木の実の夢は全てを手に入れた旅人を追う




 ミルウォーキーでの一件の後、時々考え、ひっそりと思い出しては身震いのすることと言えばあそこで木の実にされかけたことだ。過ぎ去った危機を思い出して責めようというのではなく、もしあのまま自分が古木の一部となったならばどうだったろう、と既に存在し得ない未来があの忘れがたい雪の夕、ワインの味の陰にひっそり隠れ心の片隅を掠める。遺体を手に入れたジョニィはどうなっていただろう。ジョニィは一人でもレースを走破できるだろうか。遺体を全て集めるだろうか。ありとあらゆる犠牲を払って他人の血も自分の流血も顧みず、全ての遺体を自らのものとしたジョニィは人のままでいられるだろうか。そこに歓びはあるだろうか。再び自分の脚で歩けるようになったことを共に喜ぶ相手は…おそらくいない。この自分を失ったのだ。あの泣き虫の坊やは、石の心に漆黒の意志、死んだ聖人の肉体でどこまでも彷徨い続けるだろう。ジャイロは何度かそういう夢を見た。
 梢の間から雪の積もった地上を見下ろす。ぼろぼろのフードを被った一人の男が馬を引き、とぼとぼと近づいてくる。ジャイロは木の実なので何とも感じない。そのような光景は何度も見てきていると思う。この男が木の実になれば番人の順番も一つ進むのだなと考える。こうやってゆっくり、ゆっくり、一人分ずつ自分の出番は近づいてくる。どれだけ遠くても一人分ずつ。自分が番人の役目を果たしたらこの森を抜け出してあいつに会いに行くのだ。あいつとは誰なのか、今はよく思い出せないけれども。
 フードを脱いだ男の疲れ果てた面貌には苦渋の皺が刻み込まれ頬に射す影も濃かったが、思いの外若かった。後をついてきた老いた馬は首を垂れ雪の間から生えた枯れた草を食んだ。男は肩に重い荷でも背負っているかのように身体を傾ける。だが足取りはしっかりしている。脚は重たく雪を踏む。深く刻まれる足跡。古木の根元に辿り着いた男はごつごつとした表面に冷たい掌を這わせ、こう囁く。
「ジャイロ」
 それが己の名前だと思い出せないが、男がじっと自分を見上げるので、ああ呼ばれたのだな、と分かった。シュガーマウンテンの木の実はこの古木――の中で眠る力――にとって区別のあるものではない。それに木の実を訪ねてくる人間など皆無に等しい。この男は待っていてくれるだろうか。番人の役目が終わればまた顔と顔を合わせ言葉を交わすことができる。番人の間は…うっかりこっちに引き入れかねないな。
 夢の中とは不思議なものだ。もう一つの世界がある。現実と似た地図の上、目覚めて出会う人がまるで他人のように歩いている。そして己自身も、日の下で思う自分とはまるで別人だ。ジャイロは眼下の男がジョニィだと思い出せないが、懐かしさは感じている。大きな洞から大柄な男が現れた。初老の男は手に鉄球とメスを持っている。メスが樹皮を切り裂くとそれは底なしの洞になる。誰だろう、あれが今の番人だったろうかと思う間に初老の男は泉に消えていて、水底で鈍く光を反射する鉄球ばかりが転がっている。残されたジョニィは恥もなく取り出したものを洞に突っ込んだ。
 枝の先、実るシュガーマウンテンの木の実は自分だけではない。だが古木に穿たれた洞は自分だとジャイロは感じた。硬い表皮の内側で、雪に覆われた大地から水を吸い上げる柔らかい導管は裂かれた内側に、涙を堪えられぬように名前を囁き続けるジョニィの肉体の冷たさを、哀しいほどに冷たく乾いたものを確かに感じ、抱いた。そそぎこまれるものは生命の水でも涙でもなかった。あの泣き虫が、あの色男が、それさえ枯らしてしまったのだ。木の枝は身体を擦りつける若い男を抱くこともできず、ただただ雪の重みに絶えかねてしなるばかりだった。
 だがジャイロは思う。ここにいるなよ、先に行け。いつかまた会おう。オレはこの森を抜けておまえに会いに行くから、どこまで遠くてもいい、おまえは馬に乗れ、そして駆けろ。この大陸を自由に駆けろ。おまえは、脚が動くのだから。
 夢の終わりに射精を見たことはない。否、詳細さえ覚えてはいないのだ。目覚める前にはほとんどの光景を忘れている。梢から見下ろすぼんやりとした雪景色と、些か後ろめたい哀しさだけが目覚めの胸に残る。ジャイロは瞼を開く。
 今朝もまた寒い朝だった。ホテルの窓は雪で白く覆われていた。ジャイロは溜息を落として、夢の余韻を全て吐き出そうとした。胸に哀しみを与えたのが誰なのか、苦悶の刻まれた顔も、全てを捨て去った老人の顔も、はっきりと、あれは誰だと思い出してはいけないと本能で分かっていた。必要なのは朝の光とコーヒーだ。 ジョニィの姿はなかった。車椅子も。
 ロビーを横切ってキッチンを覗くと、オーナーの老女が湯を沸かすのをジョニィが黙って待っていた。すぐにジャイロには気がついて、コーヒーを分けてくれるのだと教えた。老女の淹れたコーヒーを、キッチンの狭いテーブルで飲んだ。
「浮かない顔だ」
「…さみぃからよ」
 ジャイロはキッチンの窓から外を見遣った。
「止むかな」
「そんなの誰にも分かりゃしないよ」
 老女は席を立つ。
「ありがとう、マダム」
 ジョニィが声をかけ見送る。
「…ここに来て守備範囲を広げたか?」
「いいひとだよ。蜂蜜をくれた」
 ジョニィはテーブルの上の小さな瓶を撫でた。
「森まで獲りに行くんだって」
「森…」
「深い森さ。昨日迂回したろ」
 昨日、が遠い日のようだった。
「そうだったな」
 薄いコーヒーに口をつけ、あたたかな湯気で胸を一杯に満たした。今日はもう街に入る。森は背後だ。遥か遠くだ。何も思い出すことはない。
 だが不意にジョニィの手は頬に触れ、本当に大丈夫か、と尋ねる。
「顔色が悪いみたいだ」
「隙間風のせいだろ」
 寒いんだ、とジャイロはもう一度言い訳めいた言葉を繰り返した。
「マダムにゃ悪いがおかわりをもらおうぜ」
「いつもの」
 ジョニィの手はするりと首の後ろに滑り込む。じわりとかかる力は存外に強く、引き寄せられる。
「君の」
 キスは気分ではないと抗う前に唇は触れて、ジャイロ、と囁かれると早朝なのに家に帰ってきたような安堵が胸に染みた。本気になってキスの続きをしながら薄いコーヒーの残ったカップをテーブルの上に滑らせる。両手で抱え込めば、ジョニィは今にも車椅子から立ちあがりそうなほど伸び上がった。
「本当だ」
 耳に触れたジョニィが囁く。
「冷たい」
 その瞬間、身震いをした。 コーヒーの味のするキスで記憶を塗り替え、小止みになった雪の下、億劫そうにゆっくりと動き出す朝の街の気配を背に感じながら腕の中の存在を確かめた。
「ジョニィ」
「なに?」
 膝の上に手をのせ、その脚が動かないことを繊細な神経に感じとりながら掌をするりと太腿に這わせた。
「…朝だよ」
「ああ」
「もう雪も、止むんじゃないか?」
 ジョニィの手もベルトの上に触れた。
「多分止むよ」
「かもしれねーな。部屋に戻るぜ、ジョニィ」
 大股でロビーを横切ると、おかわりは?とコーヒーのことなど半分諦めながらジョニィが車椅子でついてくる。
「なあ」
 膝の上を視線で促す。
「蜂蜜ってそういう意味だったと思うかい?」
「オレの尻が腹ぺこの熊に襲われてもいいってのか」
「森は過ぎたよ」
 部屋の前で車椅子を止め、ジョニィは言った。
「安心しろよ」
「…軟膏がある」
「変な匂いがする、あれ」
 振り返ってキスをすると、ジョニィはそのまま車椅子を押してジャイロを部屋の中に押し込んだ。



2013.11.8