サクロサンクトサクリファイス 13




「なんだこりゃあ」
「パスタ」
 悪びれず答えるジョニィをジャイロはホラー映画でモンスターに追いかけられる主人公さながらの顔で不気味なものでも見るかのように振り返った。
「パスタだと…」
「それ以外の何に見えるの?」
 パスタ以外のものにしか見えないとその目は語っていた。
 元は小麦から作られ塩と水で捏ねられて確かに彼の祖国では日常的に食される愛すべき食べ物、パスタ。ジャイロは買い置いたそれを戸棚に入れていたし、昼食は――居候としての節度を保つという約束で――好きなものを食べてもいいと言ったし夕飯の準備をしておいてくれるならいい居候の鑑だろうとも言った。
 努力の痕跡はあった。それはジャイロも認めるところだった。しかし鍋から溢れかえる白くてぶよぶよした紐状のものを愛する主食パスタと呼ぶことはどうしてもできなかった。戸棚を開ける。何束も入っていたはずのパスタが一束もなかった。暗くなった外を見て、腕時計を見た。ちょっと仕事の遅くなった夜だった。ジョニィは拗ねすぎて氷のように冷たくなった無表情を外に向けていた。
「…だいたいキッチンに時計がないんだ」
 八つ当たりの怒りを押し殺してジョニィは言った。
「九分茹でろって書いてあったけど、いちいちリビングに時計を見に行く間に九分なんてとっくに過ぎるよ」
「茹で時間くらい分かるだろ…」
「はあ? イタリア人じゃあるまいし!」
 だがそう言い返した直後にジョニィが静かになってしまったのは、また密かに兄のことを思い出したからだ。ニコラスは身体の中に時計を持っている。馬丁はよくそう言って褒めていた。自分にもその時計があれば…と現役の時も心の底で自分にさえ聞こえないように呟いていた。きっとあらゆる未来が変わっただろう。並んで走ることができたならば、兄は一人で死ぬことはなかったかもしれない。父親の視線もきっと違った。ディエゴにだってレースで勝てたはずだ。あの二年間は自分が出来損ないだから与えられた罰なのだ…。
 本当に俯いてしまったジョニィがしおらしく反省していると思ったのか、ジャイロは声を和らげてジョニィと呼んだ。
「明日はこれ使え」
 外した腕時計を差し出される。
「……いい」
「遠慮なんてらしくねーな」
「だってパスタはもうないんだ」
 全部使ってしまったんだ、とジョニィは小さな声で言い更に小さな声でごめんと謝った。
 するとジャイロは大きな声で笑う。
「安心しろ。新しいパスタなら買ってきたばかりだぜ」
 このように同居生活は始まりから波乱含みだったもののジャイロは、ジョニィが不味い料理を作ろうが皿を割ろうが掃除機を乱暴に使いすぎて絨毯の一部をボロボロにしようが追い出すことはなかった。勿論この男、結構な直情家で疲れて帰宅した上に惨状を見せられれば怒りもしたし呆れも隠さなかったが、最終的には楽しそうに笑った。というかジョニィが笑われたのだが、ジョニィはムッとしながらもそれを甘受した。惨劇の原因は全て自分にあるのに違いないのだし。ジャイロはその日の内はからかったり思い出し笑いをしてジョニィを拗ねさせるのだが、翌日になればもう何も言わなかった。
 毎日新しい朝が来る。それはジョニィにとって新鮮なことだった。
 繰り返しの毎日ではない。昨日と違う今日が来る。ジョニィはそれまでろくに働いてこなかった手で料理を覚え、面倒だった片付けや掃除を自分でやるようになった。それは同居の際決められたルールの一部ではあるが、ジョニィの中で少しずつ生きた生活か息づき始めるのだった。
 ルールは幾つか存在した。ジョニィは眠りが浅く断続的で、ジャイロが朝から仕事に出掛ける際もうっかりすると眠っていることがあった。夜は眠って、朝起きること。
「ジャイロ。君、ぼくを小児科の患者か何かと勘違いしてないか?」
「ガキじゃねえか」
 十九だという反論は笑い飛ばされた。
 料理を習い、食べられるものを作る。掃除の仕方に厳密な取り決めはなかったけれども、ジャイロはなるべく自分の寝室には入らせなかったし、他にも触れてほしくないものが動くとそのたびに怒って、ジョニィは少しずつジャイロの領分というものを覚えた。リビングの隅のチェロは、同居が決まった日からケースに入れられた。
 大事なルールがあった。ジャイロはそれを不文律にせず、きちんと言葉に出した。
「性的な接触はなしだ」
 ジョニィは片手を上げ、掌を相手に見せた。
「性的な接触はなし」
「今度やったら夜中だろうが容赦なく叩き出す」
「しないよ」
 ジョニィは自嘲の苦い笑みを浮かべながら言った。
「君は男だし」
 ふん、とジャイロが眉を上げた。
「そうだな。だけどオレは『これは失礼したジョニィ・ジョースター』とは言わねーからな。お前は前科持ちだ」
「心得てるよ」
 だがしかしジャイロの側はどうなのだろうか。「ジョニィ」と呼ぶからにはジョニィがそうありたいように男として扱うつもりなのだろう。しかしジョニィの外見は必ずしもそうとは見えない。部屋の中を薄着でうろつくのであれば尚更だ。
 こういうことがあった。共用の屋上に干していた洗濯物を、雨が降り出したので慌てて取り込んだことがあった。結局ジョニィも濡れてしまい、止まらないくしゃみと寒気に、ジャイロはまだ帰宅していないが浴室を借りてシャワーを浴びた。
 今日も帰りは遅いのだろうと勝手に納得し油断していた。素裸のまま浴室のドアを開けると帰宅したばかりのジャイロと鉢合わせた。
 肌は湯でほんのり上気していた。ジョニィは肌が白かったので血色が肌を染めるのがよく分かった。
 恥ずかしがりはしなかった。元々男なのだ。胸など隠しても仕方ない。だが今は相応の膨らみがある。セックスの最中も乱暴に扱われるだけで大して感じたことなどなかったし肉体の変化は徐々に進んだからジョニィは今でもこの胸が女の胸であるという自覚が抜けることがあった。だから目の前でジャイロがばったりという擬音さえオマケでつけていいタイミングで佇んでいるのに怯まなかったし、慌てて手で隠そうともしなかった。
 視線は遠慮なく上から下まで見た。そして生き物の習性としても丸いものというのは目がいくらしく、ジャイロの視線は胸の上で止まり、それから思い出したようにジョニィの顔を見た。
 ジャイロの顔も照れてはいなかった。逆のそれは少し悔しい気もした。最初の晩の失敗があったのに、今でもちょっとした意地のようなものがある。
「はい」
 ジョニィは手を出した。
「慰安料」
「…間違えてるぜジョニィ。慰謝料って言うところじゃねーか?」
「この胸を見て君の心が慰められて安らかになったろ。その料金」
「誰が…!」
「しっかり見たじゃないか」
「ああ見たぜ?」
 ジャイロはジョニィの身体すれすれに浴室に身体を半分押し込み、手を伸ばしてバスタオルを取った。それを頭から被せられた。
「…今頃照れてんの?」
「言ったろ。おまえの身体はもう『視た』んだ」
 バスタオルから頭を出すと、ジャイロがいいか、と鼻先に指をつきつけた。
「裸でうろうろ歩き回るのも禁止だ」
「君だってしてるじゃないか」
「ここはオレの部屋だぞ。おまえは居候だ」
 ジョニィがくしゃみをすると、ほら、と呆れた声が降った。
「風邪を引かれても困るんだよ」
 思えばこの時もジャイロはジョニィの裸を見て動揺しなかったのだ。医者だから裸を見るのには慣れているのか、それとも別の理由があるのか。それに何度か使われたことのある『視た』とはどういう意味だろう…。しかし深く詮索するのもルール違反だった。ジョニィは肖像画の女性が誰なのかもいまだ知らない。
「ジャイロ・ツェペリは謎の男よ」
 そう言ったのはアパートの管理人一家の娘、シュガー・マウンテンだ。
 同居人の存在を隠しておけるはずもない、とは思っていたがジャイロが挨拶にと言い出す前にシュガーは朝食前の部屋の呼び鈴を押していた。
「二人分の朝食を作っているようね、ジャイロ・ツェペリ」
 そしてにっこり笑い、自分の分のサンドイッチとお茶のポットを入れたバスケットをジョニィに持たせ白い杖をほとんど使わず真っ直ぐテーブルまで歩くと椅子の上のクマちゃんを丁寧に取り上げ、膝の上に乗せた。これが初対面だった。
 ジャイロは、例のビル倒壊で寝る場所に困った友人をしばらく置くことにしたのだと説明した。病院を出て九月二十五日の話が出るのは初めてだった。意図的に避けてきたのだろうか。ジャイロも、ジョニィも。
 シュガーはその説明には頷いたが、友人?と聞き返した。
「随分いい匂いのするお友達だけど…」
 盲目のシュガー・マウンテンはジョニィの外見を知らないのに、そうだと判じたのだ。
「いろいろと事情があってな」
 実に大人の誤魔化しの定型句だったが。
「そうでしょうとも」
 シュガーは少女の外見にそぐわぬ鷹揚な返しをする。
 結局、その日からシュガー・マウンテンと一家には何かと世話になった。何はなくとも盗んだ一張羅しかなかったジョニィにとっては衣服の問題の解決は大きかった。これからニューヨークは冬に入るのだ。

 青いセーターはシュガーの母親のお古で、曰く「私もあなたみたいにお尻一つ揺らすだけで数多の男を誘惑できたころ」着ていたものらしかった。頼まれた下着を一枚一枚テーブルの上に並べながらシュガーは言った。
「身に纏うものが真実となることもあるわ」
 葡萄のように大きな瞳はほとんど光を捉えていないはずなのに、手は正確な位置関係でそれを並べ、四枚、と指先で数える。
「私は生まれた時、シュガー・マウンテンという名前ではなかった。名前なんかない命だった。でも私はシュガーと呼ばれて育ち、どうして両親がその名をつけたのかを教えられたの。そして私はシュガー・マウンテンになったのよ」
「難しい話が好きなんだな」
「人生が簡単なものであった試しがないわ」
 さあその下着を脱いで、とシュガーは一枚を取り上げる。
「今?」
「今よ」
「後で穿くよ」
「後では駄目。今でなくては駄目。古い男物の下着なんか穿かせてはおれないの」
「その科白は」
 ジョニィは見えないシュガーの瞳を静かに睨んだ。
「挑戦されている気分だ」
「ジャイロはあなたのそういう気概を買っているようです」
 少女は正面からではなくさらりと交わして愛想笑いも浮かべず至って自然に、はい、と女物の下着を差し出した。地味なものでいいと言ったのはジョニィだった。リクエストどおりの品だ。レースはおろか、柄のプリントさえない。それはシュガーや母親の趣味傾向ではなく、確かに要望に沿ったものが選ばれたのだ。シュガーの下着はヒョウ柄だとジョニィは知っている。屋上の物干しでも見た。短いスカートから覗いたのも見た。
 下着を履き替える間もシュガーの目はそれを追っていて、本当は見えてるんじゃないか?とジョニィは既に投げかけたことのある質問をした。するとシュガーはその日初めて微笑んだ。
「見える、ということがどういうことなのか。私が神にこの目を捧げて得た光は何だと思う? ジョニィ」
「だから難しい話は苦手だよ」
 スカートだけは絶対に断った。お古のジーンズは腰回りが広く、ずるずるとずり落ちた。
「ベルトをすればいいわ」
「どれだけダサいことになるか想像してくれ」
 お礼に午後いっぱいシュガーの相手をした。お茶にお菓子にごっこ遊びだ。女子高生のように他愛もないことをぺちゃくちゃと喋った。
「降り出す前に帰るわね」
 と、シュガーは立ち上がり、果たして彼女の消えた後すぐにざんと雨音が屋根を打った。
 一人の部屋の心許なさは、自分の帰る場所を持たないせいだと思う。来客の気配は侘びしさを際立たせた。カップを流しに運び、洗っておかなければと思うものの妙な憂鬱がジョニィを捉える。
 久しぶりの、女物の下着。
 何か読んでから次にかかろう、とシュガーの訪ねてくるまで読んでいた雑誌を取りソファに寝転んだ。タブロイド紙は少しずつ九月以前の調子を取り戻していた。焼き増しのUFO陰謀説など馬鹿らしい記事を笑い飛ばして、そしたら立ち上がろう。まだジャイロが帰ってくるまで時間がある。夕方は暗くなるのが早くなった…。
 雨のせいで早く訪れた薄暗がりの中で、ジョニィはそっと足の間に手を伸ばした。布の上から触れる。ない。そして、ある。もう随分セックスをしていない。二年間毎日していたのが、ぱったりと。それは嬉しいことであるはずなのに、ジョニィの心の裏側には薄ら寒い不安があった。このまま何も入れるものがなければ、作られた膣は閉じるだろうか。もともとなかった穴だ。傷口なら癒着する。これは…どうなのだろう。医師による説明は一度もなかった。手術の後は常に何かが入れられていた。スティックだ。細い形から、最後はアレそっくりの形のものまで。ディエゴは喜んで自分の形を模したものをジョニィに入れさせた。
 いつの間にか手は垂れ、雑誌は床に落ちていた。いつの間にかこんなことを考えている。もう片手を持ち上げ、伸びをした。時計の針は思ったより進んでいたが、ジャイロは帰ってこなかった。カップ、と思い出す。後でもいいだろう多分ジャイロも口うるさくは言うまいと根拠なく考えた。本当はそんなことはない。ジャイロはジョニィがあまり自堕落にしていると怒る。特に洗わなかったカップの底の汚れは好きではない。
「後で」
 口に出し、目を瞑った。少しのんびりするだけだ。ほんの少し。
 意識は完全に眠りに落ちてはいなかった。雨音の膜の下で、女物の下着を考えていた。考える視界の端に――目は瞑っているのに――ピンクのレースのひらひらしたものが映った。あれは嫌だったんだよ、とジョニィは思い出す。レースが痒くて。夢か記憶か分明ではない世界で、ジョニィは何人か太腿や足の付け根を掻く自分を見た。血が流れる。抗生剤の匂い。軟膏を塗らなければ。血が止まらなくなる。何度見ても、血の気が引く。太腿を伝う、血。
「ジョニィ!」
 大声で呼ばれ、身体と魂がブレを起こすほど驚いた。
「なんつー格好してんだ。おい、こりゃなんだよ、下着か? シュガーが持ってきたやつか? 片付けろ!」
 ソファからはみ出した足を下から蹴り上げられる。
「ジャイロ…!」
「あるじゃねーかよジーパン。穿けよ」
 とぶかぶかのジーンズを投げられる。これはサイズが、と言い返す前にジャイロの姿はキッチンに消え、またジョニィ!と大声で呼ばれた。洗い物をしていないせいだ。
 ジョニィはおさがりのジーンズを抱き、しばらくむすっとしていた。カップを洗う水音が止み、再びジャイロが顔を出す。
「まだ穿いてねーのか」
「ウェストが余るんだ」
「ベルト貸してやる」
「あのなあジャイロ、想像してみろ」
 ジョニィはジーンズを突き出す。ジャイロはそれをろくに見もせずベルトベルトと歩き回り見つけたものを差し出した。
「穿け」
「やだ」
「いいから穿け。風邪引いてもしらねーぞてめえ」
 最後は夕食をたてに脅され渋々穿いたのだが、ぶかぶかのウェストをベルトで締めた姿に「ダセェ」と笑った。
「ジャイロ!」
「やべえ、ジョニィ。写メ撮らせろ」
「ぼくはこの仕打ちを絶対に許さないからな!」
 ジャイロはその夜、寝る前まで笑っていた。もしかしたら寝室でも笑っているのかもしれなかった。ジョニィはそれを聞かないですむようにクッションに埋もれて寝た。



2013.12.28