音楽と夜のあわいの悪魔







 永遠の持つ恐怖は青春の輝き、その一瞬に等しい。等価を知るものはそのどちらも選ぶことができる。故に後者を選ぶのは彼女が悪魔だからであり、人間が敢えて前者を選ぶのも決して笑われるべきことではなかった。恐怖を敢えて選ぶからこそ、人間の輝き、美しさ、その魂の魅力はある。悪魔にそれはない。
 ノンポリという言葉も古いね、と彼女は渡り鳥に姿を変える。黒い燕尾服の紳士、いささか古風ななりだがこれから向かう場所には丁度良い。ワルシャワのコンサートホールは似たような格好の人間でごったがえしていた。世界中から集まった人、人、人。好奇心、音楽への愛、この中で本当に時間に風化することのない芸術を理解している者はどれだけいるだろう。それが一握りでもいるから、神はいましばらくこの地上を見捨てないのかもしれない。
 ――いいえ、いいえ、あれは気まぐれな奴です。
 渡り鳥は階段に降り立つと窮屈な黒い燕尾服に女の身体を押し込め、少々気取ったていでホールに入り込んだ。
 何時間にもわたって流れるショパンの調べ。その一つ一つを吟味し、最高の芸術に最高の栄誉を与えるには人間は欲深すぎるが、舞台の上で鍵盤を叩く指に罪はない。渡り鳥はそれを知っている。その一瞬の輝きをこそ、私は愛します。さあ次の出番は日本人だ。
 ああ、その瞬間に恋をした。革命のエチュードが流れ、燕尾服に包まれた仮初めの肉体は闇に溶けて黒い影の渡り鳥がホールの高い天井を旋回した。しかし誰がそれに気づくだろう。嵐のような革命、魂が歌うとすれば、魂が涙を落とすとすればこんな音ではないだろうかというピアノ。
 まさしく神童だ!
 悪魔は舞台袖のカーテンに滑り込むとがたがたと震える。私の永遠の時間はこのためにあった。このピアノを聞くために、このピアノを弾く人間に恋をするために。全てを捧げても彼の魂に触れるために!
 少年の演奏が終わっても、ホールを割れんばかりの拍手が包んでも、悪魔の耳には届かない。燕の変装が解けて神を模した肉体の、背にはいっぱいの黒い羽を纏いながら自分の格好に頓着することもできず耳の奥で渦巻いて消えないピアノに耳を傾ける。少年は放心したように舞台から下り、袖のカーテンの影に姿を隠した。
 ――泣いています…!
 少年は泣いている。涙が流れている訳ではないが、心の奥から魂が感涙に震える声を悪魔は聞いた。少年はスタッフの差し出したコップ一杯の水を飲み、淡く微笑む。神がその本当の名を現す時大天使でさえ目が潰れると言うが、恋に落ちた憐れな渡り鳥には少年の青春は眩しすぎて、その場で昏倒してしまったのだった。

 夕暮れのワルシャワを渡り鳥は飛ぶ。ホテルの上空を旋回し、その一角に少年の姿を見つける。窓辺で電話する少年。あのピアノを弾いた手が受話器を握り、遠い空に言葉を伝える。その声さえピアノの音に聞こえて、渡り鳥は陶酔しながらうっかり窓ガラスにぶつかりそうになる。
 ――私はあなたを追いかけますよ!
 窓辺に舞い降り、オレンジ色の室内、ようやく安堵し瞼を伏せた少年の寝顔を見つめ、渡り鳥のくるくるした瞳で悪魔は笑う。永遠の恐怖、モノトーンの退屈と等価の輝きを発見したのだ。人間が悪魔と契約するのにその魂を差し出すように、悪魔もその恋に自分の永遠を費やす。
 ――故に、魂の契約書は必要なのです。
 渡り鳥の嘴が、コツ、コツ、と窓ガラスを叩いた。少年の瞳が開いた。

          *

 風が吹き込む。ワルシャワの空を吹く晩秋の風。冷たく、懐かしい匂いのする風。窓なんか…、開けていないのにと振り返ると揺れるカーテンの向こうに人影が見えた。ここは地上十三階なのに。
「よう」
 懐かしい風に耳慣れた声。違う、懐かしくて、今受話器の向こうから聞いたばかりで、今また聞きたくてたまらない彼の声。強い風がカーテンを巻き上げる。その向こう、日に焼けた肌とにやりと笑って自分を見つめるぎょろりと大きな瞳。
「倉間…」
「来てやったぜ?」
 倉間は…倉間の姿をしたそれは床におりると、膝の埃を払う。古風ななりをしている。燕尾服、だなんて。どうしてそんな格好をしているのだろう。いや、何故ここにいるのだろう。さっきまでワルシャワと東京の国際電話をしていたはずなのに。いや、違う、ここはホテルの十三階だ。窓から入ってくるなんて鳥でもなければ…。
 驚きのあまり声を失い棒立ちになっていると、倉間らしきその姿はやけに陽気な足取りで神童に近づいた。
「会いたいオレが、会いたいと望んだお前に会いに来たのに…」
「倉…間…?」
「オレだよ、拓人」
 その瞬間、目の前のそれが倉間ではないと気づいたが、気づいた時には遅くて勢いよくベッドに押し倒されている。蓋が開いたままのスーツケースが床に落ちて、どすんと音を立てた。
「勘がいいな、もう気づいたのか。でもオレはお前を逃がさないぜ、神童拓人」
 頬を紅潮させた倉間…ではないそれは神童の上に馬乗りになったままニヤニヤ笑って見下ろし、暑そうにネクタイを解いた。
「お前のピアノ、素晴らしかったよ」
「…分かっている」
「自分の価値を知る人間はいい。だからオレはお前に恋をしたのさ」
 すると神童の顔にさっと赤みが差して、それは…悪魔は倉間の顔で大口を開けてげらげらと笑った。
「な、効果は抜群だろう。オレは恋する悪魔だ、神童。お前の望む姿をしていられる。お前が望んだからこそ、オレは倉間、典人、だ」
「やめろ…」
「こんな楽しい事やめるものか。お前の魂をいただくついでに、恋も成就させてやろうってのさ。良心的だろう。悪魔のサービスってのはいつも回収待ちの投資だが、けどオレはそんなことはしない。お前に恋をしている。オレはお前にオレの永遠を捧げるよ、神童」
 そう呼ばれると本物の倉間が目の前にいるようでくらくらする。そっくりだ。見分けがつかない。どんどん倉間そのものになっていく。窮屈な燕尾服を脱ごうとする姿も、シャツのボタンを外す仕草も…。手に入る? 全てが? 悪魔との契約が実在することを、神童はもう疑っていない。超次元サッカーも化身もタイムトラベルもある世界だ。今更悪魔程度で驚くものか。しかし…。
 耳の奥に残る倉間の声。お土産の約束。ここは東京じゃない。旅先のワルシャワ。ピアノコンクール。オレの演奏を聴いて欲しい人は皆、東京にいる。だから、オレは、日本に、帰るんだ…。
 その時、電話が鳴った。ホテルの電話ではない。携帯電話がスーツケースの中身の散らばった中から音を立て、メールの受信を知らせる。特定の受信音。
「倉間…?」
 神童は呆然と呟き、ベッドからずり落ちそうになりながら床の上で光る携帯電話を見つめる。馬乗りになった悪魔の倉間が悔しそうな顔をする。恋路に邪魔はつきものなのだ。それが運命のものであれば尚更。
 とうとう神童の身体は床の上に落ちて、シャツや着替えを掻き分け携帯電話を手に取る。絵文字のせいで普段の喋りより少しテンションが高そうに見える倉間のメール。
「倉間…」
 その小さな画面に囁きかけると、ベッドから溜息が聞こえた。悪魔だった。一羽の燕がかくんと首を垂れ、溜息をついていた。
「オレは諦めないぜ、神童拓人」
 燕は倉間の声で言うと、窓の外へと飛び出した。街の上空を旋回する。二度、三度。幸福な王子の清らかな心根に惚れてその街を飛び去ることができなかった、どこかの物語の燕のように、未練を残して弧を描く。それが、ふっ、と消え。
 気づけば窓の外は夜になっていた。ワルシャワの街に明かりが灯る。後にレストランで聞いた。この街で越冬する燕はいないそうだ。不意に気になって神童はレストランを見渡したが、燕尾服の倉間を見つけることはできなかった。メールで「着るなよ」と言うと、「訳分かんねー」と答えられた。



2012.9.7