サクロサンクトサクリファイス 14




 耳元に風が鳴る。
 ジョニィは瞼を開き、自分はこんなところにいたのかと安堵の息をついた。ケンタッキーの何もない空。どこまでも広がる青々とした草原。馬に乗っている。手を伸ばすと自分の身体の一部のように感じられる馬の、汗の浮いた首、脈、確かな鼓動、呼吸の音。
 風を巻いて、ジョニィと馬は走る。風の音が高く引き絞られていく。渦を巻く風の中で木の葉が舞う。くるくると天へ昇っていく。
 そしてある瞬間、全てが真っ白になる。馬の呼吸も自分の呼吸も一つになり、風に乗り、雲の上を走っているかのような驚くほど静かで、そしてどこまでも穏やかに広がる野を走る。
 どこまでも。永遠に。
 ここは渦巻く風の中心だ。
 そこで目が覚める。ジョニィはソファに横たわったまま、自分の胸に手を置く。胸はゆっくりと上下し、心臓の音は規則正しい。こんな夢は見たことがなかった、と天井を眺めながら思った。これまでいつも目覚めは急だった。この現実の中に目覚めることを心が拒否するかのような目覚めは、肉体の急激な覚醒に心臓を落っことしてしまったかのような痛みをジョニィに与えた。そして目覚めるなり、いつも不機嫌だった。今、ジョニィはゆっくりとソファから身体を起こし、朝の空気を吸い込んだ。ガラス窓を押し上げると排ガスにまみれる前のニューヨークの朝の空気が流れ込み、肌寒さにくしゃみ。風が街路に落ちた枯葉を舞い上げる。ジョニィはちょっと洟をすすり上げ、目を閉じて耳に残る風の音を思い出した。この音だろうか。風の音が近いから、こんな夢を見るのだろうか。
 この夢ばかりを見る。同じ夢ばかり見るのが不思議なのではない。ジョニィは同じ夢しか見なかった。デリンジャーで撃たれた夢。そして自分の目の前に現れた全ての人から撃たれる夢。ニコラスに心臓を打たれるまで終わらない悪夢を。
 最近、見ない。
 早く目覚めたはずだが、ジャイロは更に早かった。まだ夜も明けきっていないというのに既に朝食をすませていた。ジョニィがキッチンを覗くともう半ば支度を終え、コーヒーを飲んでいた。
「ジャイロ」
「よう、ジョニィ」
「おはよう。…早いね。呼び出し?」
 今日は休みだったはずだ。
 いいや、とジャイロはカップに残ったコーヒーを飲み干した。ジョニィはその隣に並び、自分の分のコーヒーをもらった。トーストにのせる分の目玉焼きは既にフライパンの上だ。缶詰の上に鉄球がのっている。これだけ見ればいつもの朝のように見えるが。
 何となくテーブルにつかずその場で食べていると、ジャイロから珍しい問いかけがあった。
「ジョニィ、お前は今日どうするんだ」
 ジャイロは決して無口な男ではない。二人で一緒にいると他愛もない馬鹿な会話が絶えない。だがその雑多なコミュニケーションの中でジャイロが必要以上に踏み込むことは一度もなかった。二人は常に距離を取り合ってきた。それが同居のルールだった。たとえ「今日は何をする?」といった簡単な内容でも、ジャイロはジョニィの中に踏み込もうとしなかったのだ。
「いつもどおり」
 ジョニィは用心を面に出さぬようにしながら、平然と短く答えた。
 踵をくしゃくしゃに踏みつぶした靴を履いて、グラウンド・ゼロへ向かう。
「洗濯は」
「干してから出かけるよ。君こそ、どこかに行くのか」
 まあちょっとな、とジャイロは背を向けシンクでカップを洗った。
「知り合いんとこによ」
「どんな用事?」
 何故詮索するような言葉が出たのか。ジャイロが踏み込んだ一歩の反動、だけではない。ジョニィはもう気づいている。ジャイロが応えないので、それって友達?と尋ねた。
「友達じゃあねーな」
「彼女?」
 ジャイロはひょいと肩をすくめる。
「じゃあセフレ?」
 笑いながら尋ねるとジャイロが振り返って空中で叩くふりをした。
 ジョニィは笑うのをやめなかった。
「いいよ、行っておいでよ」
「馬だよ、馬」
 ジャイロが答えた。
「馬に乗りに行くんだ」
 すっと冷たい風が通ったかのように静かになった。
「へえ」
 ジョニィは詰めた息を吐き出した。
「いいね」
 ジャイロは背を向けたままだったので、洗濯するよ、と踵を返した。手にはトーストを握ったままで、危うくそれを洗濯機に突っ込むところだった。大きく口を開けて一口で頬張り、味わいもせず乱暴に飲み込む。パンくずに汚れた手がシャツや下着をぽいぽいと洗濯機に放り込み、全自動のスイッチを押す。
 ジャイロが馬に乗る。
 心がざわざわと音を立てた。羨んでいるのだろうか。苛立ち、妬み、自分が失ったものへの憧れ。それもあるだろうとジョニィは認める。だが、それ以上に。
 ジョニィは洗濯機を背に瞼を閉じ、今朝の夢を思い出した。馬上の景色を。青空を。草原を。
 馬に乗っているのはジャイロなのか。
 見たい。見てみたい。
「ジョニィ」
 呼ばれて瞼を開いた。
「帰りはお前が早いだろうからな。鍵は預けるぜ」
「ああ。うん」
 ばたんと玄関のドアが閉じて、ジョニィはしばらく余韻の中にじっとしていたが、ハッと気づいて開けっ放しだった窓に寄った。ジャイロの車は通りを走り去るところだった。郊外を目指しているのだろう。病院とは逆方向に走ってゆく。信号で一度止まり、姿が消える。
 道路には朝日が射していた。照り返しの眩しさにジョニィはまたくしゃみをし、窓を閉めた。
 屋上に洗濯物を干し、いつもならこの時間にシュガーマウンテンと会うことが多いのだが、とちょっと待ってみたが彼女は現れなかった。空は晴れ太陽の姿が見えたが、何となく妙な予感がした。
 ビルの削り取られたニューヨークの空。だがその中でもひときわ高く聳え立っていた二つのビルがない。あまり景色に違和感は感じられないのだけれど。ジョニィは外から眺めるのではなく、ビルの中にいたのだ。
「脚を動かせ」
 独り言を呟き、立ち上がった。
 ジョニィは歩いてグラウンド・ゼロを目指す。相変わらず地下鉄に乗る金はない。働けばいいんだろうけど、とショーウィンドーに映った自分の姿を見た。古くてちょっとサイズの大きいセーター。ぴちぴちのジーンズ。ここ最近でさらにぼろぼろに汚れたスニーカー。羞恥の感情が生まれる前に目を逸らし、更に大股で歩いた。仕事、だなんて。まるでまっとうに生きる人間みたいなことを。
 グランド・ゼロは相変わらず生きた人間の世界ではない。煤けたコンクリートの破片が山となり、圧倒的な重量と沈黙でもって横たわっている。ジョニィはその外縁に細々と伸ばされた希望の手を、数えきれないほどの張り紙の一つ一つに目を通した。しかし時々、顔を上げて空を見た。冷たい風の吹き抜ける、ビルの谷間にぽっかりと開いた空。ジャイロは今頃、この空の下、馬を駆っているのだ。
 耳の中で風が渦巻く。舞い上がった埃を吸い込んで、ジョニィはまたくしゃみをした。
 背中に食い込む嫌な感じにジョニィは顔を上げて空を見た。多分、降り出すのだ。やっぱりこれは雨の予兆だった。しかしそれだけだろうか。
 嫌な予感。
 ゆっくりと後ろを振り返った。自分と同じく誰かを探す人々。家族、恋人、友人、皆誰かを探している。その目は時に疲れ果て時に希望に縋り…。いいや違うそんな視線ではない。
 背中に、食い込む。冷たい指のような。感情のない爪のような。爬虫類の牙。ねっとりとした視線。
 見つけた。と思った瞬間、腰の傷痕が疼いた。背筋が凍りついた。相手がその姿を見せたのは一瞬だった。その人影はすぐに人混みにまぎれこんだ。しかし確かに見覚えのある姿。ジョニィは忘れていなかった。むしろ恐怖のように記憶していた。
 黒いレインコートの男が、いた。自分を見ていた。
 見つけたのではない、見つかったのだ!
 次の瞬間には黒い影を見たのと反対方向に走り出していた。疲れも痛みも感じなかった。限界を訴えた膝が崩れるまでジョニィはニューヨークの街を無我夢中で走り続けた。あの男がいた。病院で自分の正体を知りたがった男。あいつらの目的はエリナだ。間違いない。捕まれば…その時は自分の知りたかった真実に辿り着けるのでは? ディエゴ・ブランドーが本当に死んだのか分かるのではないだろうか。エリナを欲しがっているのはディエゴだ。ディエゴの他、エリナを欲しがる人間はこの世にいない。いや、ジョニィという存在だってディエゴの他、誰が欲しがろうとするのだろう。
 膝が折れ、ジョニィは建物の壁に縋りついた。街角はいつもの賑わいで、目の前のデリからは美味そうな匂いが漂ってくる。カラフルなビニールの庇、こちらに向けて開いたガラスのドアには今日の安売りの手書きちらしが貼られていた。ヌードルの値引き、午後二時まで。
 これが現実の光景だとジョニィは言い聞かせようとした。背中は? まだじくじく痛む。しかし振り返っても黒いレインコートの影はない。本当に? 視界が揺れて、ぼやける。アパートはすぐそこだ。ここはジャイロが自分で晩飯を作る気がない時に時々立ち寄って帰ってくるデリだ。もう少し。あの角を曲がればアパートが見える。
 ジョニィはゆっくりと歩き出した。自分では走っているつもりだったが、いつの間に靴をなくしたのか、裸足の脚はもう半ば引き摺られ冷たい歩道を踏んだ。角を曲がった所で最初の雨が頬に触れた。ジョニィは斜めに視線を上げた。ほら、降ってきた。アパートの屋上を思い出す。今朝の洗濯。あの時から妙な予感がしていた。
「脚を動かせ…」
 アパートについてもジョニィは螺旋階段を屋上まで上がり、びしょ濡れの洗濯物を抱えて部屋に下りた。しかしそれも玄関を入ったところでぶちまけられる。濡れたシャツを踏んで泥だらけの足跡を残し、ジョニィはキッチンに向かった。熱いコーヒーを一杯。作り置きがなかっただろうか。ジャイロのコーヒーが飲みたい。あれを飲めば落ち着く。そしたらもう一度洗濯機を回して、共同ランドリーで乾燥を。ジャイロも文句は言わないだろう。ほら、ぼくは役に立つだろ。だからもうちょっとこの部屋にいてもいいか。コーヒーが飲み足りない。テーブルに椅子が一つしかないって不便だよな。肖像画はあれ、君のお母さん? それとも妹とか兄弟? 昔の恋人? 君は昔の恋人の写真を後生大事に持っているタイプには見えないよ。チェロか。クラシックなら、ぼくもコンサートに招待されたことがあるさ。君は知らないだろうけど、ぼくは天才ジョッキーって呼ばれたんだ。きっと君より速く馬を走らせられる。ジャイロ。君は馬に乗るのか。君はどんな風に走るんだ。きっとその姿は。
「ジャイロ…」
 キッチン手前の床の上でジョニィは朦朧と呟いた。
 格好良いだろうな。こんなぼくよりもずっと。
 目覚めているのか、それとも気を失っている自分をドッペルゲンガーのようにもう一人の自分が見ているかのような不思議な記憶だった。ドアを開けたジャイロは足を止め、驚きの声も飲み込んだ。廊下に放り出された洗濯物を跨いで近づくと跪き、肩を掴んで「ジョニィ…!」と呼ぶ。抑えられたが切羽詰まった声に、それを聞くジョニィは逆に大丈夫だと笑ってやりたくなった。が、ジャイロの顔は強張り、唇は噛み締められていた。ジョニィはその顔を見ていられなくて、目を閉じた。
 目覚めるたび、傍らにはジャイロがいた。ジョニィは背中に感じていた自分を引きずり込むような暗闇の気配への怯えが、傍らにいる男の存在と、その眼差しに薄れるのを感じた。何度目の目覚めだろう、部屋は暗く遠いところに小さな明かりがぽつんと灯るだけだった。しかしジョニィにもその場所がどこか分かった。ジャイロの寝室、ジャイロのベッドの上だ。
 ジョニィの目が意志を持って自分を見たので、ジャイロの視線をそれに応え、手が伸ばされた。掌が額に触れた。それはひんやりとしている。そして、額に触れるものが掌であると想像していた感触からすると驚くほど柔らかい。
「…寝ろ」
「熱」
 嗄れた声でジョニィは尋ねた。
「まだ下がってねえ」
「どうして…」
「だから風邪引くっつったろうが」
 自分のせいだろうか。そうかもしれないが仕方がない。寝る場所はソファだ。着ている服はもらいものばかり。ぼくのせいじゃない、と声に出さず唇を尖らせ、そして内心自分のせいだと思った。否、自分の選択の結果だ、だろう。
 非難と自虐の入り混じった目をジャイロは伏せさせた。そのまま眠った。
 それからも何度も起きたが、やはりジャイロはベッドの傍らに座っていた。時々は本を読んでいた。コーヒーで身体をあたためていた。しかしジョニィはその目が自分を見つめるのを感じていた。ジャイロはちゃんと自分を見ている。見守られている。
 安堵感からか眠りは引きずり込まれるようなものではなく、軽く漂うような心地に変わる。夢を見たような気がした。風に白いものが舞っている。雪だろうか。いいや、花だ。舞っているのは無数の花びら。身体が軽くなる。全ての苦痛から解放される。一瞬舞い上がった心が落ち着いてゆく。波の立たぬ湖面のように、静まりかえる。
 本当に目を覚ました。確かな覚醒だった。身体もすぐに起き上がれるのではないかと思うほどで、肉体以上に心が軽い。ジャイロの姿はなかった。ジョニィは彼の姿を探そうとして、シーツから飛び出した掌に握ったものに気づいた。ジャイロの鉄球。いつもテーブルの上などに何気なく置かれているあれだ。手の中に握り込むそれはひんやりとしていて、硬い。ジョニィはそれを持ち上げ、額に触れさせた。
「ジョニィ」
 声がした。戸口に、トレーを持ったジャイロが立っていた。
「気分はどうだ」
 ジョニィが、いいよ、と返事をする間にジャイロはあくびをする。
 ジャイロはトレーをベッドの上に置くと当たり前のようにジョニィの手から鉄球を取り上げ額に触れた。
「熱も下がったな」
「体温計で測らなくていいの? 医者が」
 すると口に体温計を突っ込まれる。ひやりとする、消毒液の味がした。ジョニィは歯や舌で体温計を揺らし水銀の目盛りがじんわり上昇するのを眺めた。華氏九十八度四分。平熱よりまだほんの少し高い。
「ちょい起きろ。起きられるか?」
 ジャイロがスポーツドリンクをコップに注いで差し出す。ジョニィは起き上がりそれを飲んだ。水分が身体に染み渡る。
「あのさ…」
 ジョニィは自分が着ているのがジャイロのシャツであることを確認しながら言った。
「迷惑かけたね」
「迷惑かけねー人間なんざいねえよ。他人と関わる限りな」
「厄介なのと関わったろ」
 自虐的な呟きはジャイロの眼差しに、最初からなかったかのように消えた。
「…ありがとう」
 空のコップを返す。
「おかわり」
「おう、しっかり水分補給しろ」
 ジャイロは今日は仕事だということで、昼前には出掛けると言った。それが当初のシフトか、それとも自分が倒れたせいか、ジョニィは尋ねようとしてやめた。
「ありがとう」
 またこの言葉を繰り返している。また背中を見ている。思わず泣きそうになった自分に驚き、ジョニィは固く目を閉じて眠ったふりをした。
 事実、その日はほとんど目覚めることなく眠っていた。始終、穏やかだった。
 夜半過ぎに帰宅したジャイロが寝室からもう一枚毛布を取り出して出て行こうとするのを、暗闇の中でジョニィは呼び止めた。
「どこで寝るの」
「ソファに決まってんだろ」
「でも…君のベッドはここだ」
「病人を追い出せるかよ。オレは医者だぜ」
「悪いね」
「ここはオレの部屋だ。オレはオレの寝たい場所で寝るさ」
「…今夜はベッドの気分じゃないってこと」
「そういうことだ」
 闇の中で笑い声だけ交わし、笑い止むとドアの薄明かりの中にジャイロのシルエットが見えた。
「おやすみ」
「おやすみ…、ジャイロ」
 ジャイロ。今、名を呼んだ男のベッドだ。枕元にはいつの間にかあの鉄球があった。ジョニィはそれを手の中に抱き、朝までの眠りについた。きっと翌朝にはこの脚でベッドから起きられるはずだった。



2013.12.28