六十年間僕は願ったんだ




 目が覚めてもカーズがいない。今すぐにバイクに乗って飛び出さなきゃ…そう思ったのは若い頃を夢に見ていたせいかもしれなかった。バイクはよく整備されていたが、昨年とうとう天に召された。鋼の馬よ、安らかに眠れ。最近は自分の脚もなかなか言うことをきかない。ランニングマシンで毎日続けていたトレーニングも量を落とさざるを得なかった。
「探偵は体力勝負」
 笑って言うと火星や宇宙まで巻き込んだ冒険譚を、その伝説的存在、究極生命体その人から聞いたジョエコは共感の笑みを浮かべたけれど、その息子は何としても理論で城字を説き伏せようとするのだった。それだって老いた自分の身を慮ってのことだから城字も言うことをきくようにしている。しかしこの心は今にも身体を飛び出して行きそうで。
 ベッドから脚を下ろす。痛みは感じられなかった。夜半過ぎ。眠っている間に日付は変わってしまったようだ。クリスマスだ。枕元を見たのは生来の茶目っ気だった。養父も義理の曾祖父もジョースター家という家を守る躾の厳しさはあったが、同時に愛情を惜しむ人たちではなかった。特に曾祖父ジョセフは己と父親の確執を経験したせいか、子供の城字以上にこれらイベントを楽しんでいた感がある。彼は幼い――だが敏くはあった――城字が好奇心を押し隠して懸命に寝たふりをしているのを先にお見通しだった。彼とジョンダは抜かりなく、完璧なるサンタクロースの扮装で城字の枕元にプレゼントを置いたのである。本来の風習としては暖炉の上にかけられた靴下やクリスマスツリーの下が妥当だったのだろうが、ジョセフは人を楽しませ喜ばせることにも長けた人だったのだ。
 夢に見た懐かしい日々の余韻を惜しむように城字は枕元に手を滑らせた。指先に触れたそれを、城字は覚えていた。それは意外であり、懐かしくもあり。まさか、という思いで城字はコルクを取り上げた。鼻の下にあて匂いをかぐ。間違いない、シャンペンのコルク栓だ。
 改めて周囲を見回した。そこは見慣れた自分の部屋であるはずだった。どうして、見慣れた自分の部屋である。城字は溜息をついた。うっかり今夜のシャンペンのコルクを持って来てしまったのだろうか。時々物忘れはあるが、まさか身に覚えのない行動が始まったのか。
「いや、ボケるにはまだ早い」
 今日が西暦何年かを考え、自分が幾つになったかを考える。振り返るとカレンダーが風にばらばらと捲られた。窓が開き、冷たい風が吹き込んでいた。外は雪が降っていた。暗闇の中、白い雪が空を埋め尽くし、風に巻かれる。回転している。風は耳の中でも鳴った。城字は裸足のままバルコニーに出て空を見上げた。耳の中の風が教える。真っ直ぐだ。真っ直ぐ彼の方に向かえばいいんだ。向こうからこっちに向かってくるのだから。自分は。
「カァァァァァァズ!」
 その名を呼んで。
 雪が乱れる。
 闇がはばたく。
 その中に腕を広げる。
「カーズ!」
 ただ受けとめればいい。
 ただ抱き締められればいい。
 闇のように濡れた羽が冷たく城字を包み込んだ。城字は何度もカーズの名を呼び、翼の中に埋もれた。
「カーズ」
 ようやく落ち着いて顔を上げると闇の中白い面がぞっとするほど美しく浮かび上がり、自分を見下ろす瞳は水色に澄んで城字を映した。
「どうしたんだ、急に」
 だがカーズが急でなかったことなどない。予告の手紙も電話もなく、会いたい時に彼は現れ、なしたいことをなすのだ。カーズはじっと城字を見下ろした。老いたな、とその瞳は言っていた。そして当然の避けがたい変化を彼は楽しんでいる。
「カーズ、君、今僕がおじいちゃんになったと思ってるだろう。だけどそうでもないんやで。まだ六十過ぎ。年金だってもらってない」
 だが言いたかったのはそういう科白ではなかった。
「なあ、カーズ」
 城字は言葉を続ける。
「いや、ほんま、まだまだ現役やって」
 喋りながら城字はむきになって主張した。
「や、ほんとマジ、マジにカーズ先輩、僕まだまだ世界の名探偵城字・ジョースターやし。ちょっ、なに笑ってんのさカーズっち!」
 静かな声がジョージ・ジョースターと呼んだ。
 夜の海の囁きのように、雪の降り積む音のように、風が砂の上で歌うように。
「カーズ」
 城字はうんと背伸びをしてカーズの首につかまった。カーズも背を曲げてやらなければならなかった。身長は二十センチも足りなかったのだ。
「今日はクリスマスなんだ」
 カーズは微笑む。
「プレゼントが欲しいと、僕はずっと思ってたんだよ」
 目を覚ました時、窓の外は白銀の世界で朝陽が雪に反射し眩しく輝いていた。城字はベッドから脚を下ろし、寒さにそれが軋むのを感じた。だが歩けないほどではない。枕元に手を這わせたのは夢の名残を惜しむからだった。実に都合のいい夢を見たものだ。自嘲する準備はできていた。しかし手に触れたのは濡れた闇のように艶やかな黒い羽。
 城字は頭を抱え顔を赤くし「少し恥ずかしいな…」と呟いた。さて黒い羽は胸に仕舞い、これからジョセフの形見であるサンタクロースの衣装でクリスマスの朝食の席へ下りていかなければならない。プレゼントは袋の中に用意済みだ。食堂の扉を勢いよく開き城字は付けひげの下、声を作って言った。
「ふぉっふぉっふぉ、メリークリスマス!」
「メリークリスマスおじいちゃん」
 とニヤニヤ笑いのませた少年。
「メリークリスマス、ジョージおじさん」
 とニヤニヤ笑いの甥。
「メリークリスマス、ジョージ」
 とニヤニヤ笑いのジョエコ。
「遅いぞ、城字・ジョースター」
 城字は目を丸くした。テーブルにはこの冬の最中をもものともせぬ格好で、宇宙の深淵のように黒い髪をたゆたわせたカーズが席につき、ニヤニヤとこちらを見て笑っていた。



2013.12.25