秋の海月







 急に冷たくなった風が正面から吹きつけて不動は目を細めた。ロンドンの秋は雨が多く、今日もついさっきまで降っていた。屋内練習を終えて、さてどうやって帰ろうかと悩んでいる間に雨は止み、強い風が雲を次から次に押し流す。雨と風に洗われてしまったかのように、夕方の空は晴れた。しんと冷えた、澄んだ空。
 日が傾いて両脇のビルの影が長く伸びる。その中から見上げると、空はまだまだ明るく淡いラヴェンダー色の空に一足早い月が見えた。丸くなりかけの、クラゲのような月。それこそ昔の話だが、クラゲのような月と言われると不動はこのくらいの月を思い出したものだ。クラゲの傘を横から見た時の、丸みを帯びた、真円には満たない形。後になればクラゲを上から見たまん丸の形をこそそういう風に表現するんだろうと気づいたが、愛媛の、住宅街の坂を上りながら見る月は、この形こそクラゲのような月だったのだ。
 父親が定時で帰ってきて、母親が自分のために童話を読み聞かせてくれた頃の話だ。不動の心は間に横たわる恨みの季節を跳び越えて、純真だった頃の自分の思い出にタッチした。不意に足が軽くなり、石畳の歩道を足音を鳴らして歩く。
 軽くなった身体が、とにかく何かに、と不動を行動に駆り立てる。ウィンドーの飾り付けに誘われて入った酒屋でワインの白を買った。アルコールは意外とやらない。飲んでもエールくらいで、それもチームに入ってから慣れたものだが。
 これは美味そうだ。
 そう、期待した。フラットの階段を爪先で跳ねるように上りながら、ワインを見せての第一声を考える。いや、特別何も言うことはない。特別なことなど何もなかった。ただ、クラゲのような月が昇っただけ。食後にさりげなく出してやろう。今夜の食事当番は…久遠か。
 玄関を開けてただいまを言うと、台所から久遠が顔を覗かせる。微笑み、囁くような声でおかえりを言われた。玄関にはまだ濡れて湿ったレインコートが掛かっていた。冬花のものだ。今日は仕事は休みだったはずなのに、外に出掛けたのか…。ああ、週末の医療ボランティアだ。
 レインコートは重たく濡れている。不動はワインを抱えたまま、冬花がいるのだろうリビングを覗いたが、そこに彼女の姿はない。台所に引き返すと、久遠がちらりと振り返った。
「遅かったな」
「寄り道した。冬花は」
「疲れて寝ている」
「仕事の休みにボランティアとか、休む暇がねーだろ」
「あの子の性分だ」
 と言う久遠の声は少し嬉しそうで、娘として育ててきた冬花のそういう性格が親としても誇らしいのだろう。
 飯、食ってねえんだろ、と尋ねると冷蔵庫を指さされた。新しいメモがマグネットで留められている。
『プリン食べました。ごめんなさい』
「…いいけど」
 不動は苦笑すると冷蔵庫の扉を開き、中身を物色した。
「もうすぐ出来るぞ」
「うん」
 それでも何かつまもうとすると頭をこつんと叩かれた。もう料理は皿の上だ。諦めて冷蔵庫を閉じようとして、ああ、と振り返る。ワインを中に収め、ようやく扉を閉じた。
「夕飯、二人とか久しぶりじゃね?」
「そうか」
「冬花と二人ってんならあったけど」
 あんた仕事遅いし、と爪先を蹴ると、行儀が悪いぞ、と窘められる。相変わらずそういう時の口調は監督然としている。
「さっきのワインは」
「ああ。後で飲もうぜ」
「何かあったのか」
「何も」
 十月も一週目の週末に雨が止んで空が晴れた。クラゲのような月が出た。それだけだ。
 窓の外はあっという間に夜の気配を濃くした。深く澄んだ群青色の空に月が浮かぶ。向かいの屋根の上。いつもよりぼんやりと大きく見える。淡い蜂蜜色の月。
 皿が空いたのを見計らって不動はワインを出した。自分はグラスに半分。久遠にはたっぷり注ごうとすると、いい、と同じくらいの量で止められた。
 早速グラスを傾ける不動に
「乾杯しないのか」
 と久遠が言う。
 ふ、と不動は目を見開き、ぱちくりさせて、それから自然にふにゃりと崩れてしまった表情を皮肉で覆い隠す。
「あんたがそんなこと言い出すなんて珍しいの」
「何かあったのかと思ってな」
「何もねーよ。普通の十月七日。いつも通り。いつもの日曜。何も…」
 窓の外に視線を向ける。
「変わったことなんかねえじゃねえか」
「そうか?」
 久遠は不動のグラスに自分のそれを触れさせて、乾杯、と呟き一口呷った。
「月」
「うん?」
 不動が呟くと、聞き返す声。
「見るのも久しぶりだよな。ずっと雨ばっかだったから」
「仲秋の名月も過ぎたか」
「あ、冬花が団子作った日か」
 その科白を言った不動を、久遠はやけに優しげな瞳で見つめてくる。何だよ、と思ってまた窓の外を見ると月は少しずつ昇っていて、今は蜂蜜色の光も白に近い。しかし、それでも綺麗だ。十五夜ではなくても綺麗だと思える月。
「変だな」
「変…?」
「あんたと月なんか見てる」
 音を立てずに爪先を触れ合わせると、相手の靴が擦り寄るのが分かった。
 薬指に指輪をした左手が髪の生え際を撫でる。不動はそれでも尚、月を見上げていて、しかし指先が柔らかく耳にかかった時、瞼を伏せた。キスは鼻先に降った後、唇に触れた。
 ワインはまだ少ししか口をつけていない。皿も片付けていない。明るい台所は、もしかしたら窓の外から丸見えだったかもしれないが、わざわざフラットの四階を覗く者などいるものか……、いや、いるかもしれない。不動は時々パパラッチに追いかけられている。
「後で」
 相手の鼻に噛みつき、不動は笑った。
 皿を洗っていると冬花が起きてきて、ちょっとだけ何かちょうだい、と言う。
「こんな時間に食うと太るぞ」
「その分動いてるから問題ありません」
 今更になって娘を甘やかす父親は冬花の為に取り分けておいた皿を出す。
「ありがとう、お父さん」
 冬花はさっきまで不動が座っていた席につき、トマトのスープを飲みながら、ふと窓の外を見て。
「晴れてる…」
 スプーンを置くと窓ガラスにひっつかんばかりに顔を近づける。月は窓枠の上に消えてしまった。
「星がいっぱい…」
 冬花は溜息をつくように呟いた。
「いつの間にか知らない空になっちゃったわ」
 久遠も空を見上げ、見知った星座を探す。アンドロメダ、年中沈まぬカシオペア。二人の会話を聞きながら不動は些か満足げに瞼を伏せる。月はオレたちだけのもの。そのかわり、冬花にもワインを出してやろう。



2012.10.8 またさけるさんのお誕生日祝い(遅刻)。