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ウィ・アー・ボーン・トゥ・ラヴ







 遠く道の終わりにばかり焦点が定まって他の景色はなんだかぼんやりした白と灰色の塊だった。でもだからこそやさしい羽毛のような触り心地で、しばらく私は恐怖を忘れて道を進んだ。忘れたのは一時の恐怖ではなかった。生まれてから今日までの心の奥より湧き出でて湿地を作っていた恐怖の、の全て。私が隠してきたものの全てだ。
「お父さん」
 と、隣を歩く冬花が付け加える。私が忘れて葬り去ろうとした怖いもの恐ろしいもの全部も今、変わってしまったの。私は今寂しくてとても穏やかな気持ちよ。私は私が生きてきたことを後悔しないわ。
 全てが深い眠りに落ちる寸前の夢だった。私はそれを小さな声で呟いていたのかもしれない。私の思いも冬花の言葉も。炬燵の向こうで気配が目覚め、私は夢の中よりも小さな声でお父さんと呼ばれた。しかし心細く支えられた半身は隣から伸びてきた腕に抱き取られ、すぐに見えなくなった。炬燵の小山のような影の向こう、不動が小さく「起きたのかよ」と私の娘に尋ねていた。頷く娘の返事が私のことか、私ね寝言に引き起こされた娘自身の覚醒についてかは判然としない。ただ不動は黙って疲れた娘の首のために腕を差し出し、枕を得た私の娘は目元で、口元で、そして心でもって微笑してぶっきらぼうな婚約者に感謝を返した。私はそれを天井から見下ろしていた。炬燵からはみ出た半身にこれでもかと毛布をかけられた私の身体は既に深い眠りに落ちていた。私も強烈な眠気を感じた。ぐらりと傾いで頭から真っ逆さまに眠りに落ちる。
 眼下には白い道が伸びている。地平線に辿り着く前に、道は終わっていた。短い夏の草原を抜けてエゾ松とブナの小さな森を作る先、煉瓦造りの建物が濃い灰色に見える青空を背に聳えていた。私は、そうだ、私は、恐怖を捨てたと思い込んでいた私は北海道の草原をよぎる道の真ん中で娘と二人置き去りにされて、ようやく捨てたと思っていた恐怖と離別したのだ。私は私の娘である冬花の為なら何でもしようと、細く、白く、柔らかな手を握りしめて祈った。私は祈った。誓ったのではなく、遠くに聳える煉瓦造りの建物に向けて祈った。それが修道院だと知ったのは北海道を去り東京のマンションに戻ってからだ。このマンションに帰り、私は洗濯機を回し、冬花は私のパソコンであれが修道院だったと突き止めて私に教えてくれた。
「お父さん」
 と冬花は呼んだ。
「じゃあ私達を次のバスまで案内してくれたあの牛も神様のおつかいだったのね」
 私を羽毛のように包み込んだ白黒の塊は牛だったのか。
 翌朝、幾重にも重ねられた毛布の下で私は寝汗をかいて目を覚ます。炬燵から出る際、硬い足に触れて一度びくりとした。不動を起こしてしまったのではと息を止め待っていた。しかし二人はまだ微睡みの中に留まっている。陽の射さない夜明けに目覚めたのは私だけだ。毛布の小山から抜け出てセーターとTシャツを脱ぐ。汗の匂いのするそれを洗濯機に放り込みスイッチを入れた。洗濯機に背を預け、灰色にも見える薄明かりの中で私は自分の手を見下ろす。擦り合わせた掌はあの頃ほどの水気を失ってガサガサと音を立てた。
「不動」
 私は呼びかける。あの夏、北海道の真ん中で娘と繋いだ掌に生まれた汗はお前に受け継がれた。今度はお前が「何でもしてやろう」と祈る番だ。冬の朝、私は気づく。私は愛するものを手に入れたのだ。本当の意味で。私は彼らなしに生きることができなければならない。彼らを手放しても私は幸福にならなければならない。今の私にはそれができる。冬花と不動の間に生まれたものが私の中に息づいている。これからの人生が長かろうと、あっと言う間に終わってしまうものだろうと、全ての瞬間に二人が生み出したものが自分の身にも宿っていると感じるだろう。私は愛されていた。愛されている。二人は私を父と呼び、とうとう「おじいちゃん」と呼ぶことまで決めてしまった。
 ゆっくりと床に座り込み、目を閉じる。二度寝のような安らぎが全身に満ちる。全ての輪郭は曖昧になり、道の遠く地平線に近いあたりばかり焦点が合う。あそこに風が吹いている、と私は繋いだ手に教える。もうすぐあの風がここにも来る、と。



2015.8