春、わたしたちの旅路







 現役サッカー選手の膝に頭を載せている、贅沢。
 ローマの三月は東京よりも暖かい。世界の天気図を見ると最高気温に大した差はないようにも見えるんだけど。今朝は冬の名残の冷たい雨が街を洗っていった。厳格な養父がたとえ休暇中だろうとも一日一時間の換気を絶対的に実行する為、リビングには雨の匂いを残す風が遠慮なく吹き込む。窓から見える向かいのアパートの白い壁に朝日が反射して眩しい。ロードワークから帰って来た男はシャワーを浴びてぽかぽかした身体をソファに沈めている。
「何か飲む?」
 そう尋ねたのに手招きをされて猫よろしく膝の上で愛玩されてしまった。頭まで撫でて。
 でも、贅沢。
 突然どうしたのかしらと問う言葉もふにゃふにゃした息に溶けて吐き出されるだけ。男の膝は運動の熱とシャワーの熱の混じり合った快適な枕だった。彼女に文句があろうはずはない。
 三月の休暇。家族の家のある東京から八時間の時差を越えてローマへ。春休みを利用した、久遠一家半年ぶりの集合だった。十日間の滞在。その間に明王の所属するローマはコッパ・イタリア準決勝の第一戦を勝利した。今は静かな時間が流れている。久遠道也と冬花を玄関に迎え入れて、部屋が狭くなったと明王が唇を尖らせてからもう一週間と思うと、なんてあっという間だろう。残り時間をカウントダウンするのは淋しいから、冬花はめいっぱい明王に甘えることにする。本当は自分が甘やかすつもりだったのに。
 明王がイタリアで一人暮らしを始めてもう六年。繋いでくれるテレビ電話が、毎日のメールが時差を縮めてくれる。いつの間にか人生の半分を兄弟のように分かち合った二人。血の繋がりはないけれど、お互いに心の一部を交換して預け合って。離れていても、胸の中にある明王の心のかけらがニヤニヤ笑って冬花を励ましてくれる。冬花の心のかけらはいつもイタリアで声援を送っている。
 けど、今、触れ合ったお互いにお互いが足りない。もっと話したいことがあったはず。もっと行きたい場所があったはず、なのに。石畳の路の先。カンポ・デ・フィオーリの朝市。夕食前にバールでエスプレッソを一杯。夜更かしだって、ベスパの二人乗りだって。
「もっと、一緒にいられたら……」
 冬花は手を伸ばし、明王の顎の下をくすぐった。
「引っ越すか? 家族全員、イタリアに」
「明王くんはイタリアに骨をうずめるつもりなの?」
「さあな」
 明王はがら空きになった冬花の脇をくすぐって笑わせた。
「来年はロシアのリーグにいるかもしれないぜ」
 きゃらきゃらと光の粒のように笑いが零れる。
「寒いところは嫌」
「じゃあ、どこがいい」
「……どこでも」
 首を傾け、明王を見上げる。
「明王くんがいるところなら、どこでもいい」
「矛盾」
 鼻を抓まれる。冬花はまた笑う。調子に乗った明王が両手でくすぐりにかかった。逃げられない。冬花は声を上げて笑う。身を捩らせながらも明王から離れようとしない。
 久遠道也。冬花。そして明王。孤独で傷ついた魂を一つ一つ集めて一つの屋根の下で育てた血の繋がらない家族。弱さを知っているから強く優しく育った。今ではそれぞれの目標に目を据えてそれぞれの足で立っている。心地よい距離感を互いに知っている。胸の奥底に秘めた謎は謎のまま、時には支え合い、たまにはこうやって甘やかしたりなんかしながら。
「どうしたんだよ、冬花」
 うぅ……、と冬花は唸り、日本……、と呟いた。
「帰りたくないなぁ……」
「買い物たっぷりして帰れよ」
「イヤ」
「じゃあここにいろ。日本の病院には電話で退職届出して」
「ダメ」
「ワガママだな」
「一瞬だけ、許して」
 伸ばした白い腕でぎゅっと抱きしめる。強い身体。かすかに汗の匂い。シャワーよりも熱い体温。心臓の鼓動が聞こえる。
 不安定に抱きつく冬花の身体を力強い腕が支えた。長い髪が背中に払われ耳がひやりとした風の中に晒される。ふ、と熱い息が触れた。
「ゆるす」
 明王が囁いた。
「ゆるしてやるよ、冬花」
 冬花は明王の心臓の上に顔を押しつけて、囁きに頷いた。
 俺もな、と明王は言葉を続けた。
「お前と行きたいところがある」
「……どこ?」
「スペイン」
「移籍するの?」
「いいかもな」
「私、イタリアも好きよ」
「旅行でもいい」
「どこへ」
「バレンシア」
 頭の中で音が轟いた。炎の崩れ落ちる音。冬花は指先に力をこめ、明王にしがみつく。喉の奥が喘いだ。あきおくん…、と細く途切れそうな囁きを抱き上げるようにして、ほら、と明王は冬花の身体を膝の上に座らせ顎でしゃくった。冬花は怖々後ろを振り向いた。
 テレビの中に燃える炎。スペインからの中継映像。花火と爆竹と、炎に包まれた巨大な人形。
「ラス・ファリャス……」
 冬花が字幕の文字を読むと、そ、と明王は冬花の胸に首を傾けた。
「バレンシアの火祭り、知らないか?」
「……知ってるわ、私……」
「俺も知ってる」
「明王くん……」
「…そんな目で見るなよ」
「私が…どんな目をしているの…?」
「泣くなよ」
 泣いてなんか、と早口で答えかけた唇が塞がれた。一瞬のことだった。唇を涼しい風が撫でた。明王の唇を冷たい吐息が撫でた。
 目元を明王の指が撫でる。冬花は目を瞑る。頬が涼しい。本当に泣いているのかも。でも明王もそうだ。自分を見上げる張りつめた大きな瞳。まるで不安を抱えた子供のようだった。台風明けの愛媛で出会った少年の不動明王のようだった。冬花は両手で不動の頬を包み込み、目を伏せたまま微笑んだ。
 わざとらしい咳払い。夢から覚めたように目を開けると両脇に買い物の袋を抱えリビングのドアを足でこじ開けた厳格なる父が仁王立ちしている。
「明王…」
 低い声が床を這う。
「俺の娘に何をする」
「俺だってあんたの息子だろうよ」
「お父さんったら、やきもち焼かないで」
「冬花、これはやきもちじゃない」
「しょうがねえなあ、来いよ道也、抱いてやるぜ」
「明王!」
「お父さん、お酒の匂い。一人で朝市に行ったのね。リキュールの試飲をしたんでしょう。ずるい」
「ずるくはない」
「ずるいのはお前たちだーって顔してるぜ」
「していない」
「もう、こっちに来て、お父さん」
 両側から頬にキスを。滅多にないサービスだ。久遠はうむむ…と唸って床の上に買い物の包みを下ろす。
「……お前たち、何を飲む?」
「いいからさ、道也、こっち来いよ」
「何だ」
「旅行の計画」
 明王は冬花をぎゅっと抱き寄せてソファの端に寄り、隣をぽんぽんと叩いた。
「俺、家族で行きたい所があるんだよ」



ゆうひさんへ、お誕生日おめでとうございます。
『長距離電話にコーヒーを』を書いた時、サン・ホセの火祭りの日がゆうひさんのお誕生日とは知りませんでした。
(というか、これを書いたのはゆうひさんと知り合う前ですね。)
と言うわけで、ふどふゆ完結編の流れから外れていた「くどふどふゆ養子設定」の一つのまとめとして、こちらのお話を捧げます。

2016.3.19