ロミオの夢
ヴァルキリーの蹄の音だ。その音を聞いているだけでカンザスの野を駆け抜けたような軽やかで自由な気分が蘇る。どこを走っているのか。雨音は聞こえない。あの日の記憶ではない。ジャイロは瞼を開く。すると眩しい光が瞳を刺した。夜明けの、黄金の光。野もまたあまねく金色に輝き、風に吹かれて揺れる様は黄金の海原のようにも見えた。 心地よい風が吹いている。強い向かい風、それは馬の走りを助ける風。逆風にこそ帆を張れ、ジャイロ・ツェペリ。潮風が教える。熱い偏西風が教える。風をうけてもっと速く、更に先へ突き抜けろ。 「向かい風だぜ、ジョニィ」 思わずこぼれた名にふと隣を見ると誰もいない。ジャイロは朝焼けの野に佇んでいる。夜明けの風が気持ちよく髪を乱す。帽子はどこへやったのか。 彼方を走る馬の影が見えた。我が愛馬、ヴァルキリー。騎乗しているのは誰だ。見覚えのある帽子、あのつばの広い帽子はオレのものだ。だが手綱を握るのはオレより少し小柄な…見覚えのある、あの姿は。鐙にしっかり足をかけている。手綱から片手を離し、大きく掲げている。オレを呼んでいるのか。 「ジョニィ…?」 風が大きく吹き、なびく髪が一瞬視界を覆う。次に見えたのはヴァルキリーに乗ったジョニィの姿だった。自分のものであるはずの、あのつばの広い帽子をかぶっている。いつ貸してやったかな…。 ジョニィは黄金の海原をゆく帆船のように、素晴らしいスピードでヴァルキリーと駆ける。その顔は少し空を見上げて、輝かしい日の光をいっぱいに浴び、自信に満ち溢れていた。 「ジャイロ」 風の中にジョニィは囁く。 「ぼくはいつか、君に追いつくよ」 その瞳は朝焼けの空を映し、その中にジャイロを見た。 いつか、なんてたるいこと言ってんなよ、ジョニィ。すぐにでも追いついて来い。オレは速いからな、背中を見失うぜ…。 そう笑いながらジャイロは、しかしふと頬を緩める。 いや、いいんだ、ジョニィ。おまえはおまえの道を走り抜けてから来い。 ジョニィが高く掲げた手を振る。ヴァルキリーはジョニィを乗せたまま野の果てを目指す。その向こうの景色は見覚えのある山並み。あれは故郷の景色だ。懐かしき生まれ故郷の半島。いつの間にオレたちはここまでたどり着いたのか。大陸を越え、大西洋を越え…。 「君のところまで行くよ」 ジョニィは言う。 「必ず行くから」 * 目が覚めた瞬間、夢を見ていた、と思ったが夢の光景は砂漠の風紋のようにあっという間に消えてしまった。それがどんな光景だったのか…夢の中の自分にどんな感情を喚起させたのかも分からない。夢を見たという事実さえ既に消えかけている。一呼吸ごとに胸を満たす夜明けの冷たい空気が景色を現実に塗り替えてゆく。ミシシッピー川を越え五大湖が近づくにつれ空気はいよいよ冷たく、本格的な冬の香りがした。雪が降り出すようになるのも、そう遠くないだろう。 焚き火跡の向こう、丸まったジョニィの背中が見えた。毛布に包まりまだ眠っている。声をかけるとすぐに目覚めたらしく、もぞもぞと肩が動いた。朝食を摂る間に夢を見たことも忘れた。ただし、気分のいい一日の始まりだった。 * 空気は熱く湿って海原は穏やかだ。朝の凪の中、ジョニィは甲板に佇んでいる。 「ヴァルキリーが早く走りたがっている」 こちらを見上げて言う。 朝焼けの海は言葉を忘れてしまうほど美しい色に染められていた。水平線から淡い鳥の羽のようなピンクが夜の名残を残す紫へグラデーションがかる。それは空を映した色でもあり、海の底から湧きだすような色でもあった。遠くに小さく見える点は島影だろうか。 「今日は回帰線を越えるからね。もうすぐ日本につく」 当たり前のように言う。こちらも驚くことはない。ノリスケ・ヒガシカタの故郷だなと思い、地図を頭の中に描く。大陸も東の端、小さな島国。その先は広い広い太平洋。 「この船を降りたら正式に結婚を申し込むよ」 俯き、何故か申し訳なさそうに呟くので覗き込んでやると、ジョニィは照れてもいるのだった。ああ、船の上で見た、あのじいさんの娘か。 ジョニィは手の中で杖を弄び、ふっと溜息をついた。 「日本でもそれらしいことはするつもりだけど、式はアメリカで挙げようと思う。今度こそ…帰るよ、あの家に帰ろうと思う。本当に遠回りばっかりさ」 でも遠回りしながら少しずつ君を追い抜いてしまう。 ジョニィの呟きには一抹の寂しさと感傷がまじっていた。しかし湿っぽくはなく、どちらかと言うと朝焼けの空のように明るくてやさしかった。 「愛を信じるか、ジャイロ」 真剣な眼差しが白熱する光の溶け出した水平線に注がれた。ジョニィは光に向かって両手を伸ばす。水平線を昇って顔を出した生まれたての朝日を抱くように。そして気づかされる。ジョニィはもう自分の両足で立っている。杖に頼らず、その両足はしっかりと甲板を踏みしめている。 思わず笑みがこぼれた。祝福の笑みだ。溢れ出して止まらない。この朝日のようにだ。 その腕に抱かれるように抱きしめるとジョニィの顔がくしゃりと歪む。 「ぼくは信じてるんだ。ジャイロ、君を信じたように、それを信じている」 過去形で言うな、と言っても無理な話だが、今や執着のない身にも一抹の寂しさは吹くらしい。こつんと額を叩くと、眩しげに目を細めてジョニィが笑った。 * 曙光が山脈の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。コーヒーと朝食、サラダ代わりのハーブ。いい気持ちで目覚めた。ほんの僅かな時間目を瞑っただけのような、短く感じられる眠りだった。しかし身体は軽く心も…頭の中は目から入り込む光でぴかぴかに磨かれて、この胸の中にも吹き抜ける風以外塵一つないような気持ちだった。肉体が取り込む全てのものが真新しく新鮮に思えた。その中に自分の受け継ぐものが見えた。ツェペリ一族。父の教え。自分が救わなければならない少年のこと。それらが一つに縒り合わさり…。 ジャイロは息を吐く。白い息を吐き出した先に見える、草原、轍。 勝利の道はどこに見える。 ヴァルキリーの手綱を取り、二歩、三歩と草原に踏み出した。 「ジョニィ」 スロー・ダンサーに跨がったジョニィを振り返る。 「こっちだ」 轍の示すのとは別の道を指さす。 ジョニィはやれやれといった風に肩を竦めながらも笑っている。 「本当に?」 「多分な」 「信じるよ、ジャイロ」 賛同するように風が鳴った。この風の吹いてくる方向へ走ろう。向かい風の中を。 マントがなびく。自分の長い髪も。帽子から覗くジョニィの金色の髪も。馬のたてがみが揺れる。尾が振られ、一呼吸、走り出す。 並んで走る。時々、ジョニィが追い抜く。 まだまだだ。まだ追い抜かせるものか。 ジャイロはスピードを上げる。完全に昇った朝日が眩しく野を照らし出す。過去も未来も全ての景色を貫くような黄金の野を、二騎はゆく。
2013.2.10
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