サクロサンクトサクリファイス 14.5
【準備に時間のかかるジョニィ】「気を楽にしろよ。おまえだって買い物くらい行ったことあるだろ」 「当たり前だろ」 下着姿のジョニィはベッドの上に並べられた服を見下ろし、真剣な表情を崩さない。胸が半分露わになっているのにも全く頓着していない。 「じゃあ大して気負うこたねーだろーが」 「だって、ぼくの靴を買いに行くんだぞ!」 ジャイロは大袈裟に笑い、ジョニィもつられて笑い出した。 「…ああ、寸足らずのスニーカーともおさらばってわけだ。喜べ」 「だから…だからじゃないか。ちゃんとした格好で行きたいよ」 「ちゃんとした格好ってお前なあ」 ジャイロはベッドだけでなく床にまで散らかされた服を見下ろして溜息をついた。 「それ、全部オレのだかんな」 「知ってる」 「だからそのアイラブNYのTシャツにしとけ」 「これさあ、ジャイロ、ニューヨークに着いた初日に買ったろ」 「うっせえ」 「図星だな。みんなそうさ、お上りさん」 「よーしジョニィ、その口二秒以内に閉じろ。靴買いに連れてかねえかんな」 アイラブNYは遠慮したが、結局Tシャツにお古の上着という無難な格好に落ち着いた。浴室の鏡に映った自分の姿を見つめ、ジョニィは今までの騒乱から一転、急に黙り込んでじっと鏡の中の自分を睨んだ。 「ジャイロ」 「行くぞ」 「ぼくは何に見える?」 ジャイロは遠目にジョニィを見遣り、鼻で笑った。 「ガキだ」 ジョニィも薄く唇を歪める笑いを浮かべ、浴室の電気を消した。靴音を立ててジャイロを追いかける。この靴もジャイロから借りたものだ。お古のブーツ。 「ったく、準備にどんだけかけたよ」 「彼女にもそんな風に言うの? 嫌われるよ」 「おまえにゃ遠慮しねーよ」 「その方が気が楽だ」 「おまえも遠慮ってものを知らねーよな」 「するだけ損だろ」 ジャイロを追い越し、ジョニィは玄関のドアを開けた。 「欲しいものは、黙って待っていたって降ってこないさ」 後ろからずいと手が伸びてドアを押さえた。ジョニィは廊下に踏み出し、首を捻って後ろを振り返る。ジャイロと目が合う。 「まあな」 ジャイロは短く答え、肩を竦めた。 「手に入るものならそうする」 だけどなあ今日の靴はボーナスのお蔭だからな、掃除も皿洗いも居候の義務だからな、とジャイロは繰り返しジョニィは笑いながら気のない返事をかえした。 【ジョニィが初めてジャイロの歌にコーラスをつけた日】うっかり浴室を出たところで出くわして胸を見られた時だってこんなに恥ずかしいとは思わなかったし触れるのを恐ろしいとは思わなかった。触ったら終わる。何かが壊れる。今まで構築してきたそこそこに居心地のいい空間が粉微塵に砕けて時間があの時に戻ってしまう。今はないビルの七十八階に引き戻されてしまう。 それらの思いは結局ジョニィに悪魔のような形相をさせ、それは凶悪と言えばそうだがどこか嗤ってもいるようで、つまり永遠に何事も無駄であるということへの諦念による歪みだった。故にジョニィの、綺麗だと自負する顔は化粧の剥げたピエロのように滑稽でバランスを欠きジョニィ本人も鏡でそれを見れば叩き割りたくなるような顔だったのだが、相変わらずジャイロの腕は真っ直ぐ差し出されたままだった。 「ふざけるのはよしてくれ」 ジョニィは何とか言葉を吐き出した。唇は片方だけ吊り上がって、いよいよ嗤っているように見えた。 「君が約束させたんだぜ。この部屋に居続けたいなら妙なことはしないって。性的な接触があったらすぐさま下のゴミ捨て場に放るって」 「誰がエロいこと考えてるっつったよ。股間見ろ、馬鹿」 「見えてるよ。馬鹿はどっちさ」 「いいからこっち来い」 「来てどうするんだよ」 「ハグすっから」 「君、健忘症じゃないのか。医者のくせに。明日は患者で病院に行きなよ」 「いいから来いって」 「嫌だ」 「ジョニィ」 ジャイロはソファから腰を浮かすとジョニィの手首を掴んだ。 すぐに振り解くべきだったのだ。しかしジョニィはその掌の熱に驚いて、またその熱と強く掴んでくる力を瞬間的に心地良く感じた自分に驚いて、振り解くことができなかったのだ。そしてジャイロと目が合った。見透かされそうな、と言うよりは奥底を見せない目だった。淡い色の表面にこれまでの自分が全部反射してジャイロの投げかける視線に乗って全て刺さるような気がした。見ていられないと思ったが目を逸らすのは癪で、ジャイロの瞳に映るジョニィはジョニィ自身を刺し続ける。お前に抱擁を受ける資格などない、エリナ。ジョニィは自分の姿に重なるディエゴを見る。ニコラスを見る。 それは一瞬ほどの出来事だったがジョニィは自分がもうずっとナイフで穴だらけになり血を流し続けているような気がした。これからジャイロの腕が自分を抱き締める。全部粉々になる。 だが何も起こらなかった。ジョニィの身体が砕ける音も関係の壊れる音も聞こえなかった。耳にかすかに触れるのは衣擦れの音だけで、ジャイロが今もジョニィを抱いた腕に力を加え続けていて彼のシャツの擦れるかすかな音がするのだった。熱い――とジョニィは思った。凄く熱い掌だ。どうしてこんな熱を持っているんだろう。腕は息が詰まりそうなほど抱き締めてくるのにどうして苦しくないんだろう。それどころか自分はこれを心地良いと思っている。どうしてだ。 ジャイロの顔は肩に押しつけられていて、彼が自分を抱き締めながらゆっくり細く息を吐き続けているのが分かった。彼はいつまでも息を吐いていた。止まらないのが不思議なほどだった。肺の中の空気を抱き締める力で全部出してしまうつもりだろうか。ジョニィの肺はもう空っぽだ。頭がぼんやりしてくる。そして身体全体がふわふわと温まり始める。抱き締められたところから生まれた微熱が全身を包む。 気がつくとジャイロの腕は緩んでいて、ジョニィはいつの間にこんな穏やかな腕の中にいたのかその脱力に気づかなかった。ただ自分の身体は浴室から出たばかりのように温もっていて、そして何の不安も思い出せないほど心地良い。このままじっとしていたいと思った。 「ジョニィ」 呼ぶ声に目が覚めた。 どれだけの時間の抱擁だったのか。ジョニィは無防備なまま、え、と無防備な声を漏らし、それに対して構っていないらしいジャイロはジョニィの身体を引き離した。だが手はまだ腕に触れていた。 「分かったか?」 「何が」 「オレは嬉しかったんだぜ」 「…何が?」 「お前がコーラスしてくれたのがだよ」 ジャイロの目は芯からジョニィを見据えた。 「たまらなく嬉しかったんだ」 ジョニィは頭の中でその言葉を繰り返し、ようやくいつもの生意気な笑みを浮かべた。 「ぼく以外についてくる人がいなかっただなんて、レベルが高すぎたんだな」 「だろ? そう思うだろ? ジョニィ、やっぱお前才能あるぜ。お前なら分かってくれると思っていた!」 「おだてるつもりならコーヒー淹れてよ。歌うのなんて久しぶりだから喉渇いた」 「勿論だ。座って待ってろ。極上のを淹れてやる」 「ドロッドロのをね」 「ドロッドロのをだ」 ジャイロは鼻歌を歌いながらキッチンに消え、ジョニィはその鼻歌にも自然のコーラスが浮かぶ自分を笑い、ソファに腰を下ろした。そこはジャイロの体温でぬくもっていたが、不快ではなかった。 【譜面に起こすジョニィ】疲れた、とペンを投げ出すと、体力ねえどころの話じゃねーだろ、とジャイロが呆れる。 「一ページ書いただけじゃねーか」 「十分だろ。君のイカした曲が一つ譜面になったんだ」 「おいおいジョニィ、なめてもらっちゃ困るぜ。オレのストックはなあ…」 「星の数ほどあるんだろ」 「それは言い過ぎだろ」 「じゃ、抱いた女の数より多い」 「下品なヤツめ」 「はいはいどうも。君もやってみればいいんだ。耳コピした曲を譜面に起こすなんて、ぼくはプロって訳じゃないんだぜ? 頭は使うし、それに手が疲れた」 「オレなんか一晩で二十枚のレポート書かされたことがあんだぞ」 「パソコンだろ?」 「手書きだ。万年筆だ。じゃねーと親父は受けつけなかったんだ」 「スパルタ教育の賜って訳だ。君と君の父上に乾杯。尊敬するよ。でもぼくはもう二年くらいペンなんか持ったことはなかったんだ」 そこで一瞬挟まれた間にしまったと思ったが言ってしまったものは取り返しがつかないし、ジョニィも今更怯えはしない。会話が切れた風に俯くと、視界にジャイロの手が入った。 「オレの手」 視線だけを上げる。掌をこちらに向けられている。 「何の形か分かるか?」 「手だよ。見たまんまだ」 「よく見ろ。綺麗な形をしている、だろ?」 自分も顔には自信があるが、よく恥ずかしげもなく美しいとか言えるよな、とジョニィは思った。そして自分の手と見比べたが、よく分からない。清潔な手だとは思う。 「表層だが真髄だ。この形をよく見ろ。安定していると思わないか」 掌の形が安定している? ジョニィは真面目に見る気もなかったが、そうやって漠然と眺めることによって輪郭がある種のイメージを引き出した。優勝パーティーで次々に手渡された名刺。誰かがベッドに残していった煙草の箱。デートで無理に連れて行かれた美術館で見た絵画の断片的な印象。木の梢。牧場に咲く花。馬の走る姿。誰かの瞳。 答えが言葉として浮上しようとした時ジャイロが頷いて、ここまで思い出しかけた解答の単語は消える。 「オタクの手も、なーんもしてきませんでしたみたいに見えるが、そうじゃない」 「……君が何を知ってるんだよ」 「オレは知らなくてもお前の身体が教えるさ」 「そうやって女の子を口説いてるんだろ」 ニョホッと笑ってジャイロは立ち上がり、それには答えなかった。 |