サクロサンクトサクリファイス 16
鼻歌と、ペンでカップの縁を叩く音。同じフレーズの繰り返しはジャイロの十八番で、ジョニィは繰り返されるメロディを口の中で追いかけなぞりながらタブレットの画面を指で叩く。部屋も随分あたたまってきた。悪い気分ではない。 窓から見下ろした人影をジャイロだと確信すれば彼はドアを開ける前から随分上機嫌で、帰宅するなり窓を開けさせジョニィの悲鳴も抗議もものともせず換気をさせた。 「ふざけるなジャイロ、ぼくを凍え死にさせるつもりか!」 「たまには換気しろっつったろ。昼に食ったのはカレーか? 匂うぜ」 「寒くて死ぬ!」 「死ぬかよ。死にかけてもオレが蘇生させてやる。安心して凍えろ」 その時も冷たい風がびゅんびゅん吹き抜ける中に鼻歌は聞こえていて、ジョニィはいつの間にか覚えてしまっていたのだ。 部屋が暖まるまで時間がかかったから機嫌を損ねたジョニィのためにジャイロは夕食にワインまでつけた。それなのにいつの間にかまたコーヒーに落ち着いている。ジャイロはテーブルで専門書を片手に書き物をしながら、しかし半分以上ペンを遊ばせてカップを叩いていた。ジョニィはソファの上で膝を組み、ジャイロのタブレットに指先を落とす。液晶の五線譜の上、ジョニィの指の描いたとおり音符が生まれる。鼻歌が一周したところで、ジョニィはもう一度最初からメロディをなぞった。悪くないか、いやサビの入り直前、少し音が違うようだ。書き直そうとしていると、 「それ貸せ」 ジャイロが専門書の上に目を落としたまま手を伸ばした。 「今いいところなんだ」 「オレもだ。貸せ。っつうか返せ」 「君の歌を譜面に起こしてるんだぞ」 文句を言いつつもジョニィは立ち上がり、ジャイロの手にタブレットを返した。 「おう、サンキュ」 「飽きないね、君も」 テーブルには椅子が一脚しかない。ジョニィは向かい側からジャイロの手元を覗き込み、専門用語とややグロいほどの写真の掲載されたページに眉を上げた。 「帰ってまで仕事のことを考えるなんて苦痛じゃない?」 「そーゆー風に考えたこたねーな」 「真面目な仕事人間には見えないんだけどな」 「言うだろ。真面目と深刻は違うぜ?」 ジャイロは検索で目的の資料に辿り着くと専門書の上に書き込みをし、それから顔を上げてジョニィを見た。 「やれることをやれる力があってそれを成し遂げられる人間は恵まれてる。やるべきこととやれることが一致してるヤツはもっとな」 「やりたいことじゃなくて?」 「どっちでもいい。オレは自分の仕事に納得と誇りを持てている。人生楽しいぜ」 「そうだろうね」 ジョニィはジャイロのカップを取り上げて半分残ったコーヒーを飲み干した。 「おかわりは自分で」 「オレが淹れたんだ」 「シャワー先に使うよ」 ジョニィが濡れた髪からほかほかと湯気を立ち昇らせて出てくる頃、ジャイロはタブレットで書かれた譜面をプリントアウトしているところだった。 「このへん、ちょっと惜しいな。このサビの手前」 「いいところで君が邪魔したんだ」 「そりゃ悪かった」 ジョニィはソファに脱ぎ捨てたスウェットを取り上げ袖を通す。ジャイロはジョニィが半分下着姿でうろうろしても――「裸じゃあない。ルールは破ってないよ」――気にする様子はない。それはもうお互い様だった。ジャイロの場合は下着さえつけていない。 二人はハミングしながら譜面を見下ろし、五線の上に新たに書き加える。見ると、走り書きで歌詞もついていた。 「え? これクリスマスソングだったのか」 「ったりめーだろ。街中イルミネーションが凄いぜ」 「へえ、もうそんな季節だっけ」 「引き籠もってばっかだからだ」 気づけば、驚くことだが、もう一ヶ月近くアパートから外に出ていない。出てもそれはせいぜい屋上で、完全に建物の中だけで生活している。勿論、買い物は財布を持っているジャイロがするものだから不便はない。そうだ、建物から出なくても生きていけるのだ。引き籠もりだろうが監禁だろうが…。 「ジョニィ?」 「えっ!」 思わず大きな声で返してしまい、逆にジャイロが驚いた。急な沈黙の中で二人はまじまじとお互いの顔を見つめた。 「クリスマス…」 呟くと、ジャイロが何気なく尋ねた。 「ジョニィ、おまえ、家族に会いたいとは思わないか」 突然の言葉だった。この部屋に招かれ、飛び出して再び帰った時、二人は同居に際しての様々なルールを定めたが、その中に文言として定められていなくても互いに触れないものがあった。家族の話。生い立ちの話。ジャイロはジョニィが何者であるか、左手の指輪にも、病院に置いてきたウェディングドレスについても一言も触れなかった。だからジョニィもまた弾かれることのないチェロ、壁にかけられた女性の肖像画について尋ねなかったのだ。 「クリスマスだぜ」 「だから何? ぼくに家族はいない」 淡いブルーの瞳がキッとジャイロを睨みつける。 「君の口からお為ごかしを聞くなんて失望だな。出て行ってほしいなら出て行ってほしいって言えばいいのに」 「おいジョニィ、そういう意味じゃない」 「クリスマスは彼氏とよろしくやる予定? ティムをこの部屋に呼ぶのか。そりゃあぼくは邪魔だな。おちおちセックスもできやしない」 勝手に持ち上がる口の端に嗤いさえ浮かべて吐き捨てるが、逆にジャイロは平静を保ったままジョニィの正面に立つ。 「ジョニィ、わざとオレを怒らせようとしても無駄だ」 「君の望み通り出て行っていい。何なら今からだって出て行くさ」 「ジョニィ」 本当に戸口に向かって歩き出したジョニィの腕をジャイロが掴んだ。振り解こうとする前に、ジョニィはジャイロの掌にまたハッとしてしまって気負いを挫かれる。 「そーゆー言い方すんな。オレはお前を追い出さない。約束したろ」 「したぜ」 「嘘だ」 しかし子供じみた癇癪はおさまっていた。ジャイロはジョニィを椅子に座らせると、肩に引っかかったタオルで濡れたままの髪を拭った。 「そういう意味じゃあない。クリスマスのことを考えただけだ」 「君は家族と過ごすのか?」 「故郷にいた頃はそうだった。今は、まあ仕事が一番忙しい時期だ。どいつもこいつもこの時期になると馬鹿やりやがる」 「…ご愁傷様」 「オレなんか独り身だからな。今年のクリスマスは多分夜勤だ。クリスマスに…」 「クリスマスだろうと何だろうと関係ないよ。君が夜仕事ならぼくは君のベッドを借りて寝るだけ。それに君…本当に仕事だけのクリスマスか?」 「どういう意味だ」 「病院ってベッドたくさんあるし」 「馬鹿。満床だ」 ジョニィの顔に笑いらしきものが戻り、頭からタオルが取り払われた。 「オレは今からシャワー浴びるけどよ。オレが出てきた時もちゃんといろよ」 「どうかな。とうとう出て行くかも」 「今度こそ風邪引いても助けてやんねーかんな」 シャワーの水音にのせて、ジャイロのクリスマスソングが聞こえてきた。ジョニィは頬杖をついてプリントアウトされた譜面をなぞり、ジャイロのペンで書き込みを入れた。鼻歌を重ねる。サビの入り、直前の音は。 「ふん」 書き込まれた音符をこつこつとペンの尻で叩き、あとは繰り返しのフレーズの心地良さにまかせる。 クリスマス。あれから三ヶ月。テレビが近々雪になると天気予報を伝える。 翌日、ジャイロが椅子を担いで帰って来た時ジョニィは敢えてそっけないリアクションしかとらなかったが、胸の奥は針で貫かれたかのように痛みを感じていた。ジャイロは、いい加減不便だしな、とテーブルの向かいに椅子を置いた。 「…クリスマスプレゼントのつもり?」 「はえーよ。リボンもついてねーだろ」 初めて向かい合って夕飯を摂った。妙に静かだった。ジャイロがテレビをつけた。最近は自粛傾向にあった事件当日や崩落現場の映像が久しぶりに流れていた。周囲の建物は再建が始まったが、グラウンド・ゼロは瓦礫の撤去さえ進んでいない。 「ねえ、ジャイロ」 ジョニィはフォークを置き、目の前のジャイロを見つめた。 「ぼくを助けてくれたのは君なんだろう?」 「…全部食えよ」 冷めちまうだろ、とジャイロはフォークの柄でジョニィの皿を指す。 「誤魔化すのはよしてくれ。本当のことが知りたい」 「時間はある」 ジャイロは言った。 「座ってゆっくり話す時間がな」 テーブルの上の食器が片付けられ、二人の間にはワインが置かれた。確かにクリスマスはまだ先だ。乾杯することはない。アルコールの力を借りようという気があったにしろ、なかったにしろ、それが二人の舌を滑らかにしたのは確かなことだった。ぼくはあのビルにいたんだ、とジョニィは話し始めた。 「ずっとあのビルにいた。これからもずっといるんじゃないかと思っていた。…諦めかけていた。ちょうどその時…本当にその時だ、飛行機が突っ込んできたのは」 ジャイロ、と俯き加減にジョニィは呼んだ。 「君はぼくの身体を…視た?」 「視た」 「隅々まで?」 ジョニィは膝を見下ろし、掌で擦った。それまでぼくの脚はほとんど動かなかったんだよ。二年間、ほとんど動かなかった。だけどあの日、脚が動いた。ぼくは無我夢中で逃げた。瓦礫の山を越えて、非常階段を駆け下りて、大穴の空いたビルの七十八階まで…。 「青空が見えた」 ぽつりと呟いてジョニィは黙り込んだ。手が左手の指輪をいじっていた。何とか外そうと指先には力が込められていたが、銀の指輪は薬指に食い込んだように外れなかった。 「オレも見たぜ」 ジャイロの声は真面目な風だが意外に明るかった。ジョニィは顔を上げた。 「ウェディングドレスを着ているのもはっきり見えた」 青空に吹いた口笛はチーズの歌。あれ以来一度も歌ったことがなかった。ジャイロはそれを歌って聞かせた。今を逃したらもう絶対に歌わないと言うとジョニィは顔をしかめて「じゃあ、聞く」と言ったのだ。 最後は二人でコーラスするまでになっていた。ワイングラスを洗う間、交代でシャワーを浴びる間、サビのメロディが延々と繰り返され、歯を磨く間も洗面台の前に二人並んで口の周りを泡だらけにしもがもがと不明瞭な発音になりながら同じフレーズを繰り返した。 「癖になる」 「だろ?」 おやすみを言った後、ジョニィはソファに横になったがまだ起きていた。瞼は一向に閉じようとしなかった。そっと起き出し、ジョニィはテーブルに寄った。 ジャイロの買ってきた椅子。 これは自分のための椅子だ。 居候の部屋。借り物の寝床。その中でこの椅子だけは確かに自分のために用意されていた。ジョニィはそこに腰掛け、しばらくテーブルに突っ伏した。向かいの席に向かって手を伸ばした。天板はひんやりしていて、ジョニィの手を取る者はなかった。しかし。 瞼を閉じると青空が広がった。背後からもうもうと立ち昇る煙。遠い地上。脚が、崩れたビルの縁を蹴る。風の音。すぐそばに誰かがいた。誰が? 気を失った。しかしこの肉体は覚えている。ウェディングドレス姿のこの身体を抱き締めた腕があった。心臓の鼓動が重なり、生きた肉体が、同じく生きた肉体を感じた。天上の地獄を飛び出して、遥か下の世界の終わりのような地上で力強い腕に助けられ、生き延びた。 ジョニィは熱い息を吐き、小さく呻いた。涙が溢れるままにまかせ、しばらく泣いた。ひとしきり泣き、闇に慣れた目で向かいの椅子をぼんやり眺めた。 「ジャイロ」 ありがとうと囁き、ジョニィはソファに戻った。今度はぐっすりと眠った。 扉を開けた瞬間にクラッカーの乾いた音が響き、細かな紙吹雪と三色程度の細長い紙テープがひらひらと頭上に降りかかった。クラッカーの本来持つ明るい役割とは裏腹に破裂音はあっけなく肌寒い部屋の静寂に掻き消え、テーブルからは頬杖をついたジョニィがこちらを見ていた。視線が合う。ジョニィの頭上には紙で作った赤い三角帽子がのっている。トイレットペーパーをくしゃくしゃに丸めた白い塊がその頂点についていた。 「メリークリスマス」 役者の棒読みよりもひどい棒読みでジョニィが言った。 「おいジョニィ、そりゃサンタか?」 「他の何に見える? 七人の小人?」 「ブラウニーかもな」 どちらにしろプレゼントを期待したいところだが、テーブルの上は空っぽだったしキッチンにも火の気配はない。 「ジョニィ、オレは今日早く帰れることになったって言ったよな」 「シュガーから聞いたよ」 「わざわざシュガーに電話して伝えさせたんだ」 「わざわざ電話がかかってきたって笑ってたよ」 「フツーよお、作るだろ。クリスマスだぜ? それなりの晩飯をよお」 「クリスマスだから君の作った美味い料理が食べたいんじゃないか」 「昼の間何してた」 「伝言を届けにきたシュガーがそのまま遊んでいったんだ」 これを作っていったよ、とジョニィは帽子を指さす。 「ケーキも七面鳥もなしか」 「なしだね」 「おまえはそれでいいのかよ」 するとジョニィは興味なさげに、いいよ、と小さく答えた。 「いつもの君の夕飯で充分さ」 ジャイロはコートをかけるとジョニィの頭から帽子を取り上げ自分の頭の上に載せた。 「似合うだろ」 「超イカしてる」 ニョホッと笑ってキッチンに向かった。今日のためにと買っておいた冷凍のチキンは数日前にジョニィが食べてしまっていた。あり合わせの夕飯だけではいかにも寂しいからそこにパンケーキを焼いてアイスクリームを載せる。即席にしたって上出来だろう。男の二人暮らしなのだし…、と振り向くとジョニィが椅子の下で素足を組んでいるのが見えた。 見間違いかと思ってもう一度見たが、椅子の下に覗いているのは裸のふくらはぎと足の裏だ。 「…ジョニィ?」 「見れば解ける誤解だけど先に言っとくよ。君が期待してるようなエロい衣装じゃないから」 「証拠を見せろ」 「何期待してんのさ」 紙製の三角帽子とクラッカーのインパクトに負けていたのだ。赤い服を着ている。サンタコスチュームなんか病院でも街角でもさんざん見た。今更驚くようなものはなかった。赤いバニーガールの衣装とも今日一日で三人お目にかかったのだ。うち一人は看護婦だ。驚くようなことはないはずだ。椅子の背から見え隠れする衣装は確かにサンタクロースの赤だった。ジョニィは椅子を引き横を向いた。 「ぼくがスカートを穿いているとでも思ったんだろう。残念でした。穿くもんか」 たしかにスカートは穿いていなかったが、かわりにシュガーマウンテンはズボンの支給もしなかったらしい。それが彼女の天然の正確であれ作為的なものであれ、今度会ったその時には薔薇の花束ととびきりのプレゼントをあげなければなかった。 太腿から爪先までその脚を惜しげもなく晒したジョニィは椅子の背とテーブルに掴まり、ぴんと伸ばした爪先を天井に向ける。 「男の脚だ」 「…そうだな」 「残念でした」 残念でもない。が、少しいたたまれなくもなった。火を消してキッチンを飛び出し、また風邪引いたらどうすんだ、とわざと大声で言いながらクローゼットを漁った。いつ買ったのか覚えていないアロハ柄のショートパンツや真っ白なタイツが出てきて何が出てきても妙なものだからいっそ自分のズボンを脱いで穿かせようかとさえ思った。ベルトを緩めかけたところで正気に戻った。 「何か穿け」 寝室から出てくると、ジョニィがニヤニヤ笑って 「驚いた?」 と尋ねた。 拳で軽く額を押した。ジョニィはくつくつと笑い、そのまま身体を屈めて自分の脚を抱いた。 「ぼくの脚」 ジャイロはコンロの前で再び火を点けることをせず、ジョニィの言葉が続くのを待った。 「今の見た? ジャイロ?」 「ああ、見た」 「あんなに高く上がったよ、ぼくの脚」 「そうだな」 「ぼくは……」 急に顔を上げ、ジョニィは確信を持って言った。 「やっぱりカッコイイと思う」 「そうだな。鼻水地獄に落ちる前にさっさと何か穿けよ」 「今のはツッコミを入れるところじゃないのか?」 「笑いどころがあったか?」 「そこはセンスが問われるのさ」 ジョニィは立ち上がり、ソファにかけたジーンズの手前まで行ってまたキッチンの入口まで戻って来た。何かを言うのかと思ったが、ジャイロは振り向かなかった。再びひたひたとひそかな足音がして、小さな電子音、エアコンの温度を上げた音。テーブルの上に料理が並ぶ時、ジョニィはジーンズとスリッパを履いていた。少し残念だった。 赤いミニスカートはクマちゃんに穿かされていて、耳にはリボンも飾られていた。後日、プレゼントを持って会いに行ったジャイロにシュガーは言った。 「ぬいぐるみにスカートを穿かせたのはジョニィよ」 底なしの美しい瞳がジャイロを捉え、謎めいた笑みを浮かべた。 「リボンは私の仕業です」 後々スカートをクローゼットに仕舞いながら、ジャイロはクリスマスの夜、爪先までぴんと伸びたジョニィの脚を思い出した。 「でもよぉ」 クローゼットの奥に押し込みながら独りごとを言う。 「ありゃあストリッパーのポーズだよなあ?」 リビングから、何か言った?とジョニィの声がした。 |