赤き涙よ、地獄に流れよ




 ジェラートの昔の部屋の存在は、鍵を預かっていたリゾットも半ば忘れかけていた事柄だった。ジェラートの遺体が見つかったのは、ソルベとジェラート二人の部屋だったからだ。二人には別れることなど必要なかった。一つの部屋があればよかった。ベッドも。それは永遠に。
 夕暮れ時の密かな葬式を終え、事務所に帰ってきたリゾットが鍵の存在を思い出したのはどうしようもない実務の途上、失った二人の部下のわずかな財産を処分しなければと働くのを嫌がる頭を働かせ、考えもまとまらぬままキーボックスに触れていた時だった。ああ、これはジェラートがまだ一人だった頃住んでいた部屋の鍵だ。
「どうした」
 プロシュートが尋ね、鍵をかざして見せる。
「ジェラートのだ」
「さっき漁ってきたろ」
「昔の部屋」
 ペッシ、行ってくれるか、と鍵を渡すとまだ人も殺したことのない若者は一瞬震えて鍵を握りしめた。

「プロシュート」
 翌、明け方のことだった。その部屋にプロシュートはいた。路地に面した窓を開け、水路の湿った匂いをかいでいた。
「結局てめえで出てきてんのかよ」
「お前がいると思ったんでな」
「すれ違いだぜ。ペッシはさっき荷物抱えて事務所に帰った」
「見た」
「見ただけか」
 頷くとプロシュートは珍しく静かに笑った。
 窓の薄明かりの下、プロシュートの手にしている本が見えた。
「聖書?」
「独伊対訳聖書…どうしてこんなもんがある?」
「ジェラートはドイツ語ができた、フランス語も」
 ここでは活かすこともできなかった能力だが。低く呟くと、違いねえな、と聖書を捲りながらプロシュートも呟いた。
「でもどうして聖書だ。あいつは神を信じていたのか? あいつは初めて会った時から何ものをも恐れぬ犯罪者だったろうが」
 ソルベと組んでからは尚そうだった。リゾットは覚えている。信じたものは殺しの腕、自分を殺しかけたリゾットの力量。だが隠し持つものがあったのか。
「この部屋に置いていったってことは、ソルベと暮らすにゃ必要なかったってことだな」
「…そうだろう」
 プロシュートは部屋に転がっていた琺瑯の器に乱暴に聖書を投げ込み、火をつけた。
「天国だろうが地獄だろうが、あいつら二人ならなんとかなるだろうぜ」
 路地に朝陽が射す前に二人で部屋を出た。
「俺が死ぬ時は」
 部屋を封印した鍵を水路に放り、リゾットは呟く。
「事務所の掃除はお前が適任か?」
「馬鹿、リーダーが部下より先に死んでどうすんだ。てめえは最後に死ぬんだよ。俺たち全員が死んで仇全員ブッ殺して俺たち全員弔ってから死ね」
「誰が俺を殺す?」
 プロシュートは心底嫌そうな顔をしてリゾットを睨みつけた。
「んなこた死ぬ前にでも考えろ」
「その時既に答えは目の前に見えている訳だがな」
「馬鹿馬鹿しい」
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
 復讐の相手は決まっている。だが今、その仇をうてそうにはない。絶望は朝陽に隠れた路地の影より暗く冷たい。
「飯を?」
 尋ねると、ワイン、とプロシュートは答えた。
「ペッシが先に持って帰った」
「あったのか」
「地下室で埃被ってたぜ。当たり年じゃあないが…」
「ドイツワインか?」
「シュタインベルガー」
「まさか」
 追悼の杯を朝から干し、昼にかけて少し眠った。起きてみると狭い事務所の数少ないソファや床の上に折り重なるようにして六人が眠っていた。しばらく前までもっと狭かった。二人分。
 今は、七人。
 アイン、ツヴァイ…。数字程度なら諳んじることができる。…アハト、ノイン。いつか(もしかすればそう遠くないいつか)地獄でまた会おう、九人で。



2013.11.8