた。
 テーブルの上に俯せに押さえつけられ、ジャイロは屈辱的な格好に抗った。
「手酷くされたいんだろう」
 囁き、雑言の応酬があるかと待ったが、聞こえたのは舌打ちだけだった。
「坊やのことが気になるらしいな」
 ジョニィ・ジョースター、と囁く。
「安心しろ、ぐっすり眠っている。今は。お前が声を上げなけりゃ、もう少しはな」
 しかしティムはジョニィ・ジョースターの安眠に積極的に貢献しようというのではなかった。テーブルが揺れ、強く揺すられるたびにジャイロは悪態と噛み殺しきれない小さな呻き声を漏らした。それを聞いてこそ高揚する。ジャイロ・ツェペリに手酷くしたいというヤツは多い。その一人もまたジャイロのすぐ側にいて、こうやって楽しんでいる。
「てめえ…おぼえてろッ」
 ジャイロが唸った。
「今度はお前がヤるか? あの坊やを抱けない代わりにオレに手酷くしてやりたいか」
「黙れ…!」
 ジャイロの唇で塞ぐことで、マウンテン・ティムはそのリクエストに応えた。
「クソッ。てめえ、マウンテン・ティム、覚えてろよ。こんな…」
「気になるんだろう?」
 寝室のドアは開いたままだ。ジャイロが自分の手を噛んで声を堪えるのをティムは見下ろしてニヤリと笑った。
「理由を聞きたいか? 少し妬けたのさ。お前と、ジョニィ・ジョースターに」
「言ってろ。てめえだって本当はロリコンじゃねえか」
「ルーシーに捧げているのは愛だ。オレは彼女が微笑んでくれればいい。それより」
 最中に彼女の名前を持ち出すのはルール違反だ。ティムはテーブルい押さえつけられた当人の意に反して素直な反応を示しているペニスを握りしめた。腕の下から潰れた悲鳴が上がった。

          *

 名前を呼ぶ声が聞こえる。眠りの底からそれを聞く。目覚めの声をかけてくれたのは、いつも…。兄の面影はふわりと浮かんですぐ消えた。
「ジャイロ」
 まどろみの中で自分の呟いた名前に、目が覚めた。見知らぬベッドの上だった。ジョニィは重たい身体を横たえたまま視線だけを彷徨わせあたりを窺った。木の天井。木の壁。窓の外は薄暗い。壁には牛の頭蓋骨が飾られている。マウンテン・ティムの家…彼の部屋だ。気を失ってしまう前、ジャイロが電話をした相手はティムだったのだ。ジョニィはアパートの部屋に帰りたかったが、なるほど助けを呼ぶならこの男、とジャイロは信頼しているのか。
 ベッドの寝心地は悪くない。毛布の重みとあたたかさが再びジョニィを眠りに誘おうとした。しかし。
 鼻が利く。それは嗅覚というより、肌に触れる空気の温度、耳朶に触れる湿り気、それら感じる全てだ。どれも馴染みがあった。かすかに聞こえる息も、呻きも、テーブルの軋む音もだ。ジョニィは黙ってそれに耳をすましていた。自分には何を言う資格も、筋合いもない。ジャイロにはジャイロの人間関係があり、後から入って来た自分の方が異物なのだ。いたわれよ、と思わないこともないが、起きた時に枕元にいてほしいだなんて、そんな子供ではあるまいし。
 悲鳴が聞こえた。聞き覚えがあった。自分がかつて発したのと同じ。苦痛と快楽に境界のなかったビルの七十八階で喘がされた、あの声。
 ぞわりと鳥肌が立つ。過去を思い出したからではなかった。寧ろそれは形骸的に浮かんではすぐ消え、目に見えるのは白いシーツ、耳を打つのは過去の自分の悲鳴ではなく抑えられたジャイロの声だった。全て、今の、現実のものだった。ジョニィは目を瞑った。自分は二人の関係に気づいている。とっくに気づいていたし、そのことにジャイロもとっくに勘づいていた。だからここは目を瞑り、耳を塞いで、二人の関係の邪魔はせず眠ったふりを続けるのがよい。分かっている。それしかできない。否、それしかしてはならない。なのに、だ。
 地下鉄で感じた疼きが再び蘇った。脚の間、本来持ち得なかった亀裂の奥で熱は生まれていた。ジョニィは息を吐き、地下鉄で自分の耳を聾したものの正体を知った。あれは内側に生まれた熱だったのだ。欲情という名の熱だ。この二年間、セックスは強いられるものだった。欲情など感じたことがない。あったのは苦痛と、慣れだけだ。どれだけ喘いでも、それは苦痛を別のものにすり替えようとする防御本能に他ならなかった。本物の快楽など感じたことがない。まして自分からしたいと思ったことなど、ない。
 毛布を引き上げ、埋もれるようにして目を瞑る。だが。
「ジャイロ…」
 聞こえる。
 ジョニィはそっと、この行為は、伸びてくる手は自分のものではないと偽るかのように恐る恐る手を伸ばした。ジーンズの上から触れる脚の間。蒸れている。息を吐き、ジーンズを緩めるとその中に指先を伸ばした。女のもののように作られた亀裂。だがこの肉体は女のものではない。亀裂は濡れることはない。しかし下着の上からなぞれば鳥肌は突き抜けるような感触に変わった。
 開いたドアの向こうから重なる息づかいが聞こえる。ジョニィは枕に顔を押しつけ、指先に、己の肉体に意識を集中させる。聞こえる声。撫でる指。名前を呼ぶことを、心が、肉体の奥底から欲した。ジャイロ、と。




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2014.1.20