目覚めた世界に魔法をかけて







 陽はおそらく昇ったはずだ。東京を覆う厚い雲の上で。静けさが林立するマンションの間を反響する朝だった。何をするにも憂いような、肌寒い朝だった。愛媛を、不動は思い出していた。十三の春の匂いが掠めた。コンクリートの匂い。古い毛布の匂い。ファストフードの包み紙が北風に乾いた音を立てる。それを踏みつけた春。ボールを蹴った春。コーヒーを淹れようとした腕がだらりと垂れ、不動は冷蔵庫の前にだらしなく座り込み扉を開ける。アルコールに逃げることを覚えた身体ではない。でも今は手っ取り早い憂さ晴らしが必要じゃないか? 亡霊に襲われる前に。影の手が絡みつく前に。
 冷たい手。
 そう、こんな風に冷たい手が首筋にするりと絡みつく前にと思ったんだけど遅かったらしい。不動は振り向かなかった。背中が粟立つ。白い手は猫でもあやすように不動の首を撫で、もう片手が冷蔵庫の扉からミネラルウォーターを取り上げた。
「あけて」
 頬に冷たいペットボトルが押しつけられる。不動が蓋を開けると、私ね、とひんやりしたウィスパーボイスは耳元に囁いた。
「これから八時間、絶対に目を覚まさないから」
「……冬花?」
 振り向いた時、彼女は小さなカプセルを水で飲み干すところで、ミネラルウォーターの透明なしずくが口元から垂れるのを不動は半ば硬直して見つめた。優しい微笑みが消え、疲れに青ざめた首がぐらりと揺れる。咄嗟に腕を伸ばした。ずん、と想像以上の重みがのしかかった。腕でなんとか守ろうとしたものの、ひどく身体をぶつける結果となった。床は倒れ込む二人の体重に派手な音を立てる。
「冬花っ」
 不動は慌てて身体を起こす。仰け反った首が白い。冬花は着替えをしていなかった。コートの下はナース服のままだった。転げたナースキャップが視界の端に見えた。緩んだ髪が雪崩をうつ。汗の匂いがした。疲労の匂いが、かぎなれた首筋の匂いにさえ溶け込み不動の鼻を刺激した。不動は息を止め、頬を近づける。寝息がくすぐる。しばらくその格好のまま、呼吸を合わせていた。
 生きていると確信してからは一気に緊張の糸がほどけ、冬花の身体の上に俯せてしまった。情けない姿に笑いが漏れる。それは昔の記憶と溶け合って言いようのない寂しさを胸の隅々にまで広げた。少年時代でさえ滲まなかった涙の気配を不動は感じた。悔しくて冬花の首筋に噛みつく。冬花は、やめて!と笑い声を立てたり怒ったりはしなかった。胸を掴み、腹に触った。仕事で痩せたのに妙にふっくらしてしまった脇腹を抓んでも冬花は目を覚まさない。
「本当に起きねえのかよ…」
 独り言を呟き、つまんねえの、とは胸の中だけで愚痴る。
 外は風が吹いていた。寒さはコンクリートの壁を越しても伝わった。不動は久遠の車のキーをポケットに入れ、今度こそ両腕で冬花の身体を抱きかかえた。ずしりと重い。体重ではなかった。生きた人間の重さがこれだ。潜水艦からこぼれて沈む人間の重みと同じ。
 マンションの監視カメラにはどのように映っただろう。廊下を進む時も、エレヴェーターに乗るときも不動はせせら笑いを絶やさなかった。ただ一度、地下駐車場で冬花を助手席に乗せようと肩に抱え直した時、頬を掠めたぬるい息と涎に動きを止めた。今この瞬間、不動の腕の中だけが冬花にとって安寧の場所だと自覚した瞬間、また幼い記憶が蘇ったのだった。それで、行く場所が自然と決まってしまった。
 ディズニーシーという場所に、誰かの誘いや(あっても断る)、強引な牽引(つまり久遠親子)もなしに自分の意思で赴いたことは、もう不思議ではなかった。今や腕の中の女は自分の一部なのだと、息をするように思っている。
 ベッドに横たえた彼女のナース服を脱がせようとして、やめた。あれからどれくらい時間が経っただろう。薬を飲んでから。車を走らせてから。時々休んでは寝息を確かめた。ホテルに到着した時はまだ夕方にもなっていなかったはずなのに、ここへ来て冬花をベッドに横たえてからは一秒が一時間のようにも思えたのに、実際には一時間を一秒ほどにしか感じていなかったのかもしれない。
 窓の外の異国の街並みも運河も、オレンジ色のろうそくの灯に似たあたたかい光に包まれて、曇り空はオレンジの花から果実の実るようなグラデーションに染まっている。不動は窓辺に寄って、異国の夕景を見下ろした。魔法の国だ。子どもの頃に見たかもしれない、しかしきっと忘れてしまった光景が眼下に広がっている。
 衣擦れの音。不動はゆっくりと振り向いた。長い髪を垂らして、冬花が心細げに身体を起こしていた。
「あきおくん……?」
 やはり心細げな声が呼んだ。
「来いよ」
「…どこへ?」
「オレの隣」
 冬花はふらつく足で絨毯を踏み、不動の隣に並んだ。ナースの白いストッキングが伝線しているのを不動は見つけた。
「ここは、どこ?」
 イタリア……?とか細く揺れる声。
「ああ」
 攫ってきたんだよ、と不動が悪役の笑みを浮かべると不意に白い腕が伸びて首を絡め取る。息を止めた、次の瞬間唇を塞がれた。
「嬉しいわ」
 不動の首を抱きしめ、冬花はつま先立ちになりながら強く強く抱きしめた。熱い息が滲む。震えるウィスパーボイスが耳の中に転がり込む。
「わたし、嬉しい」
 ここがディズニーシーだと分かっているのだろうか。それとも本物のイタリアと思っているのか。いいや。
 夢の国にいる、だなんて。
 冗談かよ、と思う。ディズニーシーだぜ、とつまらない種明かしをすれば、解ってるわ、と冬花は目元の涙を拭いながら言った。
「夜のショー、見に行こう。明王くん」
「その格好でか?」
「誰も私の格好なんか見ないわ」
 ね、と引っ張る腕に、目が覚めてみればいつもの展開かと思うが、ふと冬花の表情が静まって、明王くん、と静かに呼ばれた。
「淋しかった?」
 バカ、と小声で返し不動は動かなかった。冬花はその場で服を脱いだ。全て脱ぎ終えて不動を抱きしめ、頬にキスをした。不動は彼女の額の匂いをかいだ。やめてと言うかわりに冬花は喉で笑った。
 不動は冬花に服を着せ直し、靴を履かせる。ショーには間に合うはずだった。一つだけ難を言えば、二人とも腹ぺこだったけれども。




2017.1