葦と永遠 【生命編】




 砂はさらさらと天井から降る。永劫繰り返されるこの星の営みは歌声のようにもカーズに聞こえた。至上の歌声はあの懐かしい青い星で絶え間なく歌われる風の声だ。それを懐かしく思い出した。夜の風の音。明るい月の光に肌を刺されながら、自ら含めたった四人で放浪した日々が蘇る。今思えばあれとて長い旅ではなかったのだ。究極なる生を求め続けた飢えの旅。満たされぬことはなんと楽しい旅だったろう。あの時も幼子を腕に抱いていた。今のように。
 風は遥か天井の上、恐ろしほど荒れ狂っていた。カーズにはそれも心地よかった。この星の地上に見慣れた生はない。風を食らい砂漠を永遠に旅する巨大な生物が儚い足跡を残すばかりである。生物はカーズの目から見れば骨格だけの生き物であった。中心から螺旋状に飛び出た骨はそれが足であり、それが口であり、それが翼であった。砂を踏む時は足となる。上に持ち上がれば薄い皮膜を張り風を受け、食らう。幼生は強風に体を浮かし星中に散らばる。風が弱まり地に落ちるまで空の旅を続ける。
 広大な砂漠の星の、表に見えるのは初めは生き物とさえ思われない、その巨大で真っ白な骨ばかりである。だが宇宙を漂うカーズが降り立ったのは、文字通り羽を休めたかったからか、それともこの砂漠に惹かれるものがあったのか。
 果たして風の渦の中心に降り立ったカーズが見つけたのは深い穴であり、その下に広がる地下空間だった。それは自然の作り出した宮殿であった。岩の柱。地上から降り注ぐ砂のカーテン。それは確かに懐かしい光景だった。古き時代同胞と生き、眠った場所によく似ていた。水は砂に覆われた下でひそかに巡っていた。肌の下を血管が走るように、表からは隠されそっとこの星の内部を潤していた。脆くなった天井が崩落すると、陽光と水を得た砂はその中に固く眠らせていた命をいっせいに芽吹かせた。カーズの降り立った穴の下には雨林と見まごうほどの巨大な草花が繁茂しており、苔が柔らかなクッションのように身体を受け止めた。
 カーズは草の縁から地下深くを巡る水脈の、顔をのぞかせて青く輝くのを見下ろした。先の星で城字と別れて以来、気配は常に感じるものの、具象を伴って顔を合わせてはいなかった。いつかの氷の星のように、城字が顔を出すものかと思ったのだ。しかし城字は姿を見せなかった。青い水は冷たくその表面を閃かせるだけで水音さえなく、ただ砂の降り注ぐ音と遠い風の音がかすかに届くばかりだった。カーズは巨大な赤い花を一つ食べ、ゆっくりと身体を休めた。瞼を伏せ眠るふりをすると、瞼の裏に見たことのない、夢とも呼べるイメージ群が踊った。
 月の下に佇む幼子。殺戮の恍惚。子供の悲鳴。
 どれも鮮やかでカーズはかつての空腹を思い出した。知への飢え。力への飢え。精神の飢え。そして遠い昔に捨て去ってしまった肉体的な飢えだ。人間のように腹が鳴るということはない。イメージの喚起させた飢えの記憶はカーズの頬に笑みを形作らせた。昔はなんと、すべきことがたくさんあったことか。
 今降り立ったこの星で、自分の思うが儘の世界を新しく作るのは勿論可能であった。それこそがカーズに楽しみをもたらすものだ。だが。
 カーズは苔のベッドから立ち上がり、砂の降り注ぐ下まで来た。風を食らう骨、砂に埋もれきってしまうまでの短い昼を生きる草花。黙して語らぬ深い水脈。カーズは胸がはち切れるほど息を吸い込み大音声を発した。それは地下宮殿のあらゆる広間に空気を、壁を、水脈を介して伝播し、さらに大きな雄叫びとなった。地上の暴風とカーズの咆哮は一つの音楽をなした。地上で骨の生き物どもが皮膜をいっぱいにひろげて巨大な振動を吸収し震えあがるのを感じた。植物はいっぱいに花粉を、種子を撒き散らし、穴から地上へ噴出した黄色い塵は風に乗ってまた果てなき砂漠いっぱいに広がった。
 カーズは笑った。誰にもこの声を聞かせることがないことが悔しく思えるほど笑い続けた。
 そして生命を産むことを、決めた。
 腹に一つの大きな部屋を作った。水を飲み込むとそれは体液と混じり合い命を育むに必要な栄養と酸素を満たした水となった。水は体内に作られた宮殿に流れ込み、カーズの腹はみるみる丸く膨れた。材料はそろっていた。設計図もあった。カーズは城字のことを完璧に覚えている。城字のディスクを取り込み、また城字自身をこの身体に納めもしたのだ。元々忘れるはずもない頭だが、側に誰かいればそれを自慢してやりたいほどにカーズは城字を隅々まで覚えていた。自慢してやるならば、そうだ、あのうるさいイタリア人の少年、苦難を共にしたペネロペ、互いにかけがえのない兄妹であったジョエコ。カーズさえその気になれば彼らの再現さえも可能だった。しかしカーズが考えたのはただ一人、城字・ジョースターのことだけだった。
 カーズは木漏れ日の下で大きな腹を抱え、掌で撫でさすりながら城字のことを思い出していた。形を作るのは簡単だ。技術面の問題は全くない。何より必要なのは城字を作ろうとするカーズ自身の意志だった。
 体内の海に漂う小さな一つの細胞を拠り所に魂が集まる。それまでカーズを取り巻いていた気配は光の粒となり丸い腹の上に降り注いだ。そこで雨だれの音、火の弾ける音、クリスタルの散らばる音を立てて見せたのは自分もこの作業に喜んで参加しているのだという城字からのメッセージなのかもしれない。音が止むと胎内の細胞が急速に分裂を始めた。生命の原初の形へ、命は丸く形作られ、海の中を回転し、安定を得た。
 十月十日をカーズは待った。人間を生むのだからその速度に合わせてやったのだ。最初は半透明の稚魚のようだった城字の身体の真ん中に心臓ができあがり鼓動を始める。カーズは腹を透かして体液の循環を始めた城字を見た。城字は目まぐるしく生命の進化を辿った。尾が消え、手指の形が揃い、形も人間に近づく。カーズが話しかけると反応を示す。大したことはなかったカーズは城字の名を呼んだだけだった。しかし城字はその中にあらゆる謎を見出したかのように内側から腹を蹴るのだ。答えようとしている。カーズは微笑む。それからはあらゆる知識を囁きかけた。その中には血腥い話も多く含まれた。だが一族を鏖にした男と殺人現場を渡り歩いた名探偵の子だ。怯むはずもない。蹴る力はいよいよ強い。
 時々は大きな腹を抱えて旅をした。緑に満ちた宮殿は長くは続かない。カーズ一人ならば問題もないが、いずれ生まれてくる命の脆弱さを思えば、環境は少しでも元の地球に近い方がいいだろう。少なくとも水なしに生きていける生き物ではない。
 地下宮殿の中でも最大のものと思われる場所に辿りついたのはちょうど臨月の頃で、そこは天井に穴が七つも空いていたが非常に頑丈で、日陰にまで草の伸びていることから、この場所に芽吹いた命が長く続いていることを教えた。地下水脈の水音は相変わらず聞こえないが、砂の降る音、遠い風の音は広間に幾重にも反響しカーズの耳を楽しませた。時期も近い。ここで産もうと決めた。
 胎児はもうすっかり人間の形をしていた。後は出てくるのを待つばかりだった。時折腹を透かして見るカーズと目があったが、まだ見えてはいないようだ。
「お前はどうやって産まれてきたい、城字・ジョースター」
 カーズは腹を撫でながら尋ねる。
「俺に股を開かせるか。それでもいい。お前が望むなら産道も出口も作ってやろう。面倒だと言うなら帝王切開で取り出してやる。安心しろ、俺の医術の腕はお前がよく知っているはずだからな。ふざけるつもりなら口から出てきても構わんぞ?」
 そんな冗談を言う自分をカーズは不思議に思った。だが本心からおかしいような気もした。初めてのことだが上手くいく。絶対の自信がある。しかし、生命の雌がするように自分が命を産み出すとは、長く生きてきたカーズにも新鮮な緊張と好奇心を与えたのだ。
 数日後、激しい痛みがやってきた。カーズは痛みに笑いながら赤ん坊を産み落とした。柔らかな草葉に抱きとめられた嬰児は声の限りにないた。
「よしよし」
 カーズはその顔をわずかに青ざめさせながらも嬰児を抱きかかえ、舌で血を舐め取り、耳も割れんばかりの泣き声に満足そうな笑みをもらした。
「よく産まれてきたな、城字・ジョースター」
 それが今抱いている幼児である。
 もう数年、同じ宮殿に住んでいる。城字を産み落としたあの場所である。乳は花の蜜と地下水を混ぜ合わせ口移しで与えた。育ってからの食事も同様だった。カーズは草葉や蜜を口の中で咀嚼しては城字に与えた。歯が生えそろった今は、城字も柔らかな芽など自分で食べることができる。
「城字」
 食事が終わり自分が食べ散らかしたものを並べて遊んでいる城字を呼んで、カーズは膝の上に座らせた。
「なーに、カーズ」
「上を見ろ」
 風が弱まり、大きな穴からは星空が見えた。
「今夜はあの名前を教えてやる」
「ねむい、ぼくねむい」
「十覚えたら寝るのを許そう」
「じゅう!」
 地球から見えた星、見えなかった星。様々の名前をカーズは教える。名の無かった星には新たに名前をつける。エイジャ。エシディシ。ワムウ。サンタナ。ジョセフ。リサリサ。シーザー。アントニオ。ツェペリ。………。
 星の名前を十覚えた城字は眠る。カーズはそれを見下ろし、自分はいつかこの城字をつれてこのいずれかの星を目指し旅を始めるのかとぼんやり思う。

 成長するにつれて城字の知識欲は止めどなく貪欲になっていった。かつては星の名前をようやく十覚えて眠ったものが、地上から星までの距離、星の年齢、一生はおろか、遙か遠い地球で語られたおぼろげな神話までも吸収しなくては眠れなかった。「何故」「どうして」が今や城字の口癖だった。全ての原因を理由を突き止めなければ瞼を閉じることはできなかった。カーズはそもそも睡眠を必要としないから、城字自身が己の知識欲にへとへとになるまで夜通しその謎に付き合った。
 この星に、他の人間はいない。虫も動物もいない。捕食であれ何であれ、名探偵にお馴染みの殺しの場面はどこにも見受けられなかった。しかしこの星の、閉ざされた宮殿の中にも神秘は満ちていた。成長する岩の壁。決して表に出ようとしない水脈。短い昼を得て繁茂するこれら植物はどこから来たのか。どのような進化の過程を辿ったのか。城字はカーズを使って地層や遺伝子を解析し、一つの真実を見出してはユーレカを叫んだ。
「城字」
 今もまたある花の種と種の親戚関係を特定したばかりで、壁面に描いた色鮮やかなコード表を喜びのまま両手で叩いていた。
「なに?」
「貴様、その言葉をどこで覚えた」
 城字は壁を叩くのをやめ、カーズを振り向いた。
「最初からですよ」
 その時の目を、カーズは忘れられないだろうと思った。視線が、肉体的な痛みさえ感じるほど胸を貫いた。城字の黒々とした瞳はその瞬間カーズそっくりの、あるいは遠い昔滅びた地球の海そっくりの、もしくは宇宙に漂う光となった城字が最初に導いた星に現れた城字の透明な身体のように、澄んだ水色に輝いていた。それはほんの一瞬のことだった。ぱちりとまばたきをした城字の瞳は元の黒い輝きを取り戻していて、たくさん考えてお腹が空いたといいながら繁茂する草花の林へ分け入った。
「今日は黄色い花と黄色い果物の親戚ランチで決まりや!」
 ね、カーズ、と声ばかり聞こえてくる。カーズは返事をせず黙って考え込んだ。自分の見たものが幻ではないことは理解していた。またカーズの思考は自身を欺きもしなかった。決して忘れていた訳ではなかったが…この城字はオリジナルではないのだと思い知らされたのだ。この城字にはオリジナルの魂の成分、肉体の設計図だけではない、カーズ自身の体液やこの星の成分が混じっていた。故に城字は経験したことのない知識を持ち、オリジナルとは違う言葉を発し…。
「カァァァァァズ!」
 叫び声が宮殿に響き渡る。黄色い果実を取ろうと背の十倍ほどもある茎によじ上った城字が下りられずにしがみついていた。カーズは地面の上からそれを見上げ、腕組みをして高々と笑った。
「何笑ってんのさ、カーズ!助けてよ!落ちちゃうよ!」
「落ちたら治してやる。落ちてこい」
「やだー!痛いの嫌だぁぁぁ!」
 ひとしきり泣き喚かせ怯えた悲鳴を堪能し、カーズは腕を翼に変えた。地面を一打ち、二打ち、あっという間に城字の側まで飛び上がる。城字はもう涙と鼻水でべしょべしょに顔を濡らしていた。
「遅い!」
「そこが気に入ったらしいな、城字。もうしばらくいるか?」
「嘘!嘘です!お願い、下ろしてくださいカーズ様!」
 城字は様々に自分を呼んだが、この城字はあの懐かしい呼び名を用いない。カーズ先輩、と。あのふざけた呼び方を。
 カーズは城字の頭に指を突っ込んだ。次の瞬間バキバキと音を立てて城字の背中には翼が生える。城字は目を丸くして翼を振り返った。
「お、おお、おおお!」
「飛んでみろ」
 ばさりと音を立てて更に高く舞い、羽の生えたばかりの城字を見下ろした。
「飛び方は分かるな」
「…分かるよ!」
 最初の飛行は危なっかしいものだったが、すぐにコツを飲み込むあたり概念やスタンドもあっという間に吸収した城字の力を確かに受け継いでいる。
「カーズ!」
 城字は叫び、砂のカーテンを指さした。その向こうに大きな丸い穴が透けて見えた。
「行ってみようよ!」
 止めるつもりもなかったが止める間もなく城字は外へ飛び出し、悲鳴を残して消えた。強風に煽られ吹き飛ばされたのだ。カーズはそのような愚はおかさず、砂の上を一歩一歩足で歩いた。風は相変わらずの暴風だった。砂塵に遮られた高い空からカーズを呼ぶ悲鳴が聞こえた。
「城字・ジョースター!」
 カーズは空に向かって久しぶりにその名を叫んだ。
「ジョジョ!」
 強く呼び返す声が届いた。カーズは付近をゆっくり移動していた骨格性物によじ上り、白い骨に手を突っ込んでみた。そこには脳と呼べるものはなかったが、チカチカと光る関節部に影響を伸ばすと骨は大きく皮膜を広げ、カーズの思う方向へ移動し始めた。カーズは軽く骨と一体化しながら寝そべり、砂が薄れ青く輝き始めた空を見上げた。城字は骨格説物の幼生とともに風の中を漂っていた。この速度なら見失うことはあるまい。風に乗る城字はもう笑っていた。幼生を捕まえ、その謎を解くのに夢中になっているのだった。

 十五歳になった城字が、不意に尋ねた。
「どうして僕はカーズじゃないんだろう」
 苔のベッドに寝転ぶカーズの側に、城字はもそもそと這い寄った。夜だった。今夜は二つの月が昇っているらしい。斜めに射して消えた月光が再び角度を変えて落ちる。砂のカーテンが白く光を孕み、宮殿の薄明るさは葉陰の暗闇を濃くした。その中でカーズは、城字の瞳が水色から赤を溶かした紫に変わるのを見た。
「カーズが僕を産んだ」
「そうだ」
「生殖は行われなかったの?」
「必要ない」
「カーズは種の繁栄のために僕を産んだんじゃない」
「お前を産み落とすことが目的だったのだ、城字・ジョースター」
「カーズは僕に会いたかったの?」
 素直な問いに、そうだ、と素直に答えることをカーズは恥じはしなかった。
 それはこの宇宙で聞いた何度目の問いだろう。
「僕はどうやって産まれたの?」
 カーズは吹き出したくなったが何故かそれを耐えた。耐える内にじわじわとあの時の喜びが肉体の内側を満たした。唇の端が吊り上がる。
「聞きたいか?」
「教えて!」
 赤紫色の瞳が輝く。
 カーズは城字を身籠もった日のことから語り始めた。たった一つの細胞から始まり、魂の凝固、細胞の分裂。生命の進化を辿る十月十日の旅。そしてここから産まれてきたのだと手を伸ばした時、カーズ自身それに気づいていなかったことに衝撃を受けた。傷痕が残っていた。すっかり閉じてはいるが、傷はわずかに盛り上がり周囲より柔らかい皮膚を纏っていた。
「カーズ…?」
 城字が暗闇の中で手を伸ばし傷痕を指でなぞった。
「…痛かった?」
 ふふ、と自然にもれる笑みにカーズは言葉を柔らかくして答えた。
「痛みさえ心地良かったぞ」
 傷痕に熱い掌を押しつけ、城字は尋ねる。
「カーズ。カーズはその…僕との子供が欲しいとは思わない?確かに僕は僕で…その…昔の僕がいたことを僕は知ってるし…僕は僕だけじゃなくてたくさん…たくさんというか広く…広がってるんだけど、その、僕だよ。僕だけの僕との子供が欲しいと思うことはないだろうか」
 自らの言葉で語ろうとすればするほどオリジナルの言葉遣いからは遠ざかる。しかしこれは確かに城字の言葉だとカーズは思った。そしてそれまで考えなかったことを問いかけによって今考えあっさりと決断をくだした。
「思うぞ」
「今、考えたでしょ」
「ああ。今思ったのだ」
 だが今だろうが昔だろうが関係はないのである。
 傷をもう一度開きながら、身体の中に新しい興奮が巡るのを感じた。
「どうするの?」
 謎を目の前に赤い瞳の城字が尋ねる。
「こうするのだ」
 と最初に接吻を教えた。

 翌朝、強烈な朝陽の下に城字が見たものは大きく膨らんだカーズの腹だった。城字は両手をおそるおそる、胎内に芽生えた生命への畏怖をもって触れさせた。
「もう大きくなった」
「俺とお前の子だからな」
「僕もこの中に入ってたの」
 感慨深げに呟き、城字は丸い腹に耳を押し当てる。
「何も聞こえない」
「よく聞いてみろ」
「ああ……」
 耳をすました城字は感動に震える溜息をついた。
「鼓動の音じゃない」
「聞こえるか?」
「うん。喋ってる。この命は魂の言葉で喋ってるんだ…」
 太陽が穴の真上から一直線に射す頃、カーズはそれを産み落とした。それは一見、卵のようだった。大きさは腕に一抱えもあった。白い色は表面の殻の色ではなく、これが殻というものも持たない柔らかく半透明な膜に包まれており、中で渦巻く生命そのものの物体の乳白色が透けて見えているだけなのだと、卵にぼんやり映る互いの影で理解した。卵は出産の時から血で濡れることもなく、カーズも城字を産んだ時のような痛みを今回は全く感じなかった。
「これが僕たちの子供…」
 城字は自分にもカーズにも似ていない柔らかな楕円球を撫で回し、少し眉を寄せた。
「どうすればいい?」
「好きなように望め」
 カーズは草葉のベッドに横臥し、卵を抱く城字に眼差しを注いだ。
「それは命だ。何にでもなる力がある。意志もある。ただし無知だ。己の命の使い方を知らない。それを教えるのが親の役目だろう」
「僕が好きなように願っていいの?」
「お前の子だ。好きにしろ」
「僕とカーズの子供だ」
 城字は律儀に訂正し、同じ言葉を口の中で繰り返した。
「僕らの子供……、何にでもなれる。全ての可能性を持っている。無知全能の生命の塊だ…」
 ぶるっと肩を震わせて城字は叫んだ。
「カーズ!」
「何だ」
「新しいものを作るのは…すごく楽しい!これが『夢』だ!」
 卵を抱いた城字はカーズの隣に横になった。二人は卵を挟んで顔を見合わせた。
「夢を見たことがあるか?カーズ」
 先の文脈で言えば未来を思い描いたものとしての夢であるはずだが、カーズは瞼を閉じて見る闇の中のイメージを思い出した。ある、と答えた。
「残酷さも無慈悲も、無関心も、冷淡も、醜悪や汚濁は言うに及ばずこの世の全ては美しい。本当に恐いのは音も温度も失われた永遠の永遠だ」
 卵の上から伸ばされた手がカーズの頬を撫でた。カーズは城字の言う冷たい無音の世界を知っていた。もう三十六回それを体験していた。全てが均一に生も死も無い塵となる、宇宙の終わり。そこでは言葉も美も死に絶えた。この、カーズが肌の内に留め守ってきたもの以外は。
「この星はもっと命に輝くべきだよ。もっと君を楽しませる場でなければならない。僕の生ませた子はきっと君の望みを叶える」
 掌が愛おしげに卵を撫でた。たった一晩で城字の手は愛情を獲得していた。それはカーズの肌を愛撫したものとも違う、動物の雄、人間の父親の感情より更に階段を上った生命への愛情だった。
 この儚き、脆弱な存在を愛している。
 全てのカーズが愛したように、この城字もまた生命への深い深い愛情を得たのだ。
 カーズも卵の上に掌をのせ、その中で渦巻く乳白色の囁きに耳をすました。風の音を幾重にも重ね白日の下に歌わせたかのようだった。まるで嵐だ。咆吼だ。命の声の激しさは力強い美しさだった。卵の声はいよいよ大きくなった。形も楕円球から半球に変わっていた。卵に手を触れている二人には分かった。消えた下半分は地に向かって伸びているのだ。
「孵化する」
 城字が囁いた。
 起き上がった二人の目の前で卵はぐねぐねと変形し幾本もの管になって伸び上がった。それは上を目指して伸びるごとに太くなり触れ合ったもの同士は融合しやがて一本の茎になった。伸びるそれに二人で耳を寄せた。水を吸い上げる轟音が水色の茎の中を走っている。
 葉の一枚も、枝の一本もない、柱のようにただ真っ直ぐに伸びた一本の茎ができあがった。日は傾きかけていて、淡い黄色の光が通過すると水色の茎は虹色の閃きを走らせた。
「これが出藍の誉れってやつだね」
 城字がまた教えていない言葉を使った。
 植物としての生を選んだ子供は、宮殿に生えている他の植物と交配し枯れない森を作った。宮殿は天井が崩落するとそこに生きる緑も水脈も砂の下深く埋めてしまうのが常だが水色の茎と交配した種族は砂のカーテンに晒されても今しばらく生き続けた。日の光が届かぬ宮殿の奥深くへ生存の場を広げる種、より水の得やすい地面の亀裂や地下に手を伸ばす種が現れた。子孫の成長を、カーズと城字は見守った。
 変異は宮殿の崩落と共に訪れた。天井が崩れ落ち、大きく空いた穴から地上へ顔を出した水色の植物は、広大な砂漠を走る白い骨に出会った。そして骨格生物もまた、地上では出会ったことのない植物という存在に出会ったのだ。脳を持たない骨格性物は自分たちの脚が柔らかな繁みを踏んだことにさえ気づかぬ様子で風に吹かれるままあてどない旅を続けたが、植物の側は違った。彼らは城字とカーズの子孫なのだ。意志と可能性の塊だった。その知的好奇心が新しい生物に触れた。
 水色の植物は種子の実った枝を自ら切り離し、風に乗せた。枝は葉を翼に高く舞い上がり、骨格性物の幼生たちの群れと一緒になって旅に出た。自分の足で砂を踏んでいた城字がフードを脱いで、ほら、と指さした。
「あそこで光っているのが僕たちの子供だ」
 城字はもう二十歳をこえており、いつかのようにちょっとの風では飛ばされなくなっていた。

 宮殿から宮殿へ旅を続ける中、城字は彼らの子供の成長を見守り、カーズは子らを見守る城字を絶えず眺め続けた。一日一日、一分一分、一秒一秒、城字は歳をとっていた。若さのピークを過ぎた肉体が緩やかに老成してゆく。しかし身体はいよいよ頑健であり、それは城字がカーズの腹から生まれたハイブリッドだからというだけではない。城字の魂は常に強い眼差しを未来に据えていた。城字が賛美する生命の力をカーズは城字の中にこそ見出していた。
 空の旅を一緒にする中で、水色の植物は骨格性物を取り込む、一部を融合させるという試みを繰り返し、幼生の群れは空をゆく水色の雲のようになった。やがて、地を離れ風の中で生きる選択をするものが現れた。その意志は骨格性物にも伝播した。骨格性物の成体が薄緑の皮膜と水色の尾翼を持って――おそらくそれは一つの生命というより様々な種の生命の複合体だった――穴から見える空を横切った時、城字は食事も何もかも放り出して穴の縁まで蔓を伸ばした植物を這い上り、地上に歓声を上げた。
 永久に変わらないかと思われた乾いた星の歴史が書き換えられた。成体に生い茂った草花は群れを作って旅を続けた。植物は水色の実をたわわにつけた。実は熟し切るといっせいに弾け、地上に雨を降らせた。雨期の訪れた地上では砂の中で眠っていた種子が待ってましたとばかりに芽吹き、地下深くから水を吸い上げる。そして砂漠の中にオアシスを作り出した。あらん限りの命を降り注いだ生命の雲は急速に衰え、枯れる。強い風は枯れた端から植物も骨も粉々に砕き赤と白の混じり合ったピンク色の雲が空を覆うと、それが一年の終わりだった。枯れた生命の塵は風にのって地上に落ち、砂の中で再びの雨期を待つ。その一年のサイクルが安定したのは親である城字が老齢に達してからだった。
 足が弱っても城字は旅を続けた。彼の子供はまだ訪れたことのない地で、宮殿で、変異を起こしているかもしれなかった。彼はそれを知りたかった。見届けたかった。しかし百年を過ぎて肉体の衰えはもう隠すことができなくなっていた。
 苔のベッドに横たわり、懐かしい仕草で自分を見下ろすカーズの頬を撫でた。
「君は変わらないな」
 究極生命体やもんなあ、と呟く。見上げる瞳は白濁しており、もう明暗しか捉えることができない。しかし城字には分かるという。
「カーズは光り輝いているよ」
 と、手折った花を違わずカーズの髪にさす。
「子供の頃…、まだ幼稚だった頃、僕はきいたね。どうして僕はカーズじゃないんだろう。僕はまだ知りたいことがある。この星の行く末を見届けたい。魂が喚いてしょうがない。でも僕の肉体はもうすっかり安堵している。これでいいのだと」
 乾いた掌が頬に押しつけられた。
「満足している」
「…満足するところ、成長の終わりだ」
「ああ。そのとおりだよ。僕はここで終わりだ。僕は子孫を残した。僕の役目は受け継ぐことだった。僕の意志、好奇心、もっと外に出て駆け回って世界中を見たい、空を飛んでありとあらゆる景色を知りたいという望み、全部。生きるということ全てを」
 両手がカーズの頬を包む。
「僕の命は回る。星中を巡り、君を包む。君を一人にはしない」
 返事も相槌もない静寂の中で城字の最後の息だけがゆっくりと繰り返された。そして最後に長く吐き出された息を、カーズはそっと吸い込み身体の中に閉じ込めた。それが本当に最後の吐息だったからだ。もう城字は動かなかった。肉体はまだ柔らかく体温を残していたが漂っているのは老いの匂いではなく、全ての活動の終了を合図する死の匂いだった。
 カーズは軽くなった城字の身体を抱き上げ、立ち上がった。天井の穴からは月夜が見えた。水の粒子が月光を反射し、宮殿に射す光線はまさしく光の束だった。それは二人の間に生まれた子供の、真っ直ぐ天上へ伸びる水色の茎を思い出させた。光線は地下の亀裂の深くまで届いた。カーズが縁に佇むと、遥か下方で水面が音もなく揺れるのが見えた。
 別れの言葉は吐かなかった。きっとまた会うのだ。それは確実だ。またな、と言う間もなく邂逅するだろう。だから黙ってぬくもりを失い始めた肉体を滑り落とした。それが呑まれる瞬間も、水は音を立てなかった。だがすぐに地面が震え始めた。カーズは亀裂から数歩退いた。圧倒的な力が足下へ這い上がるのを感じた。
 水色の水の柱は真っ直ぐ、月へ向かって噴き上げた。その現象は一時間近くも続いた。カーズは久しぶりに翼を広げ、噴水のように段階的に細く、そして更に空高くを目指していた。それは穴の外に出て地上から見てもゆうと見上げるほどの高さがあった。月に向かって伸ばされる手のようだった。
 それから月と穴と地下水脈が一直線上に並ぶ時、その現象は見られるようになった。宮殿も地上も、雨期から外れた水を得て局地的に繁茂した。カーズは噴水の上がった地点を全て記憶しこれも何かのメッセージだろうかと考えたが、ただ点の数が増えるばかりで、それは意味をもった形にはなりそうになかった。
 結局カーズは星の最後を見届けるまでここに残った。膨張した太陽が空を旅する生命も、昔ながらに宮殿に栄える緑も灼き尽くし、もう少しで星が火球と化すその直前まで。その時、活動を止めていた地下水脈の最後の噴出が足下に迫っているのを感じた。カーズは砂さえ燃え尽きた大地に佇み、最後の水が地を割るのを待った。 最後の大噴水は予想通りカーズの身体を宇宙まで吹き飛ばした。物凄いパワーだった。だがカーズは水色の噴水を全身に浴びながら、全く違うことに驚いていた。水は叫んでいた。咆吼が全身に響いた。
「カァァァァァズ!」
 自分は呼ばれていたのだ。何度も、何度も。
 冷たい宇宙空間から、カーズはかつて命に満ちていた星を見下ろした。星が燃える火の球となり、砕け、塵となって太陽に取り込まれるまで見届けた。生みだされ、城字が受け継いだといった命は、全てが始まる前の状態に戻ってしまった。あの多彩な鮮やかさは消えた。しかし命を形作るものも、魂の粒子もそこにある。熱く燃えている。
 太陽から吹く風がカーズの翼を煽った。カーズはゆっくりと暗黒の中を飛び始めた。風を受ける翼も背も、まだ温かかった。いつもの、超然たる城字がまだ顔を見せないことをカーズは怒ってはいなかった。カーズの心は喪失の余韻を味わっていた。これは俺だけのものだ、とカーズは思った。新鮮な驚き、痛み、それらは城字を産み落とした時以来のものだった。
 虚空に、カーズは吼えた。笑いのような、慟哭のようなそれを、宇宙を満たす虚ろは無感情に呑み込み、響かせはしなかった。カーズは何度も激情を吐き出し、それからようやく本当に笑った。笑いは自分の骨に響いた。生きているな、という思いが肉体と魂を満たした。
「俺は生きているのだな」
「そうだよ」
 城字が耳元で囁いた。



2013.12.5