サクロサンクトサクリファイス 12.5




「どういうことだ、これは」
 黒いレインコートを羽織った不気味な男がそれまでの低姿勢な態度から一転、怒りの暴発をぎりぎりで留めているのだと敢えて知らしめる低い声で尋ねるのを病室の患者たちは頼りないカーテンの防御の内側で聞いた。空っぽのベッドの前に佇む男は一週間前から何度もこの病室を訪ねていた。刑事だと名乗っているが病室の誰一人とてそれを信じていなかった。それは今この詰問を受けている看護婦もそうだし、ベッドから消えたエリナという女もそうだったろうと彼らは思った。
「言ったとおりよ刑事さん」
 看護婦が毅然として答えた。
「ここにいた患者さんは退院。夕方にはもう帰っちゃったわ」
「どこへ?」
「家じゃないの。知らないわよ。いいえ、患者さんのプライバシーに関わる事柄はお答えできません」
「では質問を変えよう。退院を指示したのはドクター・ツェペリか?」
「先生が主治医だったことは確かだけど」
「ツェペリはどこにいる」
 やや軽侮を含んだ言い方に看護婦がかちんときたのが、カーテン越しにも伝わる。聞き耳を立てていた者の内には看護婦とドクター・ジャイロ・ツェペリの間柄がかなり親しいと知る者もいた。だから彼女が怒り出して何もかも喋ってしまい黒いレインコートの男の思うつぼになるのではとひやひやした空気が流れたが、日々戦場のような現場で文字通り戦い続ける看護婦は激情を呑み込み、私は知らないけど、とそっけない返事をした。
「スイませェん…、あなたが担当している患者の主治医がどこにいるか、そんなことも知らないとは私、到底思えません…」
「こっちだって忙しいのよ。これから患者さんのお尻の穴に体温計を突っ込んで検温しなきゃならないの。分かる?」
 沈黙が下り、看護婦が代車のトレイをいじる音だけカシャカシャと聞こえた。一人の患者のカーテンに看護婦の影が映った時、小さな溜息が聞こえた。
「スイませェん…お仕事の邪魔をして」
 足音は雨だれが落ちるようにひどくゆっくりしていた。カーテンの中からいっせいに安堵の息が漏れようとした瞬間「ちなみに…」と男が言った。
「好奇心からお尋ねします。直腸体温をはかるのは…男性ですか?…それとも女性?」
「あなたと、同じ、男の、ケツよ」
「…お仕事頑張ってください……」
 今度こそ足音が病室から出てゆき廊下を遠ざかると患者たちは声を出して溜息をついた。おそるおそるカーテンを開こうとした時、一枚が勢いよく開いた。看護婦がカーテンを掴んで憤懣を露わにしていた。患者の男はなごませるつもりで
「俺のケツに体温計を突っ込むのかい?」
 と尋ねたが、看護婦が真顔で
「いいわよ」
 と答えたので震え上がってシーツを被った。
 だが黒いレインコートの男、ブラックモアが本当に諦めた訳はなく、彼はゆらゆら揺れるような不安定な歩き方で時々後ろを振り返りながら看護婦の科白、カーテンの向こうの患者たちの息づかい、あの病室にあった全ての証拠から何かを掴もうとしていた。何かがあるはずだ。イニシャル、名前、身につけていたもの…。痕跡は必ず残っている。
 待合室には疲れ果てた沈黙が充満していた。その中で数人の子供たち相手にマイク・Oがバルーンアートを披露している。それはよく見かける光景のようでもあったが、子供たちの表情は何とかして自分の気持ちを盛り上げようというぎこちない笑顔だった。それでもキリンやウサギといったリクエストが出され、マイク・Oは鮮やかな手つきでそれを作り上げる。最後の子供に亀を作ってやったところで――リクエストはミュータント・タートルズだった――ブラックモアはようやく近づいた。やや異様な風体と常に憂鬱そうな表情は、一瞬にして子供の警戒心を喚起させ、彼らは走って親のもとに戻った。
「君の存在は恐怖の世界だ」
 マイク・Oが立ち上がり、言った。
「子供が逃げてしまった」
「本気で可愛がっていた訳ではあるまい」
「いいや…、子は宝だ。大統領も繁栄の条件として挙げた」
「元、大統領だ」
「大して変わるまい。もうすぐそれが真実になる世界なのだから」
 二人は視線を交わし合い、その短いアイコンタクトで互いに敵意のないことや彼らの主に対する忠誠心を再確認した後、仕事の話に戻った。
「では、逃げ出した患者が例のエリナであることはほぼ間違いのない世界だな。どこへ行ったのだろう。親に見捨てられ、ツインタワーも崩壊した今では行く世界はないはずだ」
「協力者がいたのだ」
「ドクター・ツェペリだな」
 二人は待合室を出ると、もう一度病室へ向かった。足を踏み入れる直前、カーテンがいっせいに閉まる音が響いた。やや耳に障る音だった。看護婦の姿はもうない。空いているベッドは一つ。決して名前を言おうとしなかった患者、消えた患者のベッド。
 ブラックモアはしゃがみ込み、ベッドの下からプラスチックのカゴに入れられたウェディングドレスを取り出した。
「これは持ち主に返してあげましょう」
 ブラックモアは瞳は憂鬱そうに細めたまま口元だけをわずかに歪める笑みを浮かべて言った。
「大事なドレスに違いない…ウェディングドレスだ……。ここにいた患者はツインタワー崩落の時、これを着ていた」
 ちらと目配せをしただけでマイク・Oは心得た。彼は懐から長い釘を二、三本取り出すと釘の頭を唇に押しつけ思い切り息を吹いた。その光景はブラックモア以外、誰も見ることはなかった。カーテンの向こうの患者たちはそろってシーツを被っていた。ただでさえ世界を揺るがすような事件に遭遇した、これ以上面倒に巻き込まれるのは御免なのだ。だが聞き耳を立てていたとしても、何が起きたかは分からなかっただろう。
 釘はまるでゴム風船のように膨らみ、マイク・Oはバルーンアートと同じ要領で犬を作り出すとブラックモアの掴んだウェディングドレスに向けて放った。クンクンとまるで本物の犬のような声を上げ風船犬はウェディングドレスの中に潜り込み、やがて弾ける音とともに白いドレスを突き破って釘の鋭い先端が覗いた。
「匂いは記憶したか?」
「ああ、パーフェクトな世界だ。いや、待て」
 マイク・Oは釘の匂いをかぐと、もう一度それに息を吹き込み同じように犬の形を作った。風船犬の内二匹はベッドの側をうろうろと動き回った。しかし残る一匹はしきりに病室から出ようとする。
「我がチューブラー・ベルズ…オレのバブル犬は確かに匂いを記憶した。それは間違いない。ただし二人だ。二人の人間の匂いがそのドレスには染みこんでいた」
「一人は勿論、このドレスを着ていた女に違いない。だがもう一人は…?」
 ウェディングドレスを空っぽのベッドに広げると胸元に赤黒い血痕が残っていた。ブラックモアはドレスの内側を覗き込み、花嫁の怪我ではないと呟いた。
「これは…花嫁を助けた人間の血だ」
 ふと顔が傾き、珍しくブラックモアは笑っていた。生来の憂鬱が表面上の形を歪めていたが、しかし楽しそうな顔だとマイク・Oは思った。
「誰だと思う?」
「この犬の行方を追えば正解に辿り着く世界だ」
「我々の考えが正しいということが立証されるでしょうね」
 だが既に日は暮れていた。外は真っ暗で、マイク・Oは空腹を感じ始めていた。
「ドクター・ツェペリだ。間違いない」
 マイク・Oの言葉にブラックモアは頷いた。
 バブル犬による追跡は続けられなかった。たかだか雇われ医者の住所くらいすぐに探し当てられるだろう。そしてブラックモアの勘によれば、今二人は一緒にいると思っていい。あの医者もこの忙しい時、怪我人ばかり増えてベッドも医者も足りないという時に一人の患者に執心していたのだ。欲しい証拠は得た。
「早く戻って、我らがヴァレンタインに報告をすべき世界だ」
「その前に一つ」
 ブラックモアが指を一本立てる。
「どうした」
「夕食がまだです」
「…仕事を終わらせてからでいいだろう」
「私には腹の虫の大合唱が聞こえますが、気のせいですか?」
 ブラックモアはレインコートのポケットからスニッカーズを取り出しマイク・Oに投げた。
「…半分溶けた世界だが?」
「嫌なら結構」
 結局マイク・Oはスニッカーズを囓らず、だからといって返す訳でもなく懐にいれると、残りの犬も釘に戻し商売道具のホルダーに収めた。



2013.12.28