電話線は風に震え目の前には鏡しかない夜




 風の音が強くて遅くまで起きていた。明日の朝、早く起きる必要もなかった。まるで、何も構わなかった。 窓枠が乾いた音を立てる。電線や路地に渡された洗濯紐が時折笛の鳴るような音を立て、薄暗い夜を驚かせる。ソファの上で姿勢を崩し、ただ風の音に耳をすませば、その合間に野良犬の逃げてゆく足音や、遠い怒鳴り声も聞こえた。それから泣き声。赤ん坊だろうか。
 誰しも眠れない夜はあるだろう。今夜は、誰も眠れない夜だった。ベッドに潜り込んだ素直な子供も、夕べの祈りを捧げた聖職者も、睦言の絶えたベッド、冷たい鏡、そしてこのソファの上のホルマジオも、眠気からはほど遠い瞳を時々まばたきで隠し不安げな視線を漂わせ時間が過ぎゆくままに任せていた。夜の終わりを待っている訳でもなかった。寧ろ夜の終わりなど訪れるのだろうかと、太陽の存在も絵空事のように思えてしまう。
 鏡はソファの端を映していた。ホルマジオの身体は映っていなかった。彼は暗く誰もいない鏡の中の景色に目を遣り、あいつも震えているだろうと考えた。イルーゾォこそ、眠れるはずはなかった。鏡の中で、たった一人で、寒さと風の音に震え、自分をぬくめるものもない。どうしてオレの部屋に来なかった。昼には事務所で会ったのだ。キスはしたが、セックスは気分ではなかった。だから帰った。馬鹿め。泣きを見るぞ。
 部屋は静かに冷えていった。建物だけでなく、路地も、街全体が風に運ばれた冬の気配に侵蝕され気づけば震えていた。手を伸ばした先にあったのはグラッパの瓶で、底を濡らす程度にしか残っていなかった。口の上で逆さまに振り、滴り落ちたものを舐めた。他にはなにもなかった。毛布も。女の肌も。猫さえどこかに行ってしまった。いつも邪魔ばかりするくせに肝心な時はいやしない。
 服を脱ぐ。夜の中で自分の身体が自由い動くのを不思議に感じた。殺しの前の気分だった。一挙手一投足、吸って吐く息の一つをとっても全て現実的で、味気ないほどに自分が何をしようとしているのかが分かった。興奮はない。敢えて言うなら寒さのせいというだけだ。トイレはタイルの床が底冷えした。夜の中で目は慣れていて、薄汚れた色を夜闇に隠した分便器は白く、ほのかに輪郭を浮かび上がらせた。明かりをつけずとも隅の換気扇から入る夜気と、曇り空が街灯を反射する乏しい明かりでそれは分かった。ホルマジオは壁に手を突き、片手を下に伸ばした。
 何故この行為に耽るのか理由は考えなかった。イルーゾォを初めて抱いた日から今日までのことがバラバラと思い出された。およそ笑顔らしきものは見当たらず、こちらを見下すか――これはターゲットによく見せる顔だ――、憂鬱そうに俯くか。カットインされる泣き顔は快楽に歪む顔と似ている。ただしそれは今現在のイルーゾォの不在による欲求不満を増長させた。
 果たして理由もなく始めたこの行為を終わらせることができるかと考える頃には萎えていて、ここで便器に向かって射精することより何故すぐに部屋を出てイルーゾォのもとに向かわなかったのか、虚しい後悔に胸を満たされ、いよいよ朝は遠い。
 部屋の電話が鳴った。最初な何の音か分からなかった。風の中、妄想か、人の夢が千切れて飛んできたかという他人事だった。ようやくいつもの電話のベルだと認識しトイレを出た。身体が重い。
「…プロント」
 まさか受話器からイルーゾォの声を聞くとは思っていなかったから、果たしてこれは眠れないと思い込んでいた夢だろうかと訝しむ。
「ホルマジオ?」
 半信半疑で返事をすると溜息が聞こえた。
「寝てたか…? 何してた」
「何って…そりゃあナニだろう」
「は?」
「お前をオカズにマスかいてたんだよ」
 叩きつける受話器の音。耳と夜をつんざいて、それは長く余韻を残した。ホルマジオは受話器を戻し、裸のまま腰掛けてもう一度電話が鳴るのを待った。
 鳴る。
「プロント」
「……触ってる」
「は?」
「脱いだ」
 受話器を耳に挟み、電話を持ち上げコードを引き摺りながら部屋を歩き回る。
「脱いだって? 何をだ」
「全部」
「全部何だ。言えよ」
 鏡の前まで来る。受話器を挟み直し、空いた手で冷たい表面を撫でる。
「寒いか?」
「…いつもと変わらねえ」
「オレは…」
 ホルマジオは見下ろし、短く笑った。
「カッカしてるけどな」
 返事はなく、逡巡かしばらくの沈黙の後で、風が強い、と言った。
「で?」
「………」
「で、イルーゾォ?」
 小さく呻く声。風の中で頼りない息づかいが揺れる。乱れる。
「ちゃんと聞いといてやるからな」
 泣きそうな返事が聞こえた。
 風が強い。この部屋の外の何もかもが滅んで、パソコンの片隅に残された記憶かはたまた遠い星と交信している気分だった。電話の相手は本物のイルーゾォではないかもしれない。しかし区別はない。構わないのだ。
 泣き声で名前を呼ばれ、息のような返事をした。熱が籠もり、鼻からそれを吐き出した。
 翌朝、早く起きる必要はなかった。雨が降っていた。テレビをつけると遅い時間の短いニュースが最後の天気予報で朝から降り出した雨についてちらっと触れた。今日はどうも止まないらしい。ホルマジオは毛布にくるまり、鳥肌を立てる裸をソファの上で小さく丸める。
 チャイムが鳴った。出るつもりはなかった。ドアノブが壊れて、鏡の側から姿を現したのはイルーゾォだった。
「入るか?」
 毛布を広げる。イルーゾォは部屋の中を見渡し、グラッパの空き瓶、開けっ放しのトイレのドアに目を遣って、ここも寒いなと呟き服を脱いだ。



2013.11.8