ストレイ・アンド・スリープ







 何でもない一日が来るように。
 何でもない朝が訪れるように。
「おやすみ」
 と、焚き火の向こうの寝顔に囁いた。
 今夜は穏やかな夜であるように…お前がうなされることがないように、ジョニィ。
 ジャイロ・ツェペリにとってジョニィ――ジョナサン・ジョースターという青年はサンディエゴのビーチで出会ったあの日、憐れな車椅子の少年という以外のものではなかった…と言いたい。彼はそう断言したい。事実、ジョニィが馬に乗ろうとするまではそうだっただろう。ネアポリスの処刑人の一族、ツェペリ家の長男として生まれた彼は厳格な父親から感傷の危険性を常に説かれ、事実それを何度も認識させられ再認識させられ、それでも納得いかず海を越えてこのアメリカ大陸までやって来たのだ。
 全ての不幸を抱え込むことはできない。目に触れてもどうすることのできないものはある。車椅子の上のジョニィは、そして回転の余波で肉体的反応を起こし車椅子から立ち上がったジョニィは、詳しくは診てみないと分からないものの随分立ち上がることのできない生活を強いられてきたのが見て取れたし、熱い偏西風に煽られる裾から覗く脇腹の傷は脊椎の損傷を簡単に想像させた。処刑人であると同時に医者でもある彼は目の前の少年――ジョニィはまるで少年のように見えた。ファーストステージの後、十九だと知り、随分幼く見えることを笑って協力一日目からむくれさせたものだ――と同じように身体の動かなくなった人間も数多く診てきた。虐げられるが故にそうなるのか、不随故に虐げられるのか、ツェペリの診る患者――弱い立場の人々の中にはそのような人間が多かったのだ。ジャイロは祖先から受け継がれた鉄球の技術を持って人の肉体の内部を診ることもできた。そして知識としてだけでなく彼自身の経験として納得した答えは、肉体の不全を受容し生きなければならない生もあるということだ。彼らは命までは奪われなかった。その手には生があり、それを如何に生きるかという選択はもう当人にしかできない。しかしこれだけは言わなければならない。医術とて、鉄球を用いた回転の力とて神の手の万能には及ばない。そこに甘い奇跡を夢見てはならない。
 現実を、ジャイロ・ツェペリは生きている。その中で、自分の手では動かすことが叶わざる物象があることを理解している。故にそれが本物の希望ならば…命を懸けてもよい。
 彼がこのアメリカ大陸にやってきた第一義はマルコ少年を救う国王の恩赦であり、サンディエゴビーチの人の群れの中で出会ったジョニィ・ジョースターは埒外であった。
 しかし彼は見た。ジョニィ・ジョースターは騎乗を決して諦めず、言葉通り這ってでも追い縋ろうとし、老いた馬がこの憐れな少年をスタート地点まで運んだ。スタート前から傷だらけ血だらけの身体、掠れそうな意識を再び燃え上がらせる瞳、鐙を掴んで離さない手。
 ――興味が湧いた。…これは遠い破滅の予兆か?この興味さえオレを破滅に追いやるのだろうか、父上。
 目の前で人間を超えるための意志を固め、動かぬ脚で、馬と共に一歩踏み出した。
 ジョニィ・ジョースター。
 もう当たり前にその名を呼べるようになっていた訳だ。そしてサンタ・マリア・ノヴェラ教会の周囲に用意された出場者用テントの中眠る、十九にしては幼い寝顔と、うなされる様を見た。
 耐えるような唸り声に目が覚めた。気配には勿論敏感だ。苦悶の声にも。患者の異変、すぐ側に眠る馬の異変に気づくのは当然、廊下の角を曲がる前の父親の気配にも気づけるように。
 真夜中と夜明けの中間。太陽は地平の下に潜って光は一条とてない。ランプは消えていた。暗闇の中、ジョニィは襲いかかる悪夢に耐えるように歯を食いしばっていた。歯の隙間から耐えきれなかった唸り声が漏れ、ジャイロを中途半端に目覚めさせていた。
 起こされたことをジャイロは怒ってはいなかった。だが手を差し伸べようともしなかった。五月蠅いと思えば起こせばすむ話。暗闇の中で見たのは十字架を背負ってゴルゴダの丘まで登るかの人のような、俯き、疲れ切った苦悶だった。この苦しみが与える最後の場所まで辿り着かなければならないという諦念…否、さだめのようなものだった。故にジャイロはうなされるジョニィに触れることを思いとどまり、背を向けて眠りについた。苦悶はジョニィのものだった。他人のものに勝手に手をつける教育はされていない、多分。
 それから何度、ジョニィの寝顔を見ることがあっただろう。砂漠の…月の沈みかけた夜、岩陰に隠れて眠った昼。いつかジョニィが目を覚まして自分を見ていたことがあった。ジャイロはその視線に引き摺られるようにゆらゆらと覚醒しそうになったが、ジョニィが見つめるにまかせ眠ることを続けた。あの時、ジョニィは何を考えていたのだろう。この自分は、安らかに眠っているように見えただろうか。ジョニィの寝顔は半分怒ったように見えた。世界のあらゆるものに、何よりも自分の世界の中心たる自分自身に怒っているような顔だった。動かない脚。負け犬の自分。しかしそれら次の一歩を踏み出す活力に転化されそうな怒りの表情さえ覆い尽くし深く沈める苦悶。
 今でもジャイロは夢にうなされるジョニィに手を伸ばさない。やはりその苦悶はジョニィのものだ。鉄球の回転でも悪夢を拭ってやることはできない。だから彼は祈る。ジョニィにおやすみと声をかけ、同じ挨拶を返した少年が横になり瞼を閉じる。その無表情の間に、祈る。
 おやすみジョニィ、夢のない眠りを。今夜が穏やかな夜となるように。明日、また朝がやってくるように。おまえが目を覚まし起き出してこう言えるように。
「おはよう、ジャイロ」
 その言葉を聞けるようにと、祈っている。




2013.2.8